ミナモザ「八月のバス停の悪魔」

◎わたしにも夢がある  因幡屋きよ子(劇評かわら版「因幡屋通信」主宰)  劇作家・演出家の瀬戸山美咲が主宰するミナモザの舞台を初めてみたのは、二〇〇五年夏上演の『デコレイティッド・カッター』である。瀬戸山は一九七七年生ま … “ミナモザ「八月のバス停の悪魔」” の続きを読む

◎わたしにも夢がある
 因幡屋きよ子(劇評かわら版「因幡屋通信」主宰)

 劇作家・演出家の瀬戸山美咲が主宰するミナモザの舞台を初めてみたのは、二〇〇五年夏上演の『デコレイティッド・カッター』である。瀬戸山は一九七七年生まれ。二〇〇一年にミナモザを結成し、これまでに九回の公演を行っている。

『デコレイティッド・カッター』は、長崎県佐世保市で小学生の女の子が同級生をカッターで殺した事件がベースになっていると聞いて、内心こわごわ新宿御苑のサンモールスタジオに足を運んだ。本作は佐野洋子の絵本『一〇〇万回生きたねこ』が第二のモチーフになっており、罪を犯した少女が生まれ変わりたいと苦しみもがく姿に、思わずからだが前のめりになっていた。さらに翌二〇〇六年春上演の『夜の花嫁』が前作を凌ぐ好舞台であり、実際に起こった事件を縦軸に、自分の生き方を探し求める主人公の姿を横軸に描くのが基本のパターンではあるが、物語の構造や流れを観客に「読めた」と思わせて、その先に予想外の展開を持ってくる瀬戸山美咲の筆には、作劇のテクニックを越えた何かがあると確信したのである。

 社会を揺るがす大事件が起こったとする。不謹慎な表現になるが、それは劇作家にとって題材の宝庫である。事件の当事者はもちろん周囲の人々の心象、事件を生んだ背景、事件が与えた影響、いずれも劇作家の創作意欲を掻き立てるだろう。多くの資料を読み込んで関係者に綿密な取材を行い、事件そのものを劇作家自身の視点で読み解く方法がある。視野を広げて事件を生んだ背景を重層的に考察し、観客に問題提起することもできる。事件を「きっかけ」にして、もともと自分に内在している「書きたいもの」へ投影させるタイプの劇作家もいる。いずれにしても事件の表層的な部分だけを取り入れると底が浅くなる。事件によって傷つき、命を落とした人やその家族の心情を考えると、それこそ不謹慎だ。圧倒的な現実に対して、虚構である舞台を見応えのあるものにするには、何が必要だろうか。

 ここ十数年を振り返って、自分を最も震撼させたのはオウム真理教の信者による地下鉄サリン事件を初めとした一連のテロである。しかし事件の検証も考察も不十分なままに新しい事件が次々に起こり、親が我が子を殺してもその逆であっても、あまり驚かなくなった。極めつけは秋葉原での無差別殺傷事件である。

 理由はどうあれ、人が人を殺すことはあってはならない。改めて言わずとも自明のことだったはずだ。しかし事件は後を絶たない。なぜ人は罪を犯し続けるのだろう。さらに、事件直後こそさまざまな議論が飛び交うが、やがて新しい事件に人々の関心は移っていき、事件すらコンテンツとして「消費」されているかのような印象すらある。今、演劇は何を提示できるのか。そして自分は演劇に何を求めるのか。束の間虚構の世界に浸ることで、疲れた心身を癒し慰めることか。そこから生きる活力を得られるだろうか。

 瀬戸山美咲の最新作『八月のバス停の悪魔』の公演チラシには「戦争に飽きていた。あの悪魔と出逢うまでは」と書かれている。八月で戦争とくれば、太平洋戦争に題材を取ったのか。戦争は事件の最たるものだ。仮に一万人が亡くなったとすると、そこには一万の事件があり、物語がある。「戦争」と一括りにはできないのである。ひとつの事件の特異性をベースにしたいつもの作品とは違ったものになりそうだ。

 舞台の明かりがつくとそこは道端で、近くにバス停の標識が立つ。道に座り込んで空を見上げ、戦闘機の数を数えるキミコ(木村キリコ)と日本語を流暢に話す金髪の青年ルカ(尾沢治千)の会話から、時は東京大空襲直後とわかる。舞台上手に古いトンネルがあり、ルカはキミコによってそこに匿われている敵国の飛行士らしい。あまり現実的でない設定だ。

 続いて登場する村の人々は北関東から東北地方と思われる言葉を話す。キミコは身重の姉ナオコ(斉藤千尋)とともに東京から空襲を逃れて親戚のもとに身を寄せている。叔母すえ(浮城寿子)の手伝いを積極的にする姉に比べ、キミコは何もしないばかりか、村の青年荘助(松本雄大)や義理の叔父恒作(岡本広毅)を翻弄しているらしい。日常に飽いているキミコは焼け野原になった東京の風景をみたがっている。

 やがて八月十五日が来て人々は敗戦を知る。依然として場所、時代ともにしっくりしない。この舞台は何をどこへどうやって運ぼうとしているのか。

 和服やもんぺ、国防服などの衣裳やさまざまな小道具類、言葉遣いや所作など、戦時下をある程度忠実に舞台化するには多くの課題が発生する。予算やスタッフの潤沢な商業演劇やベテランを擁する老舗劇団ならまだしも、若いカンパニーにはリスクが高いと想像する。言い換えればなぜそんなリスクを冒してまで、このような設定にしたのか、戦時下をリアルに描こうとしながら、ルカという謎めいた人物を作った意図はどこにあるのか?

