劇団唐ゼミ☆「蛇姫様-わが心の奈蛇」

◎劇の厳密なる作動(前編)
清末浩平

1-前提……状況の中で

「蛇姫様-わが心の奈蛇」公演チラシ唐十郎の劇について今日何事かが語られるとき、かつて唐の提示した「特権的肉体」を初めとする術語群が用いられることほど、陳腐で心そがれる光景はない。唐の『特権的肉体論』が仰々しいマニュフェストとして読まれざるをえない時代のあったことを否認する必要もあるまいが、しかし、同書の中に並ぶ文章がすべてエッセイにすぎぬことは明白であり、ある状況下に置かれたある書き手の瞬発的な反応以上のものを『特権的肉体論』から読み取ろうとする試みは、すべて否応なく誤読となる。実際、書き手であるところの劇作家も、40年も前に書き捨てた例のエッセイを、もはや一顧だにしていないではないか。
彼が戯曲を書く際の驚嘆すべき速筆に象徴されるように、唐十郎の特質のひとつは、文字を書き捨ててゆくその異様なまでの速度である。状況に対する直観的感応力と言い換えてもよい。時が過ぎ状況が変化したいま、40年前のエッセイを参照せねばならぬ理由はどこにもなく、我々は赤い表紙のあの書物を本棚の隅にしまって、身ひとつで劇場へ出かければよいのだ。唐作品の上演される劇場へ。

-では、2010年現在の唐十郎作品の上演は、どのような状況にあるのだろうか?
たとえば唐自身の劇団唐組では、私小説的なものへと接近しつつある現在の唐十郎が、周囲の俳優たちから受け取ったイメージ、自らの記憶、生活感情などをヒエラルキーなき混淆へと落とし込み、偏執性と分裂性の交錯するアナーキックな演劇機械を作動させている。そこに近年顕著なのは、無意識の露出に似たスリリングな手触りである。あるいは唐の弟子である金盾進の新宿梁山泊は、唐戯曲のスペクタクル性および娯楽性に焦点化した上演を続ける。他の劇団や演出家に対して戯曲を書き下ろすことのほとんどなくなった唐も、新宿梁山泊に対しては、2005年に新作『風のほこり』を提供している。

これらの劇団の活動もそれぞれに興味深いが、本稿がいままさにとりあげようとしているのは、唐の過去の戯曲をきわめてオーソドックスな形で現代へと召喚する劇団唐ゼミ☆である。この劇団の成熟をもって、唐十郎の戯曲群はすぐれた意味での「書き捨てられたもの」、すなわち、古典的テキストとしての地位を獲得した。作家の内部に想定される甘やかな闇や特定の時代の熱から切断されてもなお成立する、スタンダードなレパートリーとなったのだ。

劇団唐ゼミ☆は、唐が1997年から教授職を務めた横浜国立大学のゼミナールを母胎とした劇団である。発足当初は唐自身の演出によって唐戯曲を上演する学生劇団であったが、2001年、当時学生であった中野敦之が演出を手がけ始め、2005年の唐の退官に伴い劇団として独立した。唐は現在もこの劇団の監修であり、彼に対する団員たちの敬意は「唐ゼミ」という劇団名にも見て取れるけれども、実質的にはこの劇団の公演は、中野を中心とする団員たちによって自立的に、プロフェッショナルな形で制作されている。

この劇団による唐作品の上演がどのようなものであり、いかなる意義を持つのかは、本稿が最新作『蛇姫様』を論じてゆく中で、おのずと明らかになろう。『蛇姫様』は1977年、劇団状況劇場の公演のために書き下ろされた戯曲であり、同年の「新潮」6月号に掲載され、中央公論社から単行本も出版された。2009年にはカットされた台本をもとに、商業演劇的なプロデュース公演としてル・テアトル銀座で上演されているが、2010年7月の劇団唐ゼミ☆による上演は、3幕3時間超の完全ノーカット版である。

