神村恵カンパニー「どん底」

◎足の裏とリアリティの複数性
伊藤亜紗(ダンス批評)

「どん底」公演チラシ神村恵カンパニーの作品について何度か書く機会をいただいているが、今回の『どん底』については、神村自身の体について書きたいと思う。というのも、5人の女性ダンサーによって踊られた今回の作品は、並んだ時にひとり神村だけ頭一つ分背が高いという見た目の際だち以上に、カンパニーで活動を始めて以降の神村が、抑制してきた、ないし挿入的な役割しか与えてこなかった、地面を蹴るような激しい動きに、積極的な役割が与えられていたからである。つまり、神村の体がどうしようもなく抱え込んでいたある種の動きが、素直かつ忠実な仕方で解放されており、5人のダンサーが、それぞれの体なりの仕方で、その動きの論理を遂行しているように見えたからである。

ただし、神村の動きの論理を他のダンサーが遂行するといっても、一般的な意味でのトップダウン的な振り付けではなかったはずである。むしろ、トライアルとしてトップダウン、つまり神村の論理に個々のダンサーを向き合わせるという作業だったのではないだろうか。当日配られたプリント上で、個々のダンサーに対して、神村作品についてどのように見ているかという旨のアンケートがなされていた。このことは、一つの証拠でありアピールではないだろうか。

その動きは、中盤ごろ、BankART1929のフラットなスペースをそのまま利用した舞台の後方にて、突然神村のソロとして演じられた。ほんの数分だったろう。それ以前にも似たような動きが他のダンサーによって演じられてはいたが、神村のそれは決定的だった。足をシャベルに見立て、まわりのを地面をめくらめっぽうに突き刺しまくる、とでも形容できるだろうか。うつむいて、前や後ろに足を出しているのだが、足が地面から反動を受け取ると同時にその反動をひきちぎってしまい、そのためにふらつく体を支えるために、次の一歩を出している、そんな動きである。どの一歩も地面を蹴っているというよりは叩いているように見え、軽やかだがリズムはひきつっており、足がもつれるまでスキップをしている人のようでもある。私にとってはこれがダンスだ、と言いたいほどすなおな驚きにつつまれながらも、ジャンプしつづけるその持久力にはどこか空恐ろしいものを感じた。

「どん底」公演
「どん底」公演

「どん底」公演
【写真は「どん底」公演から。撮影=松本和幸 提供=STスポット 禁無断転載】

うさぎ跳びをしたり、四つん這いで進んだり、テクニックぬきのダンスを作っているように見える神村だが、その激しい動きは、まぎれもなくテクニックに支えられていた。超絶技巧といってもいい。テクニックは体に暗部をつくる。ペン回しでもなんでもいい、それは自分の体がなしているにも拘らず説明不可能であるという、トランシーで不気味な暗部に支配された体の運動である。暗部を見せられるから、まるで内蔵の動きを見せられるのに似た空恐ろしさがある。体の表面と内部がひっくりかえって、暗部が外側にさらけ出されてしまっている状態。あくまで見ていた主観にすぎないが、神村のばあい、暗部は「足の裏」に集約されているように思える。

足の裏は、体のコントローラーである。それは体の重みを、まず左足と右足に分け、右足のなかでも指とひらの部分に分け、ひらの部分でもかかとと土踏まずとへりと指の付け根の踏ん張る部分に分け、踏ん張る部分でも親指に近い部分と小指に近い部分に分ける。つまり足の裏は、一見するとひとつの器官に見えるが、それぞれが体の重みをうけもつ集合体のようなものであり、各部分体がそのつどうけもつ重みの割合を変えることによって、重心の位置が逐次的に変化していく。その重心の変化にひきずられるようにして、上に乗っかっている体全体の位置が変化していくのである。

足の裏を構成する諸部分が重さを激しく奪い合った結果が、あの激しい動きになっているのではないか。観客は、いわばかつがれた神輿の部分だけを見ているようなもので、体が、足の裏によって運ばれているのである。体の動きよりも足がすばやく、バランスが定まらないまま、重心は上下左右にさまよいつづける。とはいえ、「足の裏が体を支配している」などということは、原理的にはありえないのだから言ってみても意味がない。人が体に対してもつイメージを操作することはできるかもしれないが、説明としては不十分である。

おそらく、神村にとって、足を床にうちつける運動がどうしようもなくリアリティがあり、つづけることに快感があり、それだからこそ発達し、人の追随をゆるさないほどのテクニック、技として深化したのだろう。つまりテクニックであればなんでもいいというわけではない。自分にとってリアリティのある運動を追求した結果が、テクニックのようになっているのである。同じ超絶技巧でも、バレエのそれがたとえば「ポワント立ち」のような習得すべき課題が外部から与えられているのとは、この点において決定的に異なる。逆に言えば、ここにあるのは、どんな動きでもその人にとってのリアリティを追求していけばテクニックになる、という次元である。こうなると、「動作」と「超絶技巧」はただ強度の違いでしかない。

人にとって、自身の体の運動のリアリティは、個人的で理由のないものである。同じコップを持つという動作でも、たとえばそこに込めている力は、かろうじてコップが持ちあがる力からコップを砕いてしまう力まで、人によってだいぶ差があるのではないか。コップを持つという単純な動作でさえ、それが意味する体の状態が人によって全く多様であるほどに、体は相互に完全なエイリアンである。まったく異なる言葉をしゃべっているのになぜか通じ合っている、そんな状態かもしれない。どのような動き方がしっくりくるものであり、座りがよいか、というリアリティのポイントは体の数だけ存在する。たとえば私は、クロールはいまだにできないが、平泳ぎは一発でできた。多くの人が苦手とする、あの複雑な足の返しを一発でできる体を私がもっていたということは、まったくの偶然である。たまたま私の体のリアリティが、平泳ぎの運動にそぐうものだっただけである。

神村のダンスは、偶然的で理由のない、体の数だけあるリアリティのうちのひとつが、超絶技巧にまで高まったものに見える。この超絶技巧に他の体を向き合わせる方法については、まだ追求の途中であるように見えるが、暗部を表に返すようなあの数分に、たまらなく興奮した。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド 第82号、2008年2月20日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
伊藤亜紗(いとう・あさ)
1979年東京生まれ。東京大学大学院にて美学芸術学を専攻。現在博士課程。ダンス・演劇・小説の雑食サイト「ブロググビグビ」も。08年1月に超自由な批評誌「Review House」を創刊。

【上演記録】
神村恵カンパニー新作公演「どん底」-STスポット自主事業 the Ground-breaking 2008
BankART1929 Yokohama 1929ホール(2008年2月15日-17日)

構成・振付:神村 恵
出演:磯島未来、遠藤綾野、高橋明子、山縣美礼、神村恵
主催:STスポット
創作協力:岡村泰子
共催:横浜市
企画協力:プリコグ
助成:芸術文化振興基金、アサヒビール芸術文化財団
協力:BankART1929Yokohama、
赤レンガ倉庫1号館(横浜市芸術文化振興財団)
特別協力:急な坂スタジオ

チケット 前売 2500円/当日 2800円/学生 2000円

★15日のアフタートーク
ゲスト:手塚夏子 さん(ダンサー・振付家)


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