◎相手の手法へすばやくスイッチ 交換可能性を高めて匿名化
伊藤亜紗(レビューハウス編集長)
手塚夏子にとって、からだについて追求することと、イベントを開くことは、連続した欲求に駆動されている。彼女は「からだの前提を壊したい」とくりかえす。踊る側も見る側もからだをもっている。からだには履歴があり、普段どんな仕事をしているか、どんな椅子にすわっているか、何に緊張してきたか…に応じて、個々のからだは、それ固有の許容範囲や判断基準、正しさを、文字通り「身に」付けている。前提を壊すことは、身に付いているものを服のように脱ぐ作業である。からだそのものは脱げないが、脱げる部分もあり、つまりそのからだのうちの脱げる部分を「前提」と、手塚はそんなふうに呼んでいるのかもしれない。脱ぐため相対化するために、他者流のからだの動かし方の論理を厳密に知るという積極的な観察を一方でおこない、他方、「作品」をつくろうとしないこと、まとめるより可能性を拡散させること、実験精神といえば聞こえはいいが、無一文のような勇気を彼女は持っている。(特に「作品」をつくろうとしない彼女の勇気は崇高である。それは公演が失敗するリスクのことではなくて、観客にショックや不安、ひどいときには吐き気を与えてしまうかもしれない危険な領域までをも、基本的にはエンターテインメントである公演というものに許容させてよいと信じる孤高さである。)
会場となった渋谷にほどちかいマンションの一室は、かつて王侯貴族のあいだで流行した「驚異の部屋」もかくやという標本空間である。剥製のオオツノジカやイノシシの頭と脚でできたテーブル、クロコダイルの模型、時代がかったワインなど奇妙なものが陳列され、それらの珍奇品と同じように役者もまた陳列される。物量がふえるのと同時に空間はますますちぢんでいくようにみえるが、もともとこの空間は何かの誤りであるかのようにせまい。背筋をのばせないほど天井が低いのに役者は頭におおきなかぶりものをしており、たちまちスカートやクロスに引火しそうな燭台をもってウロウロと歩き回っている。
神村恵カンパニーの作品について何度か書く機会をいただいているが、今回の『どん底』については、神村自身の体について書きたいと思う。というのも、5人の女性ダンサーによって踊られた今回の作品は、並んだ時にひとり神村だけ頭一つ分背が高いという見た目の際だち以上に、カンパニーで活動を始めて以降の神村が、抑制してきた、ないし挿入的な役割しか与えてこなかった、地面を蹴るような激しい動きに、積極的な役割が与えられていたからである。つまり、神村の体がどうしようもなく抱え込んでいたある種の動きが、素直かつ忠実な仕方で解放されており、5人のダンサーが、それぞれの体なりの仕方で、その動きの論理を遂行しているように見えたからである。
ダムタイプのダンサー川口隆夫とホーメイ歌手山川冬樹が2004年の初演以来国内外で再演を重ねてきた作品「D.D.D.」の日本ファナル公演。パフォーマー二人の実力に対する絶対的な信頼とカリスマ性、そして「封印宣言」というべきか「解散ライブ」というべきか、いずれにせよ伝説化を匂わせる事前の触れ込みが相まって、観客席は開演前から異様な興奮に包まれていた。
これまで砂連尾理(じゃれお・おさむ)とのコンビ、通称「じゃれみさ」をベースに活動してきた京都在住のダンサー、寺田みさこのソロ公演。余談だがダンスの公演は怒濤のように2-3月に集中しており、逆に年度替わりの4-5月はシーズンオフなので(助成金など公演運営上の都合らしい)、6月に入ってようやく本格的に始動してきたという感じだ。
本日の「ショー」会場は何と温泉施設内の大広間。障子戸を開けると意外にもなかは温室のようでガラス張りから冬の陽光が差込み、とはいっても中庭越しに否応無く目に飛び込んでくるのは酔っぱらったじいさんばあさんのまったりとした雑魚寝風景である。ダンスをアートとしてしつらえるなら排除するであろう、あらゆる猥雑さに満ちた寛大な空間。「携帯電話、アラーム付き時計など、その他音の出る機械はどうぞご自由にお使いください」とのアナウンスに始まり、横に長い舞台はもちろんカラオケ仕様、袖と舞台を区切るのはビロードの布などではもちろんなく、歌磨か何かがプリントされたひょろ長い暖簾である。