第3回アジアダンス会議から(上)

◎「小さな」個人の身体から「大きな」ポテンシャルを探る
武藤大祐(ダンス批評)

第3回アジアダンス会議2007から
アジアダンス会議2007 ファイナルセッションから。右端が筆者。写真提供=社団法人国際演劇協会(ITI/UNESCO)日本センター

ユネスコの下部組織である国際演劇協会・日本センターが隔年で開催してきた、「アジアダンス会議」の三回目が2月に東京で開かれた。アジア各地から集まった振付家、批評家、オーガナイザーなど14人の参加者が一週間に渡ってプレゼンテーションや討論、ワークショップを行いながら、ダンスを通してアジアを、またアジアを通してダンスを、じっくり考えてみたのである。筆者の怠慢でやや遅くなってしまったが、3月末に刊行された記録集の宣伝も兼ねて、二回に分けて報告したいと思う。

会議の参加者は、まず振付家が、ピチェ・クランチェン(タイ)、ジェコ・シオンポ(インドネシア)、ジョヴィアン・ン(シンガポール)、新鋪美佳(日本)、常樂泰(日本)、鈴木ユキオ(日本)、手塚夏子(日本)。そしてアーツマネージャーのヘリー・ミナルティ(インドネシア)、オーガナイザー/批評家のタン・フクワン(シンガポール/タイ)、研究者/振付家のズルキフリ・モハマド(マレーシア)、日本側から「吾妻橋ダンスクロッシング」の桜井圭介、NPO「コミュニティアート・ふなばし」の下山浩一、研究者/批評家として古後奈緒子および筆者。スタイルを確立した振付家や権威のある研究者よりも、むしろこれからアジアのダンスを動かしていく若い世代、あるいは新しい視点で何かを探求している人が集まっている点が特徴である。他に、振付家のパドミニ・チェター(インド)が会議のオープニングとなるセッションを、研究者の國吉和子が日本のダンス史を概観するレクチャーを、それぞれ行った。

筆者が「アジア」というものを意識するようになったのはごく最近のことにすぎない。具体的にいえば、2005年の夏にシンガポールとインドネシアを訪れるまで足を踏み入れたことさえなかった。だからいささか唐突にも「アジアダンス会議」のファシリテーターを務めるに至ったからといって、アジアに対する過剰な思い入れや偏愛はもち合わせていないし、ここへ来ていきなり「大アジア主義」のようなものをぶち上げるつもりもない。むしろ筆者の関心はずっと日本のコンテンポラリーダンスに向けられている。日本のダンスを考えるためにぜひともアジアを知ることが必要だと考えているのである。どういうことかといえば、単純に、日本のダンスに「外部」を招き入れるということで、それ以上でも以下でもない。

90年代末辺りから、日本のダンスは欧米からの影響を離れた独自の流れを形成してきたといえるだろう。背景には、まず国内での不況の長期化があり、そこに世界的なグローバル化とそれへの反動(ローカル化)が重なった。簡単にいってしまえば、80年代や90年代前半のように欧米から次々と大きなプロダクション(商品)を買い付けて紹介するような時期が過ぎると、同時に、価値観の多様性、文化の多様性を見直そうとする風潮がかなり広く共有されるようになっていったわけである。周縁に追いやられていた少数派の権利回復というモチーフは、少数民族や社会的マイノリティの文化について主張される一方で、いつも身の回りにありながら意識されずにきた「平凡なもの」「日常的なもの」に改めて目を向けようというアイディアにもつながっていった。目を奪う派手な商業的スペクタクルよりも、身近なところ、自分の足元にこそ知られざるリアリティが広がっている、というわけだ。

勅使川原三郎以降の、日本のダンスにおけるこうした変化を、かなり乱暴とはいえ以下のように図式化してみるとわかりやすい。まず90年代前半までには、H・アール・カオス、レニ・バッソ、パパ・タラフマラなどによって、80年代までの欧米からの影響が直接に受け継がれるようになった。しかしその一方で、珍しいキノコ舞踊団、コンドルズ、イデビアン・クルーのような、アイロニカルなダンスが90年代中盤にかけて現れてくる。「アイロニカル」というのは、欧米ブルジョワ起源のスペクタクルのパロディを行うと同時に、欧米文化に対する日本の従属的な位置(相対的な「貧しさ」)への「嗤い」の精神の上に成り立っているという意味だ。そしてこの後に来るのが、ニブロール、白井剛、手塚夏子のような、多かれ少なかれ身体の内側に焦点を絞って動きを作り出していくダンスである(もちろんそれぞれがもっと多様な側面をもっており、しかも現在進行形で変化し続けているのだけれども、ここではあえて単純な見取り図を描くことを優先する)。

