劇団唐ゼミ☆「蛇姫様-わが心の奈蛇」

◎劇の厳密なる作動(後編)
 清末浩平

5-散文性の優位

 山口猛は『同時代人としての唐十郎』(三一書房、1980年)の中で、70年代の唐十郎戯曲に共通する構成を「一幕においての登場人物の紹介、及び事件の発端、二幕における展開(この場合、ほとんどヒロイン、あるいはヒーローが傷つく)、そして三幕におけるヒロインの再生と後日譚」というふうに明快に整理し、唐がこの戯曲構造を「崩すことなく守っている」ことを批判的に重要視している。扇田昭彦もまた、唐十郎全作品集第4巻(冬樹社、1979年)の解題において「唐十郎の戯曲は、一編一編が独立しながらも、しかし結局のところ、同心円状に渦まくいつも共通のドラマを読んでいるのではないかという印象を私たちに与える。[……]唐十郎のドラマの原型を探ることは、つねに唐十郎読解の基本作業であろう」と述べる。

 1977年に書かれた『蛇姫様』も、物語の構造の水準では、山口や扇田の指摘した事態の圏内にある。劇作上の全盛期と言われた70年代前半の、『ベンガルの虎』(1973年)や『唐版 風の又三郎』(1974年)といった作品に採用されたものと同じ構造を、唐十郎は『蛇姫様』においても反復している。そこであえて『蛇姫様』に対して、扇田の言う「基本作業」を行ってみるとどうなるか。同じものについて語り始めたはずの我々はすぐに、違うものが語られ始めていることに気づくであろう。なぜならば、同一性にもとづく再現とは異なり、あるものが反復されたときに生まれてくるものは、いつも必ず違うものであるからだ。

 たとえば1幕で、あけびが初めて藪野の床屋を訪ねる場面。自分を庇護してくれていた者を失ったヒロインが、拠り所を求めて都市を放浪する中で、いまはなき庇護者と縁のある商店の戸を叩く、という構造上の方程式だけを抽出すると、これは『ベンガルの虎』第1幕の「馬の骨父子商会」のシーンと合致する。ヒロインという変数項においてはあけびとカンナが、失われた庇護者としてはシノと水島(カンナの夫)が、商店としては藪野の床屋と馬の骨父子商会が正確に対応しているし、さらに庇護者と商店を結ぶアイテムという項を設定すると、そこではシノが送った写真と水島の送ったバッタンバンの象牙が連合関係にある。また、『唐版 風の又三郎』を参照してみても、ヒロインはエリカ、庇護者は高田、商店は帝国探偵社、アイテムに当たるものは生活保護と、まったく同じ構図が得られるだろう。

 だが、商店を訪問するヒロインの目的をより具体的に検討したとき、『蛇姫様』を他の2例から際立たせるのは、あけびを取り巻く散文性である。『ベンガルの虎』と『唐版 風の又三郎』のヒロインが、それぞれ失われた恋人を捜して商店を訪れたのに対し、あけびは「就職の口」を世話してもらうことを求めて藪野の床屋へやってきたのだ。また、『ベンガルの虎』のカンナも『唐版 風の又三郎』のエリカも、それぞれの劇の2幕において恋人の影を追う放浪を続け、その中で商店に表象される権力と鋭く対立することになるが、一方あけびは『蛇姫様』の2幕で、藪野の床屋に就職してきわめて散文的な日常を送っている。

 実際、『ベンガルの虎』や『唐版 風の又三郎』にみなぎる非日常的でノマディックな強度を『蛇姫様』に期待する読者/観客は、『蛇姫様』2幕におけるあけびと小林の密会場面に、途惑いと幻滅を禁じえまい。たとえばそこでは、床屋で下働きに明け暮れるあけびの日々の鬱憤が吐き出された後、次のような会話がなされるのである-

