KJプランニングス「ザ・モニュメント 記念碑」

◎直接的であることと代行すること
 清末浩平

「ザ・モニュメント 記念碑」公演チラシ1.「ザ・モニュメント 記念碑」

 前置きをしている場合ではない。ただちに私が観たものについて述べよう。
 小さな劇場は壁も床も剥き出しになっている。舞台側の壁際には、廃物めいたさまざまな道具が無造作に置かれており、その内側に、細いひもでアクティングエリアが仕切られている。「私はハッピーだ」と歌う能天気なダンス曲が流れている。舞台奥には配線を露出したモニターがあり、その画面に、世界の各国で踊る人たちの姿が次々に映される。やがて音楽が消え、モニターも真黒になる。男女1人ずつの俳優が舞台に入って来る。「THE MONUMENT/記念碑」という字幕がモニターに映されて劇が始まる。
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劇団唐ゼミ☆「海の牙」(プレ公演)

◎適切さの欠落
 清末浩平

(1)名作に包囲された問題作

 本稿は、2011年の5月に書かれている。去る4月の27日と28日の2日間、劇団唐ゼミ☆が、古巣である横浜国立大学の構内にテントを建て、第19回公演『海の牙』の「プレ公演」を上演した。この演目は、かなり長い磨き直しの期間を経た後、6月18日から7月3日にかけて、浅草で再び観客の前に姿を現すことになるという(http://www.karazemi.com/ なお、以下の文章では、『海の牙』のストーリーが解説されてしまうため、劇団唐ゼミ☆の本公演をこれからご覧になる方は、観劇後に読んでいただくほうがよいかも知れない)。
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劇団唐ゼミ☆「下谷万年町物語」

◎夢のようにリアルな
 清末浩平

「下谷万年町物語」公演チラシ 唐十郎の戯曲『下谷万年町物語』は、1980年に執筆され、翌1981年、蜷川幸雄の演出によりPARCO西武劇場で初演された。少なくない数のメイン・キャストのほかに100人もの男娼(オカマ)も登場し、大掛かりな舞台転換もあるこの劇は、初演以降長らく再演不可能といわれていたらしい。唐十郎の監修のもとに唐の過去作品を上演する劇団唐ゼミ☆は、2009年、劇団外部からの客演を多数募り(この劇団には珍しいことだ)、舞台美術や演出効果の面でも大規模なスペクタクル性を前面に押し出しつつ、この戯曲を再び上演してみせた。そして2010年、同劇団は座組みを劇団員中心のメンバーに絞り、規模の大きさより内容の密度を重視する方針を採用して、『下谷万年町物語』をゼロから作り直したのだが、本稿が論じるのはこの2010年11月の劇団唐ゼミ☆による上演である。
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劇団唐ゼミ☆「蛇姫様-わが心の奈蛇」

◎劇の厳密なる作動(後編)  清末浩平 5-散文性の優位  山口猛は『同時代人としての唐十郎』(三一書房、1980年)の中で、70年代の唐十郎戯曲に共通する構成を「一幕においての登場人物の紹介、及び事件の発端、二幕におけ … “劇団唐ゼミ☆「蛇姫様-わが心の奈蛇」” の続きを読む

◎劇の厳密なる作動(後編)
 清末浩平

5-散文性の優位

 山口猛は『同時代人としての唐十郎』(三一書房、1980年)の中で、70年代の唐十郎戯曲に共通する構成を「一幕においての登場人物の紹介、及び事件の発端、二幕における展開(この場合、ほとんどヒロイン、あるいはヒーローが傷つく)、そして三幕におけるヒロインの再生と後日譚」というふうに明快に整理し、唐がこの戯曲構造を「崩すことなく守っている」ことを批判的に重要視している。扇田昭彦もまた、唐十郎全作品集第4巻(冬樹社、1979年)の解題において「唐十郎の戯曲は、一編一編が独立しながらも、しかし結局のところ、同心円状に渦まくいつも共通のドラマを読んでいるのではないかという印象を私たちに与える。[……]唐十郎のドラマの原型を探ることは、つねに唐十郎読解の基本作業であろう」と述べる。

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劇団唐ゼミ☆「蛇姫様-わが心の奈蛇」

◎劇の厳密なる作動(前編)
清末浩平

1-前提……状況の中で

「蛇姫様-わが心の奈蛇」公演チラシ唐十郎の劇について今日何事かが語られるとき、かつて唐の提示した「特権的肉体」を初めとする術語群が用いられることほど、陳腐で心そがれる光景はない。唐の『特権的肉体論』が仰々しいマニュフェストとして読まれざるをえない時代のあったことを否認する必要もあるまいが、しかし、同書の中に並ぶ文章がすべてエッセイにすぎぬことは明白であり、ある状況下に置かれたある書き手の瞬発的な反応以上のものを『特権的肉体論』から読み取ろうとする試みは、すべて否応なく誤読となる。実際、書き手であるところの劇作家も、40年も前に書き捨てた例のエッセイを、もはや一顧だにしていないではないか。
彼が戯曲を書く際の驚嘆すべき速筆に象徴されるように、唐十郎の特質のひとつは、文字を書き捨ててゆくその異様なまでの速度である。状況に対する直観的感応力と言い換えてもよい。時が過ぎ状況が変化したいま、40年前のエッセイを参照せねばならぬ理由はどこにもなく、我々は赤い表紙のあの書物を本棚の隅にしまって、身ひとつで劇場へ出かければよいのだ。唐作品の上演される劇場へ。

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「春琴」(サイモン・マクバーニー/演出・構成)

◎観る前には戻れない 上質なドキュメンタリー映像の感覚
清末浩平(劇作家、劇団サーカス劇場主宰)

「春琴」公演チラシ先日、私の先輩で休業中(?)の演出家である西悟志氏と会ったとき、彼が「戯曲でなくても、どんなテキストであっても舞台作品として上演することは可能だ」と言ったのを聞いて驚いた。
西氏は実際、プーシキンの小説など非戯曲作品の演出をこれまで行っており、特に阿部和重の小説『ニッポニアニッポン』の舞台化作品は大傑作の名に値する舞台として私の記憶にも刻みつけられているのだが、しかし、喫茶店で私と話しているときに「舞台作品として上演」できるテキストの例として彼が挙げたのは、東浩紀の『動物化するポストモダン』だったのである。言うまでもなくこの高名なテキストは評論文であり、ストーリーを備え会話もある程度書かれている小説ならともかく、そんなテキストが演劇として上演されるような事態など、そのときの私には想像もできなかった。

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