リミニ・プロトコル「カール・マルクス:資本論、第一巻」

◎「本人」が演じる「ウソ」と「本当」 演劇への根源的な問いかけ
第二次谷杉(劇作家)

「カール・マルクス:資本論、第一巻」公演チラシ●巧みなウソとぎこちない本当
すばらしい風景を眼の前にして思わず「まるで絵のよう」と言った事はないだろうか。あるいは「音楽が聞こえてきそう」だと思った事はないだろうか。絵画や音楽、それは時として褒め言葉として使われる。
では「芝居がかっている」「お芝居みたい」というのはどうだろう? ここには人が他者を演じる=演技に関するうさんくささ、不信が表われてはいないだろうか?

野球や格闘技を「筋書きのないドラマだ」という言葉で賞賛する事もある。じゃ筋書きのあるドラマ=演劇はダメなのか? そんな事を『カール・マルクス:資本論、第一巻』(以下『Das Kapital』と略)を見て考えたワケです。

●『Das Kapital』とは
グリーンスパン前米連邦準備理事会議長は今回の金融危機を100年に1度か2度の出来事と言う。日本では派遣切りによる非正規労働者の失業は半年で15万人を超えた。そんな時に『Das Kapital』である。カール・マルクスである。タイムリーなのだ。『蟹工船』ブームである。日本共産党への新規入党者は1万人を超えた。新書の『超訳『資本論』』も売れているという。やっぱりタイムリーなのです。

『Das Kapital』は3人からなるアートプロジェクト・ユニット、リミニ・プロトコルの2人、ヘルガルド・ハウグとダニエル・ヴェツェルによる構成・演出の作品である。(もう一人のメンバー、シュテファン・ケージは昨年『ムネモ・パーク』で好評を得た)。リミニ・プロトコルは公演の準備段階での調査や登場人物の選定が作品創作の2/3を占めるという。現実を演劇的に描くのではなく、ある現実をそのまま舞台上にあげるという手法を特徴とする。

舞台上には巨大な本棚(天地3間×左右7間/目測)が設置され、出演者の何人かはその棚の中に収まっている。整然とした本棚ではなくお祭りの夜店のような照明もついており雑然とした印象だ。登場人物たちが次々と語り始める。中央のレコードプレーヤーには古いLPがかけられ、全盲のDJが音楽を流す。ときおりパチンコやスロットマシンの音がする。話にあわせ、棚に置かれたビデオカメラで写真や図版が撮影されモニターに映し出される。撮影位置がおかしかったり写っている物がちがっていたりすると撮影している出演者に他の出演者が指示していたりする。字幕も舞台上の出演者によって操作されており、シーンによってはその場で文言がタイプされスクリーンに映し出される。このあたりのゆるいインタラクティブさはちょっと演劇的でおもしろい。文庫版の『資本論』が出演者(と会場係)によって観客全員に配られる。指定されたページをみるとマーカーでチェックされている。

「カール・マルクス:資本論、第一巻」公演から

「カール・マルクス:資本論、第一巻」公演から
【写真は「カール・マルクス:資本論、第一巻」公演から 撮影=坂口祐 提供=フェスティバル/トーキョー 禁無断転載】

出演者はマルクスの著書『資本論』に関するエキスパートたちである。専門家と言っても『資本論』に関して無知な人や偏見を持っている人たちも含む。つまり『資本論』的世界に実生活で関わった人という意味でのエキスパートである。専門家然としたマルクス主義経済史家や『新マルクス=エンゲルス全集』の編纂に関わった人もいるかと思えばギャンブル中毒で一度は身を持ち崩し今はギャンブル依存症の自助グループの指導者をしている人や詐欺まがいの投資コンサルタント、街頭で紙幣を燃やすパフォーマンスを撮影する映像作家もいる。『資本論』を中心軸にしてその出演者たちが自分の人生を語るという形で芝居は進行して行く。演技の専門家=役者はそこにはいない。これがドキュメンタリー演劇と言われる所以である。はて? ドキュメンタリー演劇? 「小さな巨人」みたいな「クレタ人が全てのクレタ人は嘘つきと言った」ような…。