 あけび [……]何で、何で助けに来ないんだよ! そん時、お前、どこにいたの?
 小林  パチンコ屋だよ。
 あけび パチンコ屋!?
 小林  ああ。
 あけび そんな所で油売ってて、何で姫を助けに来ないんだよ。
 小林  助けたくっても、働いてんじゃねえかよ!
 あけび 働いてる? お忍びできたもんが、働いちゃ仕様がないじゃないか!
 小林  でも、働かなきゃ仕様がないだろ。おまいだって、伝次って人の身元引き受けで就職したんじゃねえか!
 あけび ああ、お前だけには働いてもらいたくなかった。

 現実原則の中に定着してしまったがために「午後五時以後」しか会えないこの2人の逢瀬は、かくも日常的かつ散文的なものだ。が、だからこそあけびと小林は「白菊谷」の第3の(非)時間に思いを馳せるのであり、そこで語られる「ワシ」のイメージには、意に沿わぬ日常を一時的にでも忘却したいという2人の願望が込められている。日常的な散文性から飛翔するための想像力の働き、換言すれば、散文的な日常性を無化せんとする言語のあり方。-それをポエジーと呼ぶとするなら、この場面の主人公たちの夢想には、ある種のポエジーが宿っていると言えよう。

 ところが、劇団唐ゼミ☆の観客は、このポエジーに酔うことすら許されなかった。あけび役の椎野裕美子と小林役の土岐泰章は、「白菊谷」や「ワシ」のイメージを語り合う場面を演じるに当たって、パセティックな強度を排除した遊戯性を前面に押し出したのである。椎野のあけびと土岐の小林は、「ワシ」などのポエジーを、じゃれあうためのツールとして用いる。全面的に第3の(非)時間に没入するような盲信的姿勢をとらず、あくまで遊びであることを了解しながらあえてそこで戯れるという、ロマン主義的アイロニーをもってポエジーを提出したのだ。そのことにより、2人を包囲する第1の時間の散文性が、反照的に際立たせられた。

 劇団唐ゼミ☆の演出家である中野敦之は、公演のチラシの中で『蛇姫様』を「血を吹くポエジー」と評しているけれども、多分に戦略的に愚鈍さを装ったその作品紹介文と、実際の彼の演出とが、まったく趣きを異にしていることは、上のような場面の手触りから明瞭に感取されるだろう。中野は『蛇姫様』という戯曲の特色である散文性を的確に拾い上げ、上演の核としているのである。

 たとえば民族問題の日常化しているヨーロッパでこの劇がいま上演されるとしたら、職を得るための帰化という散文的な主題は、その散文性ゆえに普遍的なものとして受け取られるに違いない。日本においても同じである。陳腐な表現になるが、自分は「姫」であるはずだとひとりごちながら床屋で働くあけびも、「午後五時以後しか、僕は姫に会えない」と言う小林も、都市に暮らす現代の若者たちの姿そのものではないか。-戯曲自体に書かれているこのような要素に重点を置いて舞台化したところに、劇団唐ゼミ☆による上演の散文性の優位があり、また、テキストのポテンシャルに対する中野の演出の明晰性がある。

6-遊戯的関係

 ところで、ポエジーが一時的な遊戯としてしか演じられないというアイロニーの正当性は、必ずしも自明のものではない(つまり、ヒーローとヒロインの関係に遊戯的性格を与える演出が、いかなる作品においても成功を収めるとは言えない)。それは『蛇姫様』という戯曲の固有性によってのみ肯われるものであるはずだ。その固有性を可視化するため、再び『蛇姫様』を他の戯曲と引き比べ、偏差を検出しよう。

 最初にサンプルとするのは、ヒーローとヒロインの出会いの場面である。『ベンガルの虎』では、銀次少年がカンナに「先生、先生じゃありませんか?」と声をかけ、カンナがそれに肯定的に返答するところから、生徒と教師としての2人の関係が始まる。『唐版 風の又三郎』では、目の前に突然現れた「白いトックリの少年」(エリカ)に対して、織部が「君は、もしかして、風の又三郎さんじゃありませんか?」と問う。エリカが「君はだあれ?」と反問し、織部が「僕は読者です」と答えたとき、2人の靭帯となる「風の又三郎」のイメージが確立される。つまりどちらの戯曲においても、初対面時にヒーローが口走った当て推量の呼びかけをヒロインが即座に受け容れる、という形で主人公たちは出会うのだ。