この戯曲は、現在新刊本で入手することが不可能であるうえに、唐十郎の筆による他の戯曲と同じく、書かれている内容を把握すること自体けっして容易とは言えない。したがって、まずは『蛇姫様』という戯曲を読むところから手をつけねばなるまい。劇団唐ゼミ☆による上演の水準は、とりあえずのところ捨象される。長い迂回路となるだろうが、この迂回を恐れてしまうと、唐十郎のテキストは隠微な闇の中に沈み込み、「特権的肉体」を初めとするジャーゴンだけが再浮上してしまうことになるだろう。そのような曖昧さを回避し、厳密に作動する装置である唐のテキストに明晰性の光を当てることが、ここでは絶対に必要なのだ。なぜならば、劇団唐ゼミ☆の上演自体が、明晰性を武器としているのだから。

2-テキストとの並走(1)……第1幕

第1幕。
自分の死後は東京にいる伝次という男を頼れ、という母の遺言に従って小倉から東京へやってきたヒロインあけび(椎野裕美子)は、上京したての頃に山手線で母の日記帳を掏られて以来、「母ちゃんの日記をスリ返さなくちゃならない」と、掏りに身をやつして街をさまよい歩いている。日記帳に伝次の住所が書いてあるため、それを取り戻さなければ伝次を訪ねられないのである。

あるとき、下町の取り壊された風呂屋跡に残る海の絵の前で、あけびは小林と名のる青年の掏り(土岐泰章)と出会う。この青年は江戸川乱歩の小説に登場する小林少年が苦い「成長」を経た姿であり、かつて「少年探偵団長」だった記憶に呵責され、いままさに掏り稼業から足を洗おうとしていた。

男 [……]山手線をショバにしていたんですが、それも、こないだやめました。今夜は、今までにスッた物を返そうと、ズダ袋にまとめまして、この風呂屋の跡に置いていこうと思ってきたんです。

そう言って小林が見せた数々の盗品の中に、あけびは母の日記帳を発見する。小林こそが、あけびから日記帳を奪った張本人だったわけである。あけびへの負債を返済するため、彼女の「道案内」をする「密偵」となることを小林は志願し、ここから主人公2人の奇妙な関係が始まる。

「蛇姫様」
【写真は「蛇姫様」公演から。撮影=田中千彬 提供=劇団唐ゼミ☆ 禁無断転載】

-かくも複雑な設定が作品の冒頭部に導入されていることに、我々は改めて驚かねばなるまい。唐十郎の演劇は難解であるとよく言われるけれども、その理由の内で大きな割合を占めるのが、劇の始まる時点ですでに設定されてしまっている厖大な情報である。それらの諸要素は序盤から性急に結合や反発の運動を開始し、まったく無関係かと思われたある2つの情報が思わぬ接続を見せることもしばしばで、しぜん劇としての複雑さは容赦なく加算されてゆくわけだが、このような諸情報を設定することは、おそらく、すぐれて都市的な作家である唐十郎にとって必要不可欠なドラマトゥルギーであり、都市における交通という主題が唐に要請する本質的なテクニックなのだ。

ここで用いられる都市という語は、たとえば、唐十郎が東京の下町の風俗を描くことを得意としている、などといった文脈の中にあるわけではない。『蛇姫様』の劇中に見られる「都会は、田舎者の集合まりなんだぞ」という台詞を参照してもよいが、唐十郎の作品の都市性は、共同体と共同体の間--異なる共同体の成員たちが出会ってしまう場所--を舞台に選んでいる点にこそ存する。都市とは、異なる共同体に属する人間たちが、自らの共同体の境界線を踏み越えて互いに交通を始める中継点、すなわち、他者と他者との出会う場所である。現代の都市の中で、見知らぬ者どうしに出会いをもたらすために、上記のような複雑さと関わるテクニックを、唐十郎は採用していると言える。

さて、母の日記帳を取り戻したあけびは、当初の目的であった伝次探しを再開する。問題の伝次という男は、朝鮮戦争当時、アメリカ軍キャンプであけびの母とともに働いていたが、現在は東京で藪野文化(熊野晋也)が営む床屋に居候している。あけびはその藪野家を尋ね当てる。

あけび [……]伝次さんに会わせて、ちょっと就職の口ぐらい、分かりますね、[……]昔、母ちゃんと一緒に、小倉のキャンプ・ジョーノで働いていた伝次さん、なっ、その伝次さんに、ひとまず、会わせてつかあさい!