強調したいのは、第二段階から第三段階にかけて、アイロニーの稀薄化があからさまに進行している点である。珍しいキノコ舞踊団における「バレエ」の扱われ方、コンドルズにおける「ピナ・バウシュ」的なもののパロディを思い起こせばわかるように、彼ら彼女らのような、欧米的な価値観から意識的に距離をおこうとする姿勢は、同時に自分たちの「貧しい」現実(リアリティ)からも一定の距離をとることを可能にしていた。それがやがて欧米から遠く離れていった結果、本当に文脈上の関係が切れてしまう。大きな「外部」との緊張関係が失われると、外部/内部の区別や、差異そのものが、今度は非常に身近なところに、微細な形で現れてくることになった。日本と欧米の差異、国家間の差異や地域間の差異ではなく、個人と個人の差異へと、多様さに対する意識は今まで見過ごされがちだった細部に導かれていく。

以前は一括りにされていたものの中に細かな差異を見出していくということは、いわば単位面積あたりの情報量が増すということで、したがって当然、世界は豊かになるはずである。しかし今、日本のコンテンポラリーダンスは、こうして開かれた世界のポテンシャルをどこまで自覚しているといえるだろうか。スケールが小さくなった分だけ緊張感もスリルも小さくなってしまうのは致し方なく、大上段に構えず、肩肘を張らず、小さな空間で個人的な表現を行っていくことの中に我々にとっての嘘偽りない等身大の価値がある、それでいいのだ、という現状肯定へと人々の考え方や感受性が自閉しつつあるとしたら、それは明らかに危険なことだし、少なくとも、その先に広がっている大きな可能性を見過ごすことになってしまうだろうと思うのである。

(なお、このような経緯について筆者は「アジアダンス会議」の自分のセッションでも検討したし、その後に『シアターアーツ』誌に書いた論考「反スペクタクルと無意味の狭間」(30号所収)でも詳しく論じた。またごく最近、建築批評家の飯島洋一が建築の文脈でかなり似た議論を行っているのを知った。飯島の論考「ユニット派批判」および「反フラット論」はいずれも飯島洋一『現代建築・テロ以前/以後』(青土社、2002年)に収められている。ただし筆者の議論と飯島のそれとは、状況認識においては近いが、状況に対するスタンスはかなり違っているように思える。大きな物語に対するアレルギーを示して歴史から逃避する「アンチ・モニュメント」な建築、意識的に行われる「ダメ建築」、「一九九五年の震災の後にだからこそ、『ドラマタイズすること』から遠ざかろうとする『普通さ』指向のユニット派」のような建築からは(58頁)、「コンテクストを批判したり、あるいはコンテクストそのものをつくり変えてしまう革新的、あるいは歴史的な出来事は芽生えるべくもない」(79~80頁)と断じてしまう飯島が、この後どのような言説を展開しているのかは知らない。しかし少なくともこの論を読む限りでは、彼は一方にアウシュヴィッツから広島、9・11までに至る「大きな物語」の圧倒的な悲劇性(「ドラマ」)、他方に近視眼的かつニヒリスティックな些末主義(「フラット」)、という単純な二項対立の図式を描いてしまっているように思える。しかしこのような二項対立図式こそまさにスペクタクル社会の産物なのであって、これを疑問視することによってしか「歴史の終わり」を克服することはできないのではないか)

半ば以上、手探りで作り上げてきた「第3回アジアダンス会議」ではあるが、問題意識と方針だけは初期段階からはっきりしていた。すなわち国家や民族、地域を単位とする世界秩序を自明な前提とするのではなく、また「アイデンティティ」や「異文化の共生」などといった壮大だが抽象的なテーマを掲げることも避け、しかしそうかといって安易に視界を等身大のスケールへと狭めてしまうこともせずに、あくまで「小さな」個人の身体にはらまれる「大きな」ポテンシャルを探っていくこと、である。