『蛇姫様』はどうか。あけびの腕の痣に目をとめた小林の「まるでウロコみたい」という言葉を受け、あけびは「ここにあるのはアザじゃない。あんたの言った蛇のウロコさ」と言う。そして小林が「じゃ、あんたは蛇姫様かい?」と問い、あけびが「いかにも、わらわは蛇姫じゃ」と認めたことをもって、「家来」と「姫」という関係が成立する。当て推量とその肯定という手続きは、確かに反復されているわけである。

 さらにもうひとつ、これら3作品に共通の構造を指摘すると、『ベンガルの虎』の生徒と教師、『唐版 風の又三郎』の読者と「風の又三郎」、そして『蛇姫様』の「家来」と「姫」という関係はみな、それぞれの物語の中で根拠を失って瓦解する運命にある。たとえば『ベンガルの虎』では、クライマックスの対立場面で銀次がカンナに次のような衝撃的な台詞を語る-

 銀次 [……]一学年ごとに先生も生徒も変ってゆくのに、あなたはどうしてぼくのことを憶えていてくれたのですか? 雑巾をぬうのが下手だったからとあなたは言いましたね。でも、本当にぼくは雑巾をぬうのが下手だったでしょうか。ぼくは雑巾をぬったことはありません。あなたの教えを受けた生徒でもありません。今だから云いますが、あなたに初めて会った時「先生、先生じゃありませんか」とぼくは云いました。だがそれは、別の人でもかまわなかったのです。たまたまぼくが先生というコトバに飢えていたからで、その時めぐり会った女なら誰でもかまわなかったんです。

『唐版 風の又三郎』を例にとれば、1幕終盤の次の台詞-

 又三郎 [……]おまえは、初めて会った時、「風の又三郎」さんですねって言ったっけ。そうだ、そう呼ばれるまで、僕は-あたしは「風の又三郎」であることを忘れてた。月は中天に、男だてらのあたしを見かけて、あんたが、「風の又三郎さん」と呼んでくれなければ、あたしは栃木くんだりの流れ女。何故呼んだ、「風の又三郎」と? あんたが呼んであたしが応えた。話を合わせた。只、それだけのことじゃないか。

 『蛇姫様』第2幕末尾の、小林があけびの痣から「蛇姫」の幻想を剥奪した場面が、これらの台詞と同じ役割を担っていることは明白であろう。いったんフィクショナルな関係を設定しておきながらその根拠を突き崩すという、この作劇術の高度さ自体も特筆すべきものであるけれども、ここでは、根拠なき関係という構造もまた反復されていることを確認したうえで、『蛇姫様』の戯曲としての偏差へと論を進めよう。問題とすべき偏差は3つある。

 第一に、「先生」や「風の又三郎」への呼びかけを初対面の場面に配置する『ベンガルの虎』および『唐版 風の又三郎』の性急さとは対照的に、『蛇姫様』であけびが「蛇姫様」を名のらされるのは、小林との2度めの邂逅の際である。第二に、小林があけびの「ウロコ」のような痣を指摘してから、あけびが「蛇姫様」となるまでの間には、長いプロセスがある。指を切断されて傷ついている小林を目のあたりにし、なんとか彼を元気づけたいと思ったあけびが、「蛇姫様」というフェイクのアイデンティティーを遊戯として宣言するに至る過程が、すべて観客に見えるようになっているのだ。

 つまり、「姫」と「家来」という関係のフィクション性は、成立する最初の局面から観客の視線に晒されており、それが遊戯的なものであることも見破られているわけで、だからこそ、もしもそのフィクション性と遊戯性が隠蔽されながら没入的に演じられてしまっては、あけびと小林の紡ぐポエジーは、観客には受け容れがたいものとなるだろう(嘘=ネタとして始まったはずのものが何の手続きもなく真実=ベタとされたとき、嘘=ネタであったという事実を忘却できるほどファナティックではない大多数の観客は、しらけきるに違いない)。あけびと小林のポエジーが観客にとって無効なものとなることを回避するためには、常にそのフィクショナルな性格が意識的に前景化されていなければならない。-劇団唐ゼミ☆の上演における主人公たちの遊戯性は、『蛇姫様』という戯曲のこうした固有性のもとに正当化される。