藪野家の家人である青色申告(井上和也)にあけびは懇願するけれども、朝鮮戦争に加担した日本の暗い記憶を否認するかのように、青色はあけびを追い返す。一方、小林とその弟分のタチション(重村大介)は、あけびに掏りを教えた権八という親方(安達俊信)に因縁をつけられる。「ショバ荒し」として小林は指を一本切られ、タチションは権八一家の掏りの姉妹(小松百合、水野香苗)が飼うまむしに噛まれてしまう。

それぞれに傷を負ったあけび、小林、タチションは都市の片隅で身を寄せ合うが、そんな中、小林はあけびの腕に「蛇のウロコ」のような痣を見つける。「あんたは蛇姫様かい?」と問う小林にあけびは「いかにも、わらわは蛇姫様じゃ」と答え、「白菊谷」という人外境の空想を語り始める。-自分は蛇のウロコを消すために、「白菊谷」の奥に咲く「黒いあけび」を求めているのだと。「白菊谷」への旅の途上にあるのだと。行き場を失ってしまったあけびと小林は、「蛇姫様」と「白菊谷」の空想に耽ることで、現実の苦しみを無化しようとする。

そこへ通りかかったひとりの男が、あけびを見て「キャンプ・ジョーノにいたシノさんじゃないか」と声をかけてくる。シノとはあけびの母の名である。この男こそが、あけびの探していた伝次であった。伝次(安達俊信-二役)はあけびをその母と取り違え、朝鮮戦争時の「釜山からの死体処理船」である「白菊丸」の思い出を語る。

「蛇姫様」
【写真は「蛇姫様」公演から。撮影=平早勉 提供=劇団唐ゼミ☆ 禁無断転載】

ここに、『蛇姫様』の物語へと流れ込む3つの時間、3つの世界が、それぞれの輪郭を際立たせ始めたことを、確認しておかねばならぬだろう。

1つめの世界は、舞台の上で展開される現代日本の時間である。劇の現在と呼んでもよい。ドラマトゥルギーの点から見れば、唐十郎の演劇は、ほぼ1時間ほどの「幕」を単位として、ひとつの幕の中ではシチュエーションが変わらず、時間の飛躍もなく、ひとつながりのシークエンスとして場面が展開されるが、その連続性の基底質となるのが、この劇の現在である。『蛇姫様』における劇の現在=現代日本の時間は、現実原則によって支配されており、この中ではあけびは母の知人であった伝次を頼り、「就職の口」を求めなければならない。

2つめの時間は、「白菊丸」に象徴される、朝鮮戦争時の記憶である。この時間は、伝次の回想やあけびの母の幻を介して、ことあるごとに舞台の上に召喚されてくることになろう。『蛇姫様』における設定の複雑さは、この系列の時間を物語の中に呼び込むために必要な情報の多さにも起因している。第2の時間の記憶は、暗く外傷的なものであり、現在の時間の中で抑圧され否認されながらも、ときおり間歇的に噴出する。そして、まるで多くのギリシア悲劇におけるトロイ戦争の記憶のように、現在の人間に対して宿命的に働きかけてくるのだ。

3つめの時間は、あけびと小林の共有する「白菊谷」の空想で、これは時間とも呼べぬ無時間の世界である。現実原則の中で無力を感じざるをえず、外傷としての暗い記憶からも苛まれる主人公たちは、たびたび「白菊谷」の世界へと逃避してゆくことになる。

-これらの3つの時間は、それぞれの登場人物に憑依しながら、舞台の上でヘゲモニー闘争を繰り広げる。ひとつの劇の中で複数の時間が対立するという弁証法的ドラマトゥルギーは、たとえば唐十郎に多大な影響を与えたテネシー・ウィリアムズの作品にもしばしば見られるものだが、しかし、70年代の唐の戯曲に類例のないほどの複雑さを付与しているのは、覇権を競いあう時間の系列が、2つではなく、3つ設定されている事態である。

ウィリアムズの『ガラスの動物園』を例にとると、そこで展開されるドラマは、社会的な現実原則(現在の時間)とローラの空想の世界(非時間)とが衝突し、後者が前者によって蹂躙される、といったものである。このような2つの時間の葛藤のみでも充分にドラマとしての弁証法を起動させられるにもかかわらず、唐十郎は、現在の時間(第1の時間)/近現代の歴史の時間(第2の時間)/空想の(非)時間(第3の時間)というくっきりとした三幅対-これらはラカン派精神分析理論の象徴界/現実界/想像界にそれぞれ対応する-を劇の中に導入し、諸時間の乱戦状態を作り上げる。唐十郎の演劇とは、次元の異なる3つの時間の系列が乱交的に衝突しあう、過剰なまでにダイナミックな闘争のドラマなのである。

