忘れられない一冊、伝えたい一冊 第23回

◎『うみべのまち 佐々木マキのマンガ1967-81』(佐々木マキ 太田出版)
  鳥山フキ

 イラストレーター・絵本作家としても知られるマンガ家・佐々木マキさんのマンガ集です。
 実験的なマンガで、読むのは少しむずかしいです。
 本を開いた時、あまりにもわからなそうなので絶望的な気持ちになりましたが、比較的簡単そうな話から読んでいったら、読めました。
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【レクチャー三昧】2013年4月

 少なくて申し訳ございませんが、新年度の催し告知は未だ殆ど出ておりません。4月1日以降に告知されたものは【レクチャー三昧】カレンダー版に入力いたしますので、そちらをご覧下さい。
(高橋楓)
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【レクチャー三昧】2013年3月

 直接関係がない話なのですが、先般、友人が「どうしてポストトークやシンポジウムに出てくる先生方ってしょっちゅうマフラーをしてるのかしら」といぶかしがっていました。女子校出身の彼女は「マフラーは表でするもので室内に入ったら外すものである」と厳しく躾けられたそうです。そういえば実によく見る光景です。
(高橋楓)
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マレビトの会「アンティゴネーへの旅の記録とその上演」

◎感取と想起の時間―「読む」演劇と「見られる」身体の狭間で
  高嶋慈

 演劇の上演における「時間」とはいかなるものか。(解釈以前に)上演の「受容」形態が複数あるならば、それについて語ることはどのように共有されうるのか。演劇は再現=表象のメディアなのか。俳優の身体を通して、私たちは何を「見て」いるのか(そもそも「見る」とは何を指すのか)。
 そこで行われていることが紛れもなく「演劇」であるにも関わらず、その概念を自明のものとして了解するのではなく、いくつもの問いの連鎖へと開いていく―フェスティバル/トーキョー12で上演された、マレビトの会『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』は、そのような磁場を立ち上げるが故に、強い印象を残す作品であった。それは、メディアを介した出来事の間接的な受容、可視化への欲望、共同体の記憶と死、そこに働く選別の意識や論理といった諸問題を胚胎させつつ、上演芸術とその受容についての原理的な問いを喚起するものであった。
 そしてこの評自体もまた、「全体像」の把握・俯瞰ができず、可視的な像を結ぶことから逃れゆこうとする上演を言語によって記述=捕捉しようとする企てであり、また極めて個別的な位相(そもそも芸術経験はそうだが)に留まろうとする経験の質に抗って、書き連ねていかねばならない。
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【レクチャー三昧】2013年2月

 2月は大学開催の一般公開講座は少ないのですが、定年を迎える教授の最終講義が3月にかけて行われます。また、そろそろ大学・大学院の「聴講生」「科目等履修生」の募集が開始されます。事実上無試験で入学できるところもありますので、興味のある方は是非ご検討下さい。一科目でも、教員、学生仲間、そして図書館により、学ぶところは甚大です。(高橋楓)
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Port B 「光のないII」
ミュンヘン・カンマーシュピーレ「レヒニッツ (皆殺しの天使)」(F/T12イェリネク三作連続上演から)

◎イェリネクからなにが見えたのか
  高橋宏幸

Port B 「光のないII」プログラム表紙
「光のないII」プログラム表紙

 おそらく、エルフリーデ・イェリネクという作家への一般的なイメージは、難解の一言に尽きているのではないか。少なくとも、演劇という分野で、日本で上演される際はそう思われていただろう。しかし、そのわりに今までリーディングだけでなく、上演もされている。小説だけでなく、戯曲も出版されている。それは、良く言えば、テクストのわからなさや難解さゆえに、上演に果敢に挑もうとする人がいたということだ。悪く言えば、スノッブゆえに小難しい作品の演出をしたがっているものがいる、そんなふうに思われてきたふしがある。
 今回、「フェスティバル/トーキョー」で、いくつも上演されたイェリネクの作品からは、そんな難解さなどという一言に還すことができない作品がいくつもあった。むろん、分かりやすく演出されたということではない。主催公演では三作品、公募プログラムでも一作品と、イェリネク作品が、これだけ一挙に上演されると、まるで難しさの飽和点から、一挙にシンプルな現実の問題へと、イェリネクの言葉を召喚したような結果が生まれた。
 むろん、個々の作品が目指したことは、その一点に帰そうとするものではない。しかし、上演されたなかでも、優れていると思われた作品には、現実への闘争のために、いかにイェリネクの言葉が重要となっていたのかが必然的に現れた。
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ミュンヘン・カンマーシュピーレ「レヒニッツ (皆殺しの天使)」(F/T12イェリネク三作連続上演から)” の
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【レクチャー三昧】2013年1月