 さて、第三に考察されねばならない偏差は、「蛇姫様」の根拠であった「ウロコ」が「只のアザ」にすぎないと暴露されたとき、そのことが主人公たちに及ぼした影響の大きさである。

 『ベンガルの虎』において教師と生徒という関係が瓦解したのは、劇の最終盤であった。そこでは物語はすでに加速の極みにあり、カンナが銀次の「先生」ではなかったと分かったところで、その衝撃は物語の昂揚を損なわぬばかりか、かえって活性化してゆくだろう。また『唐版 風の又三郎』では、幻想を壊されて嘆き乱れる織部を哀れんだエリカが、いったんは否定した「風の又三郎」のイメージをすぐに復活させ、2人の想像界の頂点に据え直す。そうして劇の終わりまで、2人の導きの糸である「風の又三郎」に託されたポエティックな聖性は、ついに穢されることがない。つまりこれらの2作品では、幻想の崩壊と関係の根拠の喪失は、即座に埋め合わせられるか回復されるため、物語を真に危機的な窮地へ追い込むものとはならないのだ。

 ところが『蛇姫様』を見ると、「蛇姫様」の幻想はそれが最も必要とされる2幕の最後に壊されてしまい、決定的な瓦解の印象を持ったまま観客は3幕への幕間を迎えねばならない。これは山口猛が『唐版 風の又三郎』などから抽出する、2幕でヒロインが瀕死の重傷を負う(そして3幕で再生する)というタイプの構成とは、本質的に異なるものである。『唐版 風の又三郎』2幕のエリカは物語の中で死ぬが、『蛇姫様』の2幕ではあけびの物語が死ぬのだ。あけびを支えていた遊戯的なポエジーが失効すると言ってもよい。

 劇団唐ゼミ☆の上演の第3幕、あけびが小林と再会する場面で、「チワッス!」というあけびの第一声を椎野裕美子は、驚くほどに飾り気のない声と表情で発した。その自然体の演技から、観客は名状しがたい強烈な印象を受けざるをえなかった。この場面が鮮やかだったのは、ポエジーの死を認識しながらしらじらと広がる散文性の世界に立つあけびの存在を、椎野の演技が見事に体現していたからである。そして、続く場面で小林が自分の血を印肉として差し出そうとするのは、一度死んでしまったポエジーを蘇らせるための儀式に他ならず、小林を演じる土岐泰章は、この儀式に当然必要とされる遊戯性を、やはり正しく発揮していた。『蛇姫様』という戯曲は、『ベンガルの虎』や『唐版 風の又三郎』の構造を反復しつつも、ポエジーの死(と再生)をめぐるまったく固有の主題性を獲得しているわけだが、椎野や土岐の演技、および中野敦之の演出は、作品のこの固有性を掬い上げて遺漏がない。

7-強度の噴出と現実界

 さて、『蛇姫様』を貫く散文性とポエジーとの相関をめぐって発揮される、劇団唐ゼミ☆の上演のかような明晰性を確認するだけでは、まだ分析として充分ではない。散文性が第1の時間の現実原則に、遊戯的ポエジーが第3の(非)時間の空想に合致することは、もはや繰り返すまでもあるまいが、『蛇姫様』の世界を構成しているのは、第1の時間と第3の(非)時間のみの二項対立ではなく、第2の時間まで含めた三幅対であったはずだからだ。本稿はここで、劇団唐ゼミ☆が第2の時間をどのように扱っているのか、検討せねばならない。

