東野祥子「VACUUM ZONE」

◎現実への欲望、虚構への欲望  武藤大祐(ダンス批評) 「映画とはすべてドキュメンタリーである」(黒沢清)。なぜならあらゆる映像は、カメラの前で実際に起きた出来事を写し取ったものにすぎないからだ。これにならえば、舞台上の … “東野祥子「VACUUM ZONE」” の続きを読む

◎現実への欲望、虚構への欲望
 武藤大祐(ダンス批評)

「映画とはすべてドキュメンタリーである」(黒沢清)。なぜならあらゆる映像は、カメラの前で実際に起きた出来事を写し取ったものにすぎないからだ。これにならえば、舞台上の出来事はすべて現実である。そしてもし虚構が発生するなら、そこには観客の側の想像力が関与している。

 今回、東野祥子は「ソロ」と銘打ちつつ、舞台後方の床に巨大な穴を開け、そこにあらゆるものが吸い込まれていく(Vacuum Zone)というきわめてスケールの大きな空間を構築しようとした(維新派の分派で叩き上げた東野ならではといえよう。『Bacchus』2号の東野インタヴューを参照)。ところが、上空から巨大なゴミ(?)の塊が次々と落下していこうが、散乱した新聞紙が風に吹かれて穴の中に追いやられて消えようが、一向にそれらしく見えてこない。むしろタイトルを思い出し、そのように見なければと努力してみたが虚しいだけだった。そしていったい何が足りないのか?と考えた。一概にいうなら、そうした虚構性を観客がすすんで受け入れるような「モード」、つまり現実をリテラルかつ仔細に観察しようとする「現実モード」とは違った「虚構モード」が必要なのであり、ここにはそうしたものへの巧みな誘導が欠けていたか、あるいは虚構モードを妨げる何かがあったのに違いない。

 これと好対照といえるのが作品の冒頭部分である。赤い毛皮に身を包んでハイヒールを履いた東野が、舞台奥下手の薄暗がりに現れ、じっと佇む。その姿は明瞭ではないのだが、時折り、両手首がヒラッ、ヒラッと動いている。何かの信号を送ってでもいるかのようだ。しかし東野が少し手前に歩み出てくると(あるいは照明が明るくなったのかも知れない)、小刻みに動いていたのは実は東野の手ではなくて、両脇に抱えられた二羽のニワトリの頭なのだった。いってしまえば「騙された」だけだが、こういう出来事は痛快だし、批評的ですらあるように思う。はっきり見えてもいないのに勝手に表象をでっち上げ、納得してしまう想像力の働きぶりをはっきりと見せつけてくれるからだ。

 しかし他方、作品の中心をなす壮大な「Vacuum Zone」のイメージは、全力で「虚構」を志向しているようでいながら、なかなか成就しなかった。それはどこまでも「舞台後方の床の開口部」であり、ゴミの塊は「宙吊りのワイヤーから切り離されて落下する」ようにしか見えず、新聞紙は舞台手前脇の送風機によって穴の方へ吹き流されていることがひたすらリテラルに見て取れるばかりだった。もちろんここで、東野が「吸い込まれる」演技でもしてくれようものなら、つまりパントマイムのように、吸引力に逆らって歩くフリでもしてくれようものなら、少なくとも整合性は確保できたかも知れない(実際にはほんの少し、こういう場面があった)。しかしそのような露骨なやり方で観客に虚構モードを押し付けることを「芝居がかる」というのであり、これは相当に大胆な賭けになってしまうだろう。

 事実、ダンスの方はといえば、極端に「虚構」性の弱い(観客に想像力を働かせることを要求しない)、フィジカルな「現実」が志向されているようだった。例えばハイヒールで歩く時も、キャラクター演技のようないかにも快活な歩行ではなく、むしろ履きなれない靴で辛うじて見た目を取り繕っているかのような、たどたどしく不安定な歩行である。そして実に大部分にわたって、「身振り」とよぶことさえ困難なほど取り留めのない所作、あるいは床に身を横たえたままの状態が続くのである。虚構性に奉仕しようとしない、こうした身体のあり方が、非現実的な空間の成就を妨げていたことは否定しようがないだろう。一見して動きの少ないこうした身体は、反ドラマ的で、醒めたリテラルな観察行為をこそ大いに触発するからである。

