◎眼差しが照り返されて生のありように向けられる
武藤大祐(ダンス批評)
どれだけ「斬新な」ダンスか、どれだけ「秀逸な」作品か、などということより、それに立ち会うことが自分の日々の生活にどれだけ深刻な影響や衝撃をおよぼすか、ということを基準にして、作品なりダンスなりに立ち会いたい。いいかえれば、日々の瑣末事や社会の中の諸々の出来事とともに生きている自分の身体をきちんと携えたままで作品やダンスに行き当たりたい。そんな気持ちを目覚めさせてくれたという意味では、まるで湯水のように「作品」が大量消費される年度末の東京の不毛な公演ラッシュにも感謝せずにいられない気さえする。
(もちろん、瑣末事にこだわった「等身大」の表現の方がより身近に感じられるとか、そういう考え方などはもう立派に消費の対象(スペクタクル)になってしまった。しかし本質は見かけや意匠ではなくて、経験の内容がどれだけ生活に突き刺さってくるかというところにあると思う。)
とにかく、手塚夏子の『プライベートトレース2009』を見た後、精神がまともでいられなかったのは、見るということが審美的な鑑賞や観察のレヴェルを突き抜け、むしろ自分の眼差しが作品に照り返されるようにして、自分の日々の生のありようへと向けられていったからだ。作品そのものは何も「語る」ようなことはしていない。にもかかわらず、われわれが生きている今のこの世界に対する見方(しかも単一ではなく複数のそれ)をはっきりと差し出しているようで、少しばかり放心気味の状態で家まで帰った。
この作品で手塚は、いくつもの録音された音声と戯れながら、日常生活の中で誰もが無意識にしているような動きを延々と執拗に反復してみせる。膝を抱えて座った状態で頷く動作と、椅子に座った状態で体を前のめりに波打たせながら腕で空を掻く動作、どちらもほんの数秒間の動きをきわめてリアルに、スロー再生しているように見えるのだが、それを導くように流される音声が三種類ある。一つは、動きのタイミング、胴のねじれ具合、骨の位置、顔の角度まで、体の動きや状態を事細かに記述したもの。これは体を外側(第三者的な立場)から指示して動かす時に使われる類の言葉だ。二つ目は、必ずしも意味の通らない、擬態語や擬音語などを中心にして構成されたリズムや鼻歌のようなもの。これは実際に体を動かす時に記憶しておくことで再生を容易にするタイプの言葉(?)だろう。そして三つ目は、この身振りが抽出された元の(と思われる)映像そのものの音声で、どうやらこれは男性と女性(種を明かせば本人とその夫なのだが)が幼児(これも実際の子息)とともにいるところを写したごく短いホームヴィデオの断片であるらしいことが、作品が進むにつれて明らかになる(ただし映像そのものは映写されない)。
どういうシチュエーションかわからないが、とにかく夫は「しんどいよ」と言い、手塚は「だいじょうぶ、誰も見てないって」という言葉を(おそらくは幼児に向けて)発しながら、体や顔を動かすさまをひたすら手塚がスローで反復する。観客は、その意味や文脈は抜きにして、動きのミクロな細部を長時間に渡って注視することになる。忍耐を要求すると同時に、きわめて異様な体験だ。現実にはほんの一瞬の、些細な挙措が、言葉および反復による「トレース」を通じて、見たこともないような明瞭なフォルムとして刻々立ち現れてくるのである。
しかしここまでなら、超精密なパントマイムということで納得されてしまうかも知れない。マイムは、動きに記号化を加えて意味を圧縮し、誇張するが、ここでは記号化の網の目からはおよそ漏れてしまうような、意味性の稀薄な動作の断片が精密にキャプチャーされ、反復されているというわけだ。ところが不思議なのは、この極限まで精密な反復動作を見ていると、いつしか、手塚の動きを通じて、手塚がトレースしている元の映像が透かし見えてくるような錯覚が生まれる。意識の焦点がそちらの方にズレる、とでもいえばいいか。そして現実の肉体の方が、むしろ映像のシミュラークルであるかのように思えてくる。いや実際にそうなのだ。どこまでも模造でしかないシミュラークルに対して、「本当の」現実は映像の中にあるのだから。そしてそれはどこまで迫ろうとしても迫り切れない、無限遠の彼方にあるのだ。
人間の目と神経、そして筋肉が捉え尽くそうとする細部の量に比して、ヴィデオカメラのレンズは全てを余すところなく捉えている-こういう図式ができあがる。そして何だかそれは、人間を高いところから見守る超越的な存在(=神)の包容力のようでもあると同時に、至るところに偏在する監視カメラの無機質な透視力をも当然想起させる。ATMの背後に、エレベーターの中に、深夜の駅のホームに設置された機械=神の眼差しが、われわれを守ってくれているのだし、現にわれわれはそれを必要としているのではないか。そんな風に思う時、作品の中で聞こえる「しんどいよ」「だいじょうぶ、誰も見てないって」という言葉が、元の意味とは無関係に、何かとても重くて複雑なものに響きさえするのだった。
テクノロジーと、宗教的なものが、ねじれて通底してしまうような、そういう時代の感覚というものが確かにある気がする。少なくともこの作品を見て以来、そんな考えが頭から離れなくなってしまった。
(初出:マガジン・ワンダーランド第137号、2009年4月29日発行。購読は登録ページから)
【筆者略歴】
武藤大祐(むとう・だいすけ)
1975年生まれ。ダンス批評。群馬県立女子大学専任講師(美学、ダンス史・理論)。01年より『Ballet』『シアターアーツ』『舞台芸術』『plan B 通信』『Theater der Zeit』等に執筆。企画制作チーム「Dance Asia」メンバーとしても活動している。『シアターアーツ』編集委員。個人サイト http://members.jcom.home.ne.jp/d-muto
【上演記録】
手塚夏子『プライベートトレース2009』(30分バージョン)
東京芸術見本市2009 インターナショナル・ショーケース/ダンス・ショーケース
会場=恵比寿ザ・ガーデンルーム(2009年3月5日)
手塚夏子ブログ
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