●素人の演技が虚と実の壁を押す
演技経験のない者を役者として舞台にあげるのは新しい事ではない。タデウシュ・カントルは『死の教室』で老人たちに思い出を語らせ、寺山修司は『ハイティーン詩集 書を捨てよ町へ出よう』で若者たちを舞台にあげた。

『Das Kapital』では出演者の体験を本人が主にモノローグ形式でしゃべる。役者同士の対話はほとんどない。同じ手法で制作された、前作の『選挙戦・ヴァレンシュタイン』のメイキング映像(テレビ放送用に編集されたもの)によると、出演者が最初自分の言葉で語り、それを記録し再構成して戯曲化しているようだ。出演者はセリフをきっちり覚えなくても元々が自分の言葉であり登場人物の「本物」なのである。スタニスラフスキー・システムも、鈴木忠志の言う「個人史」も、唐十郎のいう「特権的肉体論」も一気に飛び越える可能性のある演技態の導入である。コロンブスの卵のような演技法だ。

近年現代演劇を語る時のキーワードの一つとなっているのが「身体性」である。正直、私にはこの「身体性」ということの意味がよくわからない。わからなかった。

チェルフィッチュの岡田利規が早稲田大学での「60年代演劇再考」(2008/10/17)のパネルディスカッションで「今自分が興味を持てるのはコンクレートなものを見せる事だけだ」と言って会場およびディスカッションの同席者たちを一瞬ポカン!? とさせた。岡田のいうところの「コンクレート」の意味がそのディスカッションの文脈のなかでは唐突だったのでよく理解されなかったようだ。後日「世田谷パブリックシアター上演作品レクチャー2008秋『友達』」(2008/10/24)の時に岡田は「「具体」にしか興味がない。例えばここにゴッホのひまわりの絵があるとする。キャンバスの上に油絵具で描かれたひまわりは「具象」、厚塗りされ油絵具の重なったゴツゴツしたところが「具体」」ということらしい。これって「身体性」のことじゃないの? と私は勝手に理解した。つまり舞台における身体性とはその役者のもっている絵具のゴツゴツ(あるいはツルツル、ベタベタ、ヌルヌル)がどれだけ出ているかということなのではないだろうか。

この『Das Kapital』ではそのゴツゴツがよく見える。もともとひまわりを描こう/演じようとしていないので全身ゴツゴツ、ベタベタである。本人ゆえの奇妙な迫力や素人ゆえのにじみ出る緊張感は観客に直接伝わる。「ああ、この人はこんな風に生きて来たんだなぁ」と確かに思わせる立ち姿がそこにある。とはいうものの劇中の役を演じてはいない(だってそれは自分自身だから)が人前で自分自身をやはり演じているわけで、時として急に言葉が届かなくなる瞬間があった。活動家のドイツ人青年、大学院でマルクス経済学を研究している日本の青年が将来について語った時にそれを強く感じた。それに不満があるということではなく自己演出=自分の中のひまわりを含めての絵具のゴツゴツなのだ。

●そして再び、巧みなウソとぎこちない本当
見終わって劇場をあとにすると出口でチラシを手渡された。マルクス主義を勉強する読書会のお知らせ。会場にも日頃劇場ではあまり見かけないタイプの観客がたくさんいた。私は『資本論』は読んでいない。読んだのは宮沢章夫著『『資本論』も読む 』と当日会場で読んだ『まんがで読破『資本論』』だけである。『Das Kapital』は講義や勉強会ではなく演劇である。劇全体としては「資本論、素晴らしい」とも「マルキシズムは終わった」とも「今こそマルクス再評価」とも言っていない。プロパガンダ臭はまったくない。また登場人物の人生は語られるが、それに涙したりするような種類の芝居でもない。ここには極めて高度に編集・再構成されたモノ=具体がある。

字義通りのノンフィクション演劇などあるはずがない。「事実に基づいた」演劇も、本人が演じ語る事が本当のことであろうとも舞台に上がった時点でそれはウソになる。美術館の壁にゴッホの絵が掛けてある。そのすぐ下のプレートにはタイトルとちいさなキャプションがついている。「この絵は自殺の数時間前に描かれた」あるいは「クリスティーズで30億円で落札しました」とか。絵の芸術的な評価は変わらないかもしれないが明らかに鑑賞者の感じ方はかわるだろう。『Das Kapital』は巧みにつけられたキャプション込みで私たちの前に提示されている。