 年明けの催しについての告知は未だ少ないようです。1月から2月にかけて諸大学は入試や学期末で多忙を極め、一般公開講座の開催はもとより少なめなのですが、惹かれる催しの告知を見つけましたら【レクチャー三昧】カレンダー版に入力致しますのでそちらもご覧下さい。皆さまにはどうぞよいお年をお迎え下さい。
(高橋楓)
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忘れられない一冊、伝えたい一冊 第17回

◎「the good, the bad, the average…and unique―奈良美智写真集」(奈良美智 リトルモア 2003年)
  田口アヤコ

奈良美智写真集 表紙
「奈良美智写真集」表紙

 どこで手に入れたのだったか、それがいつだったのか、自分でどこかで購入したのだが、まったく記憶にない。ただ、いま、わたしの手元にいつもあり、旅先や、本番に入ってからの劇場にも携行していくことがある。ぱらぱらとめくって、精神安定剤のような、ギターのチューナーのような、音叉のような、ミネラルウォーターのような、いつもする1時間ほどのストレッチのような、自分の精神と身体と、「世界と、」の距離の調整をするために使っている。(ということは、「演出家/劇作家」としては、この本を利用していないのだな、「俳優」として利用しているのだな、と、自覚。。。) いちど、旅行カバンの中で擦れてしまい、アイボリーのざらりとした布張の表紙には、ぎりっと一本の傷が付いている。
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リア・ロドリゲス「POROROCA」

◎混沌と獣性を振付ける-奔流する肉体の群れ
 高嶋慈

 今年第3回目を迎えるKYOTO EXPERIMENTは、昨年度より、ブラジルのダンス・フェスティバルPanoramaと提携関係を結んでいる。今年は提携プログラムの1つとして、Panoramaの創設者であるリア・ロドリゲスが振付けしたダンス作品『POROROCA(ポロロッカ)』が上演された。「POROROCA」とは、大潮によって大量の海水がアマゾン川に逆流する自然現象を指す言葉である。リア・ロドリゲスは、自身のカンパニーの拠点をリオデジャネイロの貧民街の1つであるマレ地区に置き、ワークショップなどの活動を通じてコミュニティと関わりを持ちながら創作活動を行っている。本作『POROROCA』では、近代的な個としての身体の輪郭が集団の中に溶け出し、混沌と生(性)のエネルギーに充満した場を創出させることで、ダンスは社会のリアリティに対してどのように対話できるのか、という問いかけがなされていた。その真摯な問いの実践としてのダンスは、ブラジルという地域性、歴史的・文化的・自然的特性だけに限定されるのではなく、普遍性を持って見る者の思考と身体に迫ってくる強度を備えていた。
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チョイ・カファイ「“Notion: Dance Fiction” and “Soft Machine”」

◎フィクションとしての「憑依」から浮かび上がる豊穣さ
  高嶋慈

 『Notion: Dance Fiction(ノーション:ダンス・フィクション)』(以下『N:DF』と略記)は、土方巽やピナ・バウシュといったダンス史上に名を残すダンサーや振付家の動きを、映像を元にデジタル化し、筋肉への電気刺激を通して生身のダンサーの身体に「移植」することで、その「再現」を行うというパフォーマンス作品である。コンセプトと演出、マルチメディアデザインを手がけるのは、シンガポール人のメディア・アーティスト、チョイ・カファイ。今年第3回目を迎えるKYOTO EXPERIMENTでの上演は、ダンサーの寺田みさこの身体で「実演」する第一部の『N:DF』と、contact Gonzoの塚原悠也とカファイの対話、及びその技法を使っての実践/実戦からなる第二部の『Soft Machine(ソフト・マシーン)』という、二部構成から成っていた。本評では、第一部の『N:DF』を中心に、カファイのアプローチが仕掛ける様々な問い―テクノロジー、身体、記憶、オリジナルとコピー、歴史の受容、そして「ダンス」とは何かという根源的な問い―について考えてみたい。
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