 ラカンの三界理論が類比として参照されるとき、社会的秩序の水準である象徴界は第1の時間に、イメージの水準である想像界は第3の(非)時間に、それぞれ対応している。そして第2の時間は、死の主題や外傷の痕跡をその特色としていることから、現実界に相当すると考えられる。では、象徴界たる第1の時間に散文性が、想像界たる第3の(非)時間に遊戯的ポエジーが配分されるとき、現実界たる第2の時間には何が割り当てられるのか? -それは、言語による象徴化(意味)を欠き、かつ、イメージともなりえぬもの、すなわち、純粋なる強度であろう。

 中野敦之に言わせれば、『ベンガルの虎』や『鉄仮面』(1972年)においては、たとえばアジアの地名がその種の強度を保証していた。『ベンガルの虎』のバッタンバンや『鉄仮面』の「ジャワの東」は、当時の観客のオリエンタリズムをも戦略的に刺激しつつ、多大な喚起力を発揮したはずだ。だが、『蛇姫様』に見られる小倉や釜山といった固有名には、今日それほどの強度を期待しえまい。-そこで劇団唐ゼミ☆は、第2の時間を代表するシノの役に、禿恵という俳優を当てた。そして第2幕におけるシノの登場場面に、シノが自分の指を噛みちぎるという、ト書きにない演出を加えたのである。

 この演出が施されることにより、禿恵の身体は痙攣的としか形容しようのない強度を発し、物語としての意味の連関を追う観客の思考をショートさせた。象徴的な言語の秩序も想像的なイメージも振り切った強度の奔流が、第2の時間に属するものとして観客を襲ったのである。ここに顕現した禿の資質にひとしきり震撼したうえで、本稿は、このキャスティングによって第2の時間を観客にとっての外傷とした演出に、すぐれた明晰性をまたも認めねばなるまいが、のみならず、かくして第2の時間に現実界としての特質が正しく付与されたことで、第3幕の後半-あけび、小林と偽者の伝次との対立の場面--の理解も助けられよう。

 3幕半ばでシノがあけびの第3の(非)時間へと加担することを表明した後には、第2の時間への言及は、もっぱら偽者の伝次によって為されることになる。この偽者の伝次を「ドラゴン」のイメージで捉えた小林は、第3の(非)時間における文法に則って、「鏡」を盾としながら相手と対峙する(「何かの本」でそう読んだという)のだが、その「鏡」はタチションに割られてしまう。

 小林 鏡が破れた。(哲学的に)鏡が破れるなんて、僕は考えていただろうか。いや、考えてはいなかった。ドラゴン相手に、勝負を挑むならば、相手の顔をまともに見るな。見るならば、鏡を使えって書いてある。しかし! しかしだ、その鏡が破れた場合、一体どうしたらいいかは、書かれちゃいない。ああ、と言うことは、僕は今、書かれていない局面に立ち会ってしまったのか。
 [……]
 伝次 俺には、これが分かってたんだ。あいつがこうして悩むだろうという事が。

 小林の「ドラゴン退治」のイメージは失調し、物語に「書かれていない」出来事が起こってしまう。あけびと小林の想像界である第3の(非)時間が、致命的な損傷を受けたのである。さらに、小林が新たに手に入れた「鏡」が、偽者の伝次の攻撃を受けて「銀紙」であることを露呈したとき、まことに恐るべき、スリリングな幻滅が小林と観客を貫く。

 一般に演劇の中で、木の板に「銀紙」を張った小道具に「鏡」としての本質を保証するのは、それを「鏡」と名指す戯曲の言葉である。その言葉は、当の演劇における象徴界の秩序でもある。象徴界の秩序-戯曲の言葉による統制-がなければ、集められた諸々の小道具は実用性のほとんどないオブジェにすぎないし、組まれた舞台装置の中での俳優たちの言動がリアルな出来事であるという錯覚を観客にもたらすような、演劇のイリュージョンも作動しないのであるが、「鏡」が「銀紙」となってしまうということは、『蛇姫様』という演劇の象徴界に、亀裂が生じるということだ。剥がれた「銀紙」の後ろに見えるベニヤ板の木肌は、象徴界に穿たれた穴にほかならない。そして理論的に言って、象徴界の表面に割れ目が走ったとき、その向こうに露出するものは何かといえば、それは現実界である。「鏡は銀紙だ」という伝次の台詞が観客にもたらした幻滅の正体とは、演劇の象徴界-迫真性を支えていたイリュージョン-が死に絶える、この現実界の露出なのだ。劇団唐ゼミ☆による上演で、「銀紙」の破れた後ろの板が、まったく加工も彩色もされていない剥き出しのベニヤであった(それはブレヒトを思わせた)こと、そのベニヤのしらじらとした表面を見た観客が名状しがたい居心地の悪さを感じたことの意義は、けっして小さくない。