さて、あけびは伝次に対して、自分は伝次の言うシノではないと告げる。伝次は、「じゃ、お前は…?」とあけびに問う。この問いには、当然、シノの娘だと答えるべきであろう。しかし、あけびはそうは答えられない。第3の世界「白菊谷」に、自分の「蛇姫様」としてのアイデンティティーを置こうとしていたあけびは、「白菊谷」を持ち出しながら第2の時間へのアイデンティファイを迫る伝次に、即座に対応することができないのである。あけびは第3の(非)時間と第2の時間との間で引き裂かれ、「わらわは…わらわは…」とつぶやきながらも「蛇姫様」と己を名指せぬまま、癲癇の発作を起こす。小林があけびの体をさすり、ただ「蛇姫様」と声をかけ続ける中、第1幕は終了する。

ここに現れた新たなモティーフである癲癇は、第3の(非)時間へのあけびの欲望が去勢されるたびにアレルギー反応の如く発動する装置として、非常にテクニカルな形で『蛇姫様』の物語に組み込まれており、今後も劇の各所でシグナルを発することになる。このような技巧を用いるドラマトゥルギーのあり方に対して、本稿はいずれ評価を下さねばなるまいが、ここでは、癲癇の発作が腕の痣とともにあけびを有徴化するスティグマであること、そして、このスティグマがはたしてどのような有徴性に起因するものであるのかはまだ明かされていないことを確認して、先へと進むことにしよう。第1幕終了後の行間に経過する数日間の時間が、発作的なあけびの拒絶反応を沈静化し、第2幕の冒頭では、第1の時間の現実原則が、とりあえずの覇権を獲得しているはずだ。

3-テキストとの並走(2)……第2幕

第2幕が始まると、都市の遊牧民たる主人公たちは放浪を中断し、定着の生活を営んでいる。タチションは掏りの権八一家が経営する「Bar箱師」に雇われ、小林はパチンコ屋の従業員になり、あけびは伝次の紹介で藪野の床屋に「就職」してしまっているのだ。

小林はパチンコ屋での一日の労働を終えると床屋の前までやってきて、あけびが出てくるのを待つ。そうしてあけびと小林は人目につかぬ路地で束の間の逢瀬を楽しむのである。この密やかな逢引きの間、小林はあけびを「蛇姫様」と呼び、第3の(非)時間への没入を励まし続ける。幻滅的な現実を忘れるため、2人が戯れに「白菊谷」への旅を語り合う場面は、テネシー・ウィリアムズに似た趣きをたたえている。あけびと小林は目指す「黒いあけび」を守る「蛇の化け物、すなわち、ドラゴン」を退治する空想にひたるけれども、8時からあけびは床屋の「講習」に行かねばならず、2人の(非)時間は霧散してしまう。

伝次の行う講習は、死体に施す化粧「エムバーミング」に関しての授業であり、この講習を受けて伝次の著書を諳んじられるようになったあけびは「エムバーマー」の資格を手に入れる。第1の時間の現実原則の中で生きてゆくための拠り所を得たかに思えたあけびだが、しかしここで、あけびの出生をめぐって第2の時間が浮上し始め、第1の時間と結託しながらあけびの有徴性を暴き立ててゆくことになる。

あけび 母ちゃんがあたしを宿したのは船の上でなんです。
伝次  船の上? ああ、いい人とボートこいでて、出来ちゃったということですか?
あけび いいえ、釜山から小倉に着く「白菊丸」。
伝次  ほう。海の向こうの人ですか。それで、帰化はなされたんですか?
あけび -帰化?
伝次  ええ。帰化。
[……]
あけび (青くなってきて)帰化って、あたし知らないんですよ。
伝次  しかし、社会に巣立つためには、帰化しなければ、だあれも雇いやしませんよ!