例えばそもそも「アジア」などといっても、そこには様々な国や地域があり、実質的には多様な個人の集まりである。しかしそれと同様、そこに暮らす多様な個人は単に「個人」なのではなくて、好むと好まざるとに関わらず様々な社会的カテゴリーに属してもいる。だから一人の人が行動する時、その行動は必ず無数の社会的な意味を含むことになる。もちろん意識せずにいれば社会的な枠組の力に対して無防備(無責任)でいることもできるが、意識しさえすれば反対に積極的に働きかけることもできるのである。何もダンスは「社会派」であるべきだとか、必ずしもそういうことではない。表現が個人や身近な共同体の枠を突き抜けていくためにもっと様々な客観的視点を手に入れることができるのではないか、そしてそのようにして射程を長くしていけば必然的に大きな政治的イシューにぶつかるだろう、しかもまさにその当事者として、ということだ。外野ではなく当事者であることこそ、「身体」なるものの最も重要な側面であり、強みでもある。

このようなわけで、作業の手順としては、「アジア」や「多文化主義」のような抽象的な題目からスタートするのではなく、一度そうしたものをカッコに入れた上で、個人の身体やダンスとなるべく先入観抜きに向き合ってみるところから始めたい、と我々は考えた。そこで会議全体の中心には、振付家が自分の活動をプレゼンテーションし、それについて他の振付家や研究者、オーガナイザー、さらには一般の参加者も交えつつ率直な質疑応答や意見交換をする「私のダンス」というセッションをおいた。

「私のダンス」については〈ほうほう堂〉の新鋪美佳が先発だったが、いきなり猛スピードの出だしになった。タン・フクワンは、すぐにジャドソン教会派的な「日常の動き(daily movement)」との親近性を指摘しつつ、「日常の動き」を使っていながらそれをまたダンス的につないでしまっているところがよく理解できない、こうしたアプローチがもつ「批評性」(ダンス史的な意味)はどんなところにあるのか、という質問を発した。彼は〈ほうほう堂〉の映像を前に見ていたとはいえ、ある意味で明快きわまりない指摘がこんなに速く飛び出してきたことに、正直興奮を禁じ得なかった。もちろんジャドソン教会派と〈ほうほう堂〉とでは全く文脈が違うわけで、ただ見方によっては確かに近いところがあるのだ。ともかく比較してみることを通じて、何がどのように違うのかを考えることである。日本国内ではこうしたことを真面目に話し合う機会はあまりに少ない。人が集まってシンポジウムなどが開かれても、まず話し合われない。他方、パドミニ・チェターからは「暴力」的な表現についての問題提起が飛び出した。確かに新鋪振付の『るる ざざ』という作品の中盤辺りには、格闘めいたやり取りから始まって、かなり緊張感のあるシークエンスが現れるのだ。しかし〈ほうほう堂〉といったら何だか華奢で血圧の低そうな「少女」の二人組というイメージが先行している日本国内では、こんなところにフォーカスをあてようとはなかなか考えつかないだろう。突き放した視線が新鮮な角度から切り込んだおかげで、会場にもちょっとピリピリしたムードが走ったが、新鋪の答えは「別に暴力的なシーンを意図しているわけではなく、ダンサー同士のリアルな駆け引きを見せようとしている」とのことだった。これはこれで納得のいく説明ではある。とはいえ、どちらが正しいかという問題ではなく、ただ異質な考え方が出会ったということが重要なのであり、ここからダンスにおける「リアリティ」というものについて突っ込んで考えていくこともできるだろう。(続く)
(初出:週刊「マガジン・ワンダーランド」第43号、2007年5月23日発行。購読は登録ページから)

第3回アジアダンス会議から(下)-身体を持ちつつ身体を語る困難

【筆者紹介】
武藤大祐(むとう・だいすけ)
1975年生まれ。ダンス批評。桜美林大学他にて非常勤講師。東京大学大学院にて美学藝術学を専攻。01年より『Ballet』『音楽舞踊新聞』『シアターアーツ』『Theater der Zeit』等に寄稿。『plan B 通信』にて「ポストモダンダンスについてのノート」を連載中。05~06年アジアン・カルチュラル・カウンシル・フェロー(インドネシア、NY)。第3回アジアダンス会議ファシリテーター。個人サイト http://members.jcom.home.ne.jp/d-muto

【関連情報】
・第3回アジアダンス会議2007の概要は、国際演劇協会(ITI/UNESCO)日本センター)のwebサイトで。
・「第3回アジアダンス会議」の全容を収めた記録集は一部1,000円。問い合わせ、注文は上記の国際演劇協会(ITI/UNESCO)日本センター(03-3478-2189 iti@topaz.dti.ne.jp)。世田谷パブリックシアター・ブックスペースでも販売。
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