お芝居ががうまくて褒められるのは舞台にいる役者だけだ。その枠から逸脱した演技者はいかがわしいものとなる。逆に演技が行われると了解されている場所に入り込んだ現実=本人はどうだろう。よく考えてみると、きわめてあやうい状態になってはいないだろうか。『Das Kapital』は演劇の根源的な問いかけを含んだ刺激的な作品であった。
(文中敬称略。なお引用した岡田利規氏の発言の要約は私の記憶に基づいています。文責は私にあります。)
(初出:マガジン・ワンダーランド第136号、2009年4月22日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
第二次谷杉(だいにじ・たにすぎ)
演劇と関係ない生活を送っていたが2003年から病のように舞台を見始める。直近作としては2009年4月pit北/区域で『腹腹ボレロ』公演、イタイ戯曲を書き、イタイ目にあう。劇作家という肩書きが恥ずかしいダメダメな日々。2005、2006年かながわ戯曲賞最終選考、2006年仙台劇のまち戯曲賞本選考候補、2008年名古屋文化振興賞一次審査通過。でも結局受賞歴なし。生業はグラフィックデザイナー(http://www.igusinats.com/)

【上演記録】
リミニ・プロトコル(Rimini Protokoll)「カール・マルクス:資本論、第一巻」(Karl Marx: Capital, Volume One)-フェスティバル/トーキョー09参加作品
にしすがも創造舎(2009年2月26日-3月1日)

出演:
大谷禎之介(元大学教授、MEGA編集者)
トーマス・クチンスキー(統計学者、経済家)
クリスティアン・シュプレンベルク(コールセンター・エージェント)
佐々木隆治(大学院生)
フランツィスカ・ツヴェルク(翻訳家、通訳)
ヨヘン・ノート(経営コンサルタント、講師、中国・アジア専門)
萩原ヴァレントヴィッツ健(大学講師)
ウルフ・マイレンダー(作家、施設コンサルタント)
タリヴァルディス・マルゲーヴィッチ(歴史家、映画作家)
脇水哲郎(会社員)
サシャ・ワルネッケ(革命家、メディア業界のセールスマン)
ラルフ・ワルンホルツ(公共電気技師、元ギャンブラー)

コンセブト・演出:ヘルガルド・ハウグ、ダニェル・ヴェツェル
リサーチ・演出助手:セバスティアン・ブリュンガー
舞台美術:ヘルガルド・ハウグ、ダニェル・ヴェツェル、ダニエル・シュルツ
ドラマトゥルグ:アンドレア・シュヴィーター、イマヌエル・シッパー
照明:コンスタンティーン・ソネソン
音響:フランク・ベーレ
ビデオ・アシスタント:ミハエル・コッホ
製作:デュッセルドルフ市立劇場
共同製作:ベルリンHAU劇場、チューリッヒ市立劇場、フランクフルト市立劇場

【東京公演日本側スタッフ】
技術監督:寅川英司+鴉屋
照明:佐々木真喜子(ファクター)
音響:相川晶(サウンド・ウィーズ)
技術監督アシスタント:佐藤恵
美術:大津英輔+鴉屋
舞台監督:中原和彦
小道具・演出部:栗山佳代子
ピンスポット操作:岡本沙知恵(ファクターs)
にしすがも創造舎劇場スタッフ:弘光哲也
翻訳・字幕操作・通訳:萩原ヴァレントヴィッツ健
字幕アドバイザー:幕内覚
通訳:石井園子
舞台写真:石川鈍【F/Tスタッフ】
制作:ウルリケ・クラウトハイム、辻奈都子
F/Tクルー:榎本有希子、竹中香子、砂川史織、ピア・シュミット、羅苓寧
特別協力・助成:ドイツ文化センター
特別協力:株式会社大月書店
協力:日本点字図書館
後援:ドイツ大使館
主催:フェスティバル/トーキョー

ポスト・パフォーマンストーク-2月27日 演出家と出演者
チケット:一般4,500円/学生3,000円、高校生以下1,000円 自由席


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