 それだけではない。キミコに向かって「日本は戦争に負ける」と明言する憲兵の五六(中川浩六)や、知能は幼児並みだが性的関心と欲求が異様に強い少女ネネ(鈴木オルガ)と彼女がご執心の太郎(須田浩章)の扱いも、率直に言って中途半端だ。わたしは瀬戸山美咲の作品が熱を放つまでにいささか時間がかかることを体験として知っているが、それにしても今回は待ち時間が長い、長過ぎる。期待が消え、困惑が苦痛に変わりそうになったとき、物語が史実とずれていることがはっきりと示される。「横浜と京都にも新型爆弾が落とされた」という台詞である。

 ぜんたいの上演時間のおよそ七割が過ぎたあたり、ようやく瀬戸山が本領を発揮し始めた。キミコという一筋縄ではいかない厄介な人物が、どんな心の闇を抱えていたか、何を望んでいるのかが一気に吐き出される。何かになりたい、特別な人間でありたい。しかし現実には結婚もできず子どもも産めない。何にもなれない自分を持て余し、もっと刺激がほしい、いろいろな気持ちを味わってみたいとキミコは叫ぶ。戦争の惨禍が振りかかってきたら、自分にも何かが起こるだろうと。

 ここで思い起こしたのは、若い論客による「希望は戦争」という主張だった。さらに、憲法九条改正に関する新聞記事だったと記憶するが、ある青年は希望する仕事に就けず、「このまま格差社会の底辺に埋もれるくらいなら戦争が起こってほしい。そうすればたとえ戦死しても国のために命を捧げたという名誉は与えられる」と語った。自分探しのレベルではない、生きる意味を戦争に求めているのだ。ついにここまで来たか。

 思いの丈を饒舌に語るキミコは、現在のこの国で息苦しさに悩む女性が、望む通りに戦争が起こっている時代にあっても尚、心の平安を得られない絶望を全身から放つ。舞台がここに至るまでの数々は、キミコの叫びを成立させるために準備された長い助走だったのである。無差別殺傷事件が続発する現状はじめ、戦争を望む若者の主張や、瀬戸山自身の自らの人生に対する苦悩や焦燥、願いも込められていると想像する。

 戦争と自分探しというテーマに、不思議な符号を感じた。
 ミナモザ公演の前日、自分は二本の芝居をみている。ひとつは戦争と狂気をテーマにしたもので、もうひとつは主人公の青春時代と中年になった現在が行き来するものであった。前者は近未来の設定のもと、広い舞台空間を四十人近い俳優が縦横無尽に駆け回るダイナミックな作りであり、逆に後者は舞台の狭いことを活かした巧みな演出が目をひいたがどちらにも満足できず、さらにその理由が言葉にならないもどかしさで疲労困憊の果てに、『八月のバス停の悪魔』に臨んだのである。

 舞台は時空間を自在に飛び越えることができる。「近未来、どこかの国で起こる物語」という設定があれば、観客は安心して舞台に身を委ねることができる。瀬戸山もその作劇のテクニックは持っているだろう。それを敢えて使わずに、ぎりぎりまで戦時中の現実的な話として進行させ、最後にキミコの独壇場で劇世界を一気に熱くした。溢れんばかりの事件や情報を、単なる題材としてではなく、小ぢんまりした自分探しにまとめることもせず、丸腰の徒手空拳の愚直とも言える手法で描き出した。そこに自分は瀬戸山の劇作家としての誠意と志を感じるのである。前日にみた二本の舞台からは得られなかった手応えであった。

 もう瀬戸山美咲に事件は必要ないのではないか。事件に題材を求めずとも、瀬戸山自身に書きたいこと、言いたいことの水脈が確実に存在する。

 作品ぜんたいのまとまりや緊張感は、残念ながら『デコレイティッド・カッター』や『夜の花嫁』を越えることはできなかったし、キミコの叫びで筆力を使い果たしたかのような終幕にも大いに不満が残る。しかし「観客の生理を考慮して、冗長な展開は避けて」などと賢しらな進言はすまい。そのかわり、キング牧師のあまりに有名な言葉をお借りしてこう言おう。
「わたしにも夢がある」と。

 瀬戸山美咲はもっと書けるはずだ。迷いながらも生き抜こうとする人の姿を、饒舌に語らせる表現ではなく、研ぎすまされた緊張感漲る対話を通して。そして舞台をみた観客が来た時とは周囲の情景が変ってみえるのを幸福に思いながら家路に着くことを、わたしは自身の夢として持ち続けたいと願うのである。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド第115号、2008年11月26日発行。購読は登録ページから)

【著者略歴】
 因幡屋きよ子(いなばや・きよこ)
 1964年山口県生まれ 明治大学文学部演劇学専攻卒 1998年晩秋、劇評かわら版「因幡屋通信」を創刊、2005年初夏、「因幡屋ぶろぐ」を開設。

【上演記録】
ミナモザvol.9『八月のバス停の悪魔
サンモールスタジオ(2008年8月20日-24日)

作・演出:瀬戸山美咲
出演
キミコ:木村キリコ
ルカ:尾沢治千
ナオコ:斉藤千尋
恒作:岡本広毅(10x50KINGDOM)
荘助:松本雄大
太郎:須田浩章
すえ:浮城寿子
ネネ:鈴木オルガ(10x50KINGDOM)
五六:中川浩六(侠的令嬢)

スタッフ
照明:上川真由美・高橋昌子
音響:前田規寛(M.S.W)・井出“PON”三知夫(La Sens)
舞台美術:泉真
衣裳:山口夏希
舞台監督:伊藤智史
宣伝イラスト:足立雲平
宣伝デザイン:氏家裕太
スチール撮影:服部貴康
VTR撮影:津布久雅之(ハッピーセレブ)
企画・制作:ミナモザ
全席自由2800円 当日3000円

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