あけびの有徴性の源はその出生にあった。朝鮮民族であるあけびの母は、朝鮮戦争時に日本へと密航するためアメリカ軍の死体運搬船「白菊丸」に乗り、その船底で正体不明の多くの男たちから強姦されることであけびを孕んだのだった。死体化粧法の講習によって励起された死の主題に呼び寄せられるように、霊媒師にとり憑いたあけびの母シノの亡霊(禿恵)も現れ、「白菊丸」での陰惨きわまりない記憶を語る。

女 その肩に植わったウロコは、あたしがつけてやったのさ。このあたしの怨みがはえさしたと言っておこうか。あけび、世に子を思う親の気持と言うけれど、世に子を呪う親の気持もあるんだよ。あけび、でなければ、あたしが、お前を蛇姫と呼ぶわけがないだろ。ここまで言わせりゃ、こうも言おう。あけび、あたしがお前を産んでおきながら、密かにおまえを呪うのは、おまえの父親が死人だからさ。いや、こう言った方がいいかもしれない、死人を装いながら、ヌメヌメと動く蛇。つまり、おまえは、白菊丸の船底で、あたしが犯されて宿った鬼っこさ。お前を見る度、あの死体運搬船の汽笛が聞こえる。

自分を犯した男たちへの怨恨をかようにあけびへ転嫁しながらも、シノはやはり自分の娘であるあけびを思い、「こっちにおいで、そのウロコを取ってやる。[……]そしたら、帰化を済ましておいで」と呼びかける。シノは自らの記憶の陰惨さを、あけびの帰化をもって抹消しようとするのだ。それは同時に、あけびのスティグマを消去して第1の時間へと馴致することでもある。

しかし、第2の時間が第1の時間と連携しつつ強制してくるこのような帰属証明を、あけびは容認しない。現実原則(第1の時間)に屈服することも、出生にまつわる有徴性(第2の時間)に支配されることも拒否して、自らの固有のアイデンティティーをうちたてようとするのだ。そのときにあけびのとる戦略は、シノの呪いとして受け取った「蛇姫」という名の価値を反転し、横領することである。この作戦の採用は、歴史の時間に遅れて生まれた世代の人間が、自分の関与できなかった過去を引き受けながら新しい現代の時間を生きるための、すぐれて倫理的な決断ともなる。

あけび 帰化はしないんです。
女   何てバカなんだい、お前は、帰化しなきゃ、だあれも雇っちゃくれないよ。
あけび 雇われない。この姫は雇われないんです。たとえ、母ちゃんの言うことだって、この姫は、姫で、ずっと姫でいたいんだ。(とうつむく)
女   でも、床屋の人には、もう頼んでしまったんだよ。末永くよろしくと。

急に汽笛。

あけび (耳をふさぐ)たとえ、この音にさいなまれようと、あんたの姿を思い出そうと、蛇姫と呼ばれちまった者は、ずっと蛇姫を全うしなきゃならないじゃないか。

まだ力弱い、駄々っ子のような反抗ではある。第3の(非)時間を利用したこの反抗が、他の2つの時間に拮抗する力を持つには、他者による援助が必要とされるだろう。実際、孤立した「蛇姫」たるあけびは追い詰められて再び癲癇の発作を起こし、駆けつけた小林にとりすがるのだった。

「蛇姫様」
【写真は「蛇姫様」公演から。撮影=平早勉彬 提供=劇団唐ゼミ☆ 禁無断転載】

しかしここで、援助者たる小林は、あけびに残酷な事実を突きつける。第3の(非)時間へと逃避し続けることに疑問をおぼえ、現実を直視する必要を感じた小林は、「これからどんなことがあろうと、僕はあなたを蛇姫と呼び、あなたにずっと仕えます」と誓ったうえで、厳しい決心とともにあけびの空想を脱魔術化してゆくのである。「もしかしたらば、真の黒あけびなど無いかもしれないのです。だから、つまり、果てしない谷をゆきつづける、この胸の中に、それは咲くのかもしれません」と言われた段階では、あけびもその言葉を小林の「成長」として歓迎することができるが、小林はさらにあけびの腕の「ウロコ」へと話題を移す-

小林  それはどんなウロコです?
あけび 青みどろの光ったやつさ。
小林  もしかしたらば、僕が悪かったのかもしれません。初めてそれを見て、そう伝えたのは僕なんですから-。
あけび まわりくどいね、何を言いたいねん?
小林  始めから、そんなもの無かったんです。
あけび え?
小林  そこにウロコはありません。
あけび -?
小林  あれは只のアザだったんです。

