ピチェ・クランチェン「I am a Demon」

◎「古き良きもの」の脱構築  武藤大祐  おそらく「古典」などという概念は、日本で現代的なダンスを見ている/作っている限り、縁遠いものといっていいように思える。クラシック・バレエであれ、能や歌舞伎であれ、知識としてはそこ … “ピチェ・クランチェン「I am a Demon」” の続きを読む

◎「古き良きもの」の脱構築
 武藤大祐

 おそらく「古典」などという概念は、日本で現代的なダンスを見ている/作っている限り、縁遠いものといっていいように思える。クラシック・バレエであれ、能や歌舞伎であれ、知識としてはそこそこに、しかし実質的には何か「古き良きもの」として敬しつつ遠ざけておく、というのがごく一般的ではないだろうか。他方、古典の側でもかたくなに高尚な古典であり続けようとするから、溝は広がるばかりではあるが、そもそもこれが何か重要な問題なのかどうか、と考えてみることにすら大多数の日本人は興味をもてないのではないか。しかし、「問題」であるかどうかはさておき、少なくともこれがどういう事態なのかを客観的に認識しておくことは、どうでも良いことではない。過去を参照するという身振りをわれわれはなぜ軽視するのか、を知ることは、われわれの「現在」の定義に直接関わってくるからだ。われわれの「現在」は何を否定することによって成り立っているのか。大阪から神戸・新長田に移転したばかりの Dance Box で上演されたピチェ・クランチェンのソロ作品 『 I am a Demon 』(2005年初演)は、日本の観客の前に例えばこういう大きな問いを差し出したように思える。

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手塚夏子「プライベートトレース2009」

◎眼差しが照り返されて生のありように向けられる
武藤大祐(ダンス批評)

東京芸術見本市2009プログラム表紙どれだけ「斬新な」ダンスか、どれだけ「秀逸な」作品か、などということより、それに立ち会うことが自分の日々の生活にどれだけ深刻な影響や衝撃をおよぼすか、ということを基準にして、作品なりダンスなりに立ち会いたい。いいかえれば、日々の瑣末事や社会の中の諸々の出来事とともに生きている自分の身体をきちんと携えたままで作品やダンスに行き当たりたい。そんな気持ちを目覚めさせてくれたという意味では、まるで湯水のように「作品」が大量消費される年度末の東京の不毛な公演ラッシュにも感謝せずにいられない気さえする。

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東野祥子「VACUUM ZONE」

◎現実への欲望、虚構への欲望  武藤大祐(ダンス批評) 「映画とはすべてドキュメンタリーである」(黒沢清)。なぜならあらゆる映像は、カメラの前で実際に起きた出来事を写し取ったものにすぎないからだ。これにならえば、舞台上の … “東野祥子「VACUUM ZONE」” の続きを読む

◎現実への欲望、虚構への欲望
 武藤大祐(ダンス批評)

「映画とはすべてドキュメンタリーである」(黒沢清)。なぜならあらゆる映像は、カメラの前で実際に起きた出来事を写し取ったものにすぎないからだ。これにならえば、舞台上の出来事はすべて現実である。そしてもし虚構が発生するなら、そこには観客の側の想像力が関与している。

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バットシェバ舞踊団「テロファーザ」

◎「ローカル」な文脈へ 日常的で親密な行為としてのダンス
武藤大祐(美学/ダンス批評)

「テロファーザ」公演チラシここのところ仕事で大量のダンスのヴィデオに目を通さなくてはならず、いくら好きとはいえ流石にもう沢山という気分で、意識も朦朧としたまま出かけてみると、実に三十数人ものダンサーが舞台上に分散して居並び、さあ踊るぞといわんばかりにこちらを向いている。まるで堂々と開き直ったような彼ら彼女らの佇まいが、穏やかだがどこか毅然とした意志のようなものも漂わせていた。

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第3回アジアダンス会議から(下)

◎身体を持ちつつ身体を語る困難
武藤大祐(ダンス批評)

第3回アジアダンス会議チラシシンガポールのジョヴィアン・ンによる「私のダンス」セッションでは、ジョヴィアンと手塚夏子の間に、文化背景を超えた意外な接点が見つかった。ジョヴィアンは比較的遅くなってからダンスを始めた人だが、学校であらゆるダンス・テクニックを学んだ結果、どのテクニックも体を関節単位でしか使っていないということに気付き、最近は普段あまり意識しないような筋肉を動きの起点にする実験に取り組んでいるという。手塚の『私的解剖実験』シリーズも、まさに体を普通とは違った視点から観察し、分析し直すというところから出発している。もちろん細かく見ていけば方法論は異なるが、同じようなことを考えている人がいた、という純粋な驚きがあった。

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第3回アジアダンス会議から(上)

◎「小さな」個人の身体から「大きな」ポテンシャルを探る
武藤大祐(ダンス批評)

第3回アジアダンス会議2007から
アジアダンス会議2007 ファイナルセッションから。右端が筆者。写真提供=社団法人国際演劇協会(ITI/UNESCO)日本センター

ユネスコの下部組織である国際演劇協会・日本センターが隔年で開催してきた、「アジアダンス会議」の三回目が2月に東京で開かれた。アジア各地から集まった振付家、批評家、オーガナイザーなど14人の参加者が一週間に渡ってプレゼンテーションや討論、ワークショップを行いながら、ダンスを通してアジアを、またアジアを通してダンスを、じっくり考えてみたのである。筆者の怠慢でやや遅くなってしまったが、3月末に刊行された記録集の宣伝も兼ねて、二回に分けて報告したいと思う。

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