 「鏡」が割れた際のイメージの死に伴う想像界の無力化は、『蛇姫様』という劇の内部の事件である。一方、「鏡」が「銀紙」であることが分かったときに、劇を支えていた言葉が死に、劇そのものの象徴界がひび割れたことは、その外側での出来事だ。だからむろん、これら2つの事態は水準がまったく違っている。だがそれでも観客は、この一連の展開を見守りながら、イメージも言葉も失効した演劇の果てへと連れ去られつつあるような、危険な昂奮を味わわされる。

 想像も象徴も死滅した現実界へ。-それは恐るべき道行きである。理論上の原理として、現実界そのものに人間は耐えられない。偽者の伝次はこの原理を狡猾に利用してあけびの攻撃を無効化する。引き続き、劇の終盤に向かう場面を見てゆこう。

8-鳥と蛇

 「武闘、武闘のみじゃ!」と剣を持つあけびを、なぜ偽者の伝次は「お前に、俺がしかと見えるのか? この胸の中で、今もシノにのしかかっている十五の俺を、お前は正視することができるのか?」とせせら笑うのか。それは、この局面で第2の時間を纏った偽者の伝次が、あけびにとっての外傷であるからだ。理論上、外傷の極限的な形態のひとつは自らの死であり、もうひとつは自らの出生、あるいはそれをもたらした両親の性交なのだが、外傷とは現実界に関わるものであり、「正視」し認識することのできない外部である。人は不可視の外傷を対象化することはできない。したがって、あけびは偽者の伝次を敵として戦うことすら不可能なのである。

 ここで、小林による援助が決定的な役割を担うことになる。偽者の伝次が小林を組み敷いて馬乗りになったとき、小林はあけびに、「シノは僕です。あなたのシノは-」と呼びかける。小林は自らの身体をシノになぞらえることで、シノを強姦する男の姿を可視化してみせるのだ。小林のこの行為によって、初めてあけびは偽者の伝次に認識の光を当て、攻撃の対象とすることができる。

 あけび [……]山手線、いつかお前の話してくれた、ドラゴン退治のあの御本、覚えてる? あたし、駅前の本屋で読みました。それで、別の章に、義理の父をかき切った女のことがでていたの。それによれば、血のつながる者の、のどをかっ切るためには、あふれる血の代りに、押し込んでやる液体が必要なんです。それは、月の光から集めた白い霜と、叫ぶ梟の頭と翼、そして狼の内臓をこねあげ、さらに、亀の甲らの粉末と、牡鹿の肝臓と、人の世の九代までも生きのびた鴉の頭と嘴を添え、橄欖の枯枝でかきまわしながら煮込むということです。時々ふきこぼれると、飛ばっちりの落ちた所の草は、夏の真っ盛りのように、うす紅色の花を咲かせます。それは、たとえばこんな色。

  と、刃物で自分の腕を切る。こぼれる血。

 この台詞の後、あけびは偽者の伝次を刺すことになるのだけれども、ここに列挙される言葉たちは、一見豊かなイメージを伝えるようでありながら、矢継ぎ早に語られることによって、本来それらが結ぶはずの映像をとり逃し続けるだろう。また、かつてジル・ドゥルーズがその卓抜なベケット論『消尽したもの』(宇野邦一・高橋康也訳、白水社、1994年)で述べたように、列挙は言語の意味連関を機能不全へと導く手法ともなりうる。上の台詞にみなぎるのはまさしく、イメージも意味も必要としない強度である。あけびはここで、強度を纏って立ちはだかっていた敵に対し、自らも強度をもってぶつかってゆき、相打ちに持ち込もうとしているのだ。