補助者たるべき他ならぬ小林から現実原則を突きつけられてしまったあけびは、なけなしのアイデンティティーの崩壊に、拒否反応を示さざるをえない。「でもそれがなきゃ、あたしは只の-[……]てんかん女にすぎないだろ」という悲痛な言葉とともに、またしても癲癇の発作を起こすのである。第2幕はここで終了するが、あけびの固有性が最後に賭けられた「ウロコ」を「只のアザ」と断じてしまった小林は、あけびの存在の拠り所を奪ってしまったことへの自責の念を背負ったまま、第3幕に入らねばならない。

4-テキストとの並走(3)……第3幕

第3幕は、あけびの帰化申請の書類をめぐって展開する。アメリカ軍キャンプからバザーの招待状を受け取った伝次(じつはこの男は掏りの権八と同一人物であり、この時点では2つの役柄が渾然一体となっている)は、エムバーマーとしてあけびを同伴するため、帰化申請の書類を役所に提出するよう言いつけている。書類には日本における身元引受人の判が必要なのだが、現実原則への服従を余儀なくされながらもそんな自分を否認したいあけびは、第1幕で権八に切断された小林の指を印鑑の代わりにしようと思い、その許可を得るために小林と再会する。

あけび いいだろう、山手線、この指、使わしてもらっても。あたしには、代りに使うハンコが、どこにもないんだ。たとえ、これで帰化しても、あたしの帰って行くところは、お前の指紋の中ということにもなるでしょうし、そこが白菊谷だったら、こんなにうってつけの帰化はないしさ、本当のところ、あたしには、気のおけない奴なんか、お前の他にありゃしないんだ。

むろん、切り取られた指などが印鑑の役割を果たすはずもなく、「そんな帰化はありません! ……それは、つまり、社会的に帰化したことにはならないんです」と小林は言う。しかし、もし本当に実効力のある判をついてあけびを帰化させてしまえば、もはや第1の時間を支配する権力に抗うすべもなくなるわけであって、そのような事態を惹起するよりは、印鑑の代わりになどなりえぬ指を使って硬直した社会を攪乱することのほうが、あけびと小林にとってはよほど望ましい。--そう思い直した小林は、自分の腕を傷つけてその血を印肉とすることを申し出る。国家への帰属を迫る書類を弄ぶこのような無償の遊戯をスプリングボードとしつつ、あけびと小林は、もう一度第3の時間を舞台上に呼び寄せようとするのである。
そこへ、霊媒師の体を借りて、再びあけびの母シノが現れる。観客はシノの登場を見て、第2の時間が第3の時間を圧殺するためにやってきたのだと思うだろうが、しかしここでのシノは、あけびと小林の補助者へとその役割を変えている。

シノ [……]「蛇姫」と呼びながらも、心のうちで、不憫に思ってた、あたしの泣き顔、お前はそっと見ていたね。今では逆に、そう呼ばれ、白菊谷をめざすお前に、本当のことを言えば、あたしは泣きながら拍手を送っているんです。

シノはあけびに、「エムバーマーの商売」について警戒を促すために姿を現したのだった。アメリカ軍キャンプでのエムバーミングの仕事とは、日本で暮らす朝鮮人に死体のような化粧を施して棺に押し込め、船に乗せて半島へと送り返すことだと言うのである。「お前の施す死人は、途中、息を吹き返すことになるかも知れんし、お前にまたがったら、それこそ、あたしの二の舞だ」とシノは警告する。「あけび、お前は谷をめざすんだ。そして、黒いあけびを取っといで!」

シノはあけびの母として、第1の時間と第2の時間との結託による陰謀からあけびを守ろうとし、第3の(非)時間にアイデンティティーの根拠を置こうとするあけびの主体性を肯定するに至ったのだ。やがてシノの霊は消え、伝次があけびを連れ去ろうとするが、シノの激励を受けたあけびと小林の「白菊谷」への夢想はいよいよ賦活されている。いってみればこの3幕で、小林による改めての援助とシノからの承認を受けたことで、呪いと差別の対象としての「蛇姫」を輝かしい「蛇姫様」へと顛倒させるという、あけびの横領の企てがようやく実を結ぶのだ。