 ところが、それにもかかわらず、実際に東野の体から受け取ることのできる情報量もまた、あまりに乏しかった。もちろん舞台上には現実として身体があり、質的なディテールが存在していたのだろうが、それを目が捉えられないのは、今度は視覚が「現実モード」に入り込めずにいるからだ。照明や音響やドラマトゥルギーを含めて舞台全体が「虚構モード」へ傾斜している中で、身体だけが「現実モード」を要求している。そんな状況下では、たとえ人形振りや、全身を激しく褶曲させながら動く派手な踊りが披露されても、目の精度は著しく低下しているため、大雑把な形や記号、意味などしか拾ってくれない。せいぜい、足が高く上がったとか、胴がしなやかだとか、そんな貧しい印象ばかりになる。東野が床に寝ている時、床とのコンタクトを体がどう操っているかが細かく見えてこなければ、他の様々な情報によって観客の知覚は散漫になり、事態は単に「床に寝ている」という一語に還元されてしまう程度にしか把握されない。

 もっとも、劇場空間の全体を支配する虚構モードを、東野のダンスが見事に振り払った部分もあった。舞台下手側のモニター(に映るバレリーナ)と向かい合うようにして踊る場面が数箇所あるのだが、その何度目か、バレエに胴のひねりやオフバランスを加えた壮絶にアクロバティックな踊りが繰り広げられたのである。ごく短い時間ながら、ここは動き自体が異常に込み入っていて、いくつもの部位が同時に別の動きを展開しているため、全体を一まとめにつかむことが容易ではない。すると必然的に目は緊張を強いられ、複雑に絡み合った動きの細部へと誘われる。そこにはフィジカルな出来事の一切を「見ること」から観客を解放してくれるような虚構のイメージや、想像力が活躍する余地などなく、むしろ受け止めきれないほどの過剰な現実が目に向かって容赦なく押し寄せてくる。情報を概念へと昇華し切れない時、われわれはそれを「現実」とよぶのだろう。

 だから、全体としては、これは「演出家」の欲望と「ダンサー」の欲望が激しく分裂した作品といって差し支えないように思う。虚構を生み出そうとする演出家と、現実において勝負しようとするダンサーがせめぎ合い、互いに一歩も譲らない。すると観客の側においては、視覚と想像力とが奇妙な不協和を演じさせられることになる。そういえば、よく似た作品をわれわれはすでに知っていた。東野が三日間にわたって異なるミュージシャンと共演した『E/G – EGO GEOMETRIA』(2007年9月、ザムザ阿佐谷)では、現実と虚構、ライヴとフィクションが不可解に共存し、入り混じる、何とも説明しようのない境地が生まれていたのではないか。だから東野にとって、演出家的な妄想とダンサー的な衝動とをいかに関係させるかという課題は以前から明白であり、『VACUUM ZONE』もまた一つの実験的ステップと位置付けられて然るべきなのだ。多くの「コンテンポラリーダンス」を自称する若い振付家たちが、単に「身の丈の日常性」を相対化できずにフラットな(に見える)現実の中に閉じ込められている現状を見れば、虚構と現実、想像力とリアリティを正面衝突させるこうした作業は、作品の完成度よりも構想の貴重さこそが強調されねばならないだろう。

【筆者略歴】
 武藤大祐(むとう・だいすけ)
 1975年生まれ。ダンス批評。群馬県立女子大学専任講師(美学、ダンス史・理論)。01年より『Ballet』『シアターアーツ』『舞台芸術』『plan B 通信』『Theater der Zeit』等に執筆。企画制作チーム「Dance Asia」メンバーとしても活動している。『シアターアーツ』編集委員。Indonesian Dance Festival IX/2008 ゲスト・キュレーター。個人サイト http://members.jcom.home.ne.jp/d-muto

【上演記録】
東野祥子ソロダンス「Vacuum Zone」
東京公演 SePT独舞vol.19、シアタートラム(2008年10月23日-24日)
* 転倒事故で、10月25日-26日の公演と伊丹公演(アイホールダンスコレクションvol.55、2008年11月6日-7日)は中止された。

[ポストトークゲスト]
10月23日(木)伊東篤宏(美術家、音楽家)
[料金](全席指定) 一般前売3,000円 当日3,500円

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