 と、このように本稿が述べられるのも、椎野裕美子がこの台詞に驚嘆すべき強度を込めていたからである。椎野は2007年の公演『鉄仮面』の山場においても、脈絡を欠いて語られる「暗い森」の台詞で、外傷に似た強烈すぎる印象を観客の胸に刻み込んだ。あるいは彼女が並々ならぬ思い入れを持って演じる『ジョン・シルバー』シリーズでの長台詞を想起してもよいのだが、こういった台詞を発するときに椎野の演技を満たす強度は、ほとんど比類のないものである。

 とはいえ、やはり無視してはならないのは、強度によって特徴づけられる上の台詞が、「ドラゴン退治」にまつわる第3の(非)時間のポエジーから導かれたものであることだ。もはやイメージを失い、本来の遊戯性も必要としなくなってはいるが、特に椎野によって語られたとき、この台詞からは奇妙なポエジーが漂ってくる。それを強度のポエジー、強度それ自体のポエジーと呼びたい衝動に駆られもするほどである。このポエジーはすでに第3の(非)時間の領域から逸脱してしまっており(強度とは第2の時間に特有のものであるはずだから)、第2の時間と第3の(非)時間との間の境界を突き崩す。劇を支配してきた第1の時間/第2の時間/第3の(非)時間という三幅対の静的な構図が、ここへきて崩壊するのだ。

 だからこそ、あけびに刺された偽者の伝次が語る次の台詞からも、観客は強度とポエジーをふたつながらに聞き取ることができる。

 男 (血だらけになって振り向き)あけび、俺はいつか鳥を見て思った。あの鳥だって、空飛ぶ前は地面を這っていたに違いないとな。そして、大空見つめて、いつか飛べる日の来るのを願っていたのだろうと。だから、鳥はどこか蛇に似ている。しかし、死人を触っちまったこの俺に、飛ぶ気なんかありゃしない。俺はひたすら這うことを、いつの日からか、願っていたんだ!

 この台詞はおそらく、『蛇姫様』という劇の中でも最も印象深いものであろう。ここで言及される「鳥」と「蛇」は、劇全体を貫く重要なモティーフであり続けてきた。まず「鳥」について確認すると、「ワシ」のイメージが「白菊谷」の空想を代表していたことからも、これが第3の(非)時間のポエジーに対応していたことが了解されよう。「地面」とは苦痛に満ちた日常性の場であり、「鳥」のポエジーはそこから飛翔するというわけだ。ということは、「地面」を這う「蛇」へと配分されるのは、散文性だということになる。補足するなら、ここでは、「蛇」と「蛇姫様」とを明確に区別せねばならない。「蛇」とは、人々があけびを有徴化し差別するときに用いる形象であり、あけびは、差別の中で生かされている自らの日常を第3の(非)時間の中で無化するために「蛇姫様」というイメージにすがるのだ。したがって、「蛇姫様」はポエジーの側にあり、「蛇」は日常の散文性の側にある。

 だが、「鳥はどこか蛇に似ている」と偽者の伝次が言ったとき、「鳥」に配されるポエジーと「蛇」に配される散文性との間の、かような対立の構図は消滅してしまう。さらに「俺はひたすら這うことを、いつの日からか、願っていたんだ!」という台詞は、日常の散文性に属するはずの「蛇」を、詩的な願望の対象として措定するのだ。この顛倒したポエジーは、前述したあけびの列挙の台詞をも凌駕する衝撃的な強度を発揮する。

 偽者の伝次を演じた安達俊信は、奇想天外なヴィジュアルと台詞回しのグルーヴ感を武器に、序盤から猛烈な膂力で劇を牽引していたが、この台詞での迫力は桁違いのものであった。悪と恥辱にまみれながら地面を這うように生きてきた無名の男の人生が凝縮されているこの台詞を、安達ほどのリアリティーをもって発せられる人間は、東京の小劇場にいったい何人いるだろうか? -本