小林の弟分のタチションは、あけびとともに第3の(非)時間にのめり込む小林の態度を危ぶみ、「あんた、世間と夢とを転換してるよ」と諫めようとする。この台詞にある「てんかん」という音は、もはや容易に癲癇(戯曲中では平仮名で表記される)のモティーフへと接続されるだろう。「夢」(第3の(非)時間)が「世間」(第1の時間)から制圧される際に起動する拒絶反応としての癲癇が、ここへきて、「世間」の秩序を凌駕せんとする「夢」のエネルギーへと反転され昇華される、というわけである。

「蛇姫様」
【写真は「蛇姫様」公演から。撮影=田中千彬 提供=劇団唐ゼミ☆ 禁無断転載】

-しかしながら、このような作劇上の技巧は、その技巧性そのもののために、批判されねばなるまい。本稿が『蛇姫様』という戯曲における最大の瑕疵と見なさざるをえないのは、あまりにテクニカルに扱われているこの「てんかん」のモティーフである。

確かに、あけびの身に起こる癲癇の発作は劇の各要所に周到な計算の上で配置され、ドラマティックな効果をあげている。だが、そのたびにマイナスの価値を貼りつけられ、侮蔑の対象とされる癲癇という病気自体は、通俗的かつ差別的な既存イメージの枠内からついに逃れ出ることがない。差別を生産し再生産もしてゆくのは、差別されるものに対する杜撰なイメージであり、差別されているものの内実に踏む込む克明な描写のみが、差別を否定する力を持ちうるのだが、戯曲『蛇姫様』における癲癇には、イメージしか与えられていないのだ。癲癇というモティーフを作劇上のひとつの駒として劇の中に登場させ、あくまで技巧的にのみ利用し続ける唐十郎の手つきは、いちいちの場面で見事な冴えを見せるほどに、皮肉にも『蛇姫様』という戯曲の可能性を損なってゆくのである。

そもそも、差別問題を主幹的なテーマとする作品『蛇姫様』の中で、国籍や出自の点でスティグマを刻印されているあけびに、さらに癲癇の設定まで与えることには、書き手はもっと慎重であるべきだった。そしてこのようなモティーフがより繊細に扱われていれば、差別の告発という主題もさらに大きな衝迫力を持ちえただろうことを思うと、遺憾の念を禁じえないのだが、この件はそろそろ切り上げて、クライマックスに移ろうとしている場面へと視線を戻すことにしよう。舞台の上ではあけびに帰化を迫る伝次、藪野文化、青色申告および権八一家の掏りたちと、あけび、小林、そして結局は兄貴分を見捨てられないタチションが顔を揃え、対立の構図を形作っているはずだ。

『蛇姫様』の大詰めは、互いの尾を呑み合う2匹の蛇という劇の最重要モティーフを、作劇術の水準へと移して具現化したかのような、どんでん返しに次ぐどんでん返しである。まずは「元白菊丸の従軍牧師」でありあけびの庇護者であるバテレン(さくら夢羽奴)が現れ、伝次と藪野一家の正体を暴く。これまで伝次を名のっていた男は、朝鮮戦争時に「白菊丸」に乗っていた伝次とは別人であり、また、藪野一家だと思われていた者たちも、「去年の暮れに死に絶え」た藪野家の「空き家の床屋に居座っていただけ」の、正体不明の一党だと言うのである。-では、伝次とは、藪野一家とは何者なのか?

伝次と名乗る男 [……]俺たちゃ昔、死人に触った。世に出ることの商いが、死人に触ることだった。箱に納まる死人から、ハラワタちぎって綿つめて、それでマンマが食えたんだ![……]俺たちゃ、あの白菊丸の船底で、てめえらがつぶやいたあの蛇よ![……]おれは床屋の居候を決め込みながら、のどかな日々の移ろいに、何かが欠けていると思ってた。夜ふけにそこを這い出して、スリの権八になり代わったのも、いつか、あの白菊丸で、密航女の胆をスッた箱師の俺が、忘れられなかったのかも知れない。俺は、人の財布をスリながら、心の底では、忘れちまったあの日の俺を、スリかえそうとしていたに違いないんだ。あの頃、俺も満十五、[……]死人にまぎれて女を犯しながら、俺は十五の心に、俺はもう、死んだ者の匂いに囲まれなければ、何一つ、この心が動かぬことを知っちまったんだ。

こうして男は、自分が「白菊丸」でシノを犯した男たちのうちの一人であったことを告白する。アメリカ軍の死体運搬船で死体の処理に当たっていた労働者が、その船で日本へ密航しようとしていたシノを強姦し、さらにそのとき同じ船に乗っていた日本人の伝次とすりかわったというわけである。

男 [……]あけび、俺はもしかして、お前の若すぎる父親であるのかも知れないんだぞ。シノを犯したのはこの俺だ。そして、白菊丸の船底で、シノに群がる男たちをかきわけ、誰よりもまず、シノを犯さなければならなかったのは、十五の時の俺の名が、李東順であったからだ!

つまり、男はシノと同じ朝鮮民族であり、そうであるからこそ、せめて他民族の男に陵辱されるよりも早く自分がシノを強姦しようという、悲惨な決意を余儀なくされたと言うのだ。

だが男のこの言い分も、すぐに覆される。シノは日本に着いた後、本物の伝次に、自分を犯した李東順の身元調査を依頼していた。そうして本物の伝次は、李東順という人間は存在せず、日本人の男たちが朝鮮民族の女を「手込めにする」ために偽りの朝鮮名を名のっていただけだということをつきとめていたのだ。伝次の偽者だけでなく、藪野文化の名をかたっていた男も、青色申告も、そんな日本人だったのである。

かくして、互いの尾を噛み合う日本と朝鮮という2匹の蛇の、暗い現代史が明らかになったわけだが、しかし、証人のシノはいまは亡く、バテレンが見つけてきた本物の伝次も、脳卒中で記憶を失って証言のできない状態になっている。-ではこれを受けて、あけびは何をすればよいのだろうか?

戯曲の上では、小林の援助を受けたあけびが、偽者の伝次を刃物で刺すことになっている。「お前に俺が切れるのか。俺とお前は、胴と尻尾だ」と偽者の伝次が言うように、あけびが伝次を殺したところで、何が解決するわけでもなかろう。それでも、「血で血を洗う歴代の夢」に幕を下ろすため、あけびは無償の復讐劇を完遂せねばならない。身も蓋もなく述べてしまうと、そうしなければ『蛇姫様』という劇が終わらないからだ。物語を首尾よく終結へと持ち込むことが要求されるこの場面を支配しているのは、皮肉にも、父殺しの不可能性という、きわめて反物語的な主題なのであり、同時代の中上健次などにも通ずる劇作家唐十郎のこうした野心的な試みは、今後正しく評価されてゆく必要があろう。

ともあれ、「血のつながる者に、どうして刃物を向けることができるのか、ずっと思案にくれていた」あけびは、2幕で小林と語り合った「ドラゴン退治」を想起しつつ、理解を絶した奇策を案出する。それは、まず自分の体を傷つけたうえで相手を刺し、相手の傷口から血が流れ出したところへ、代わりに自分の血を押し込むという方法である。死体の動脈にホルマリン液を注入するエムバーミングの技術にも通じるこの奇手が、なぜ、いかなる有効性を持ちうるのか、誰にも分からないのだが、あけびは「山カンで」この試みを実行する。

あけびが伝次を刺すことがほとんど無意味であることを、書き手である唐十郎も充分に理解している。刺された偽者の伝次が、突然巨大な蛇に変化して姿を消すのも、舞台に残されたあけびが「あの蛇を射とめることができなかったね」とつぶやくのも、あけびの奇妙な復讐が、内容のない空虚なものであったからだ。あけびはいまや、自分の体を傷つけて瀕死の状態である(小林に「それでは共死にじゃありませんか」と言われている)。それに加えて、再びまむしに噛まれたタチションの毒を吸い出そうとしたとき、その毒が口の中の傷から体に回ってゆくことにも気づいてしまう。迫り来る死を感じながら、あけびは最期に「蛇姫」として舞台に立ち、内的世界における第3の(非)時間の勝利を宣言する。あけびと小林とタチションの懐から「赤い赤い毛糸」が伸び、「姫を照らしていた鏡が、客に向けられる」という最後のト書きには、あけびの内面の第3の(非)時間が外部へと拡大され、観客の現在としての第1の時間をも領してゆくことを望む、作者の希求が込められているのだろう。

とりあえずのところ、戯曲としての『蛇姫様』に書かれているのは、以上のようなことである。
(以下、後編>>
5-散文性の優位
6-遊戯的関係
7-強度の噴出と現実界
8-鳥と蛇
9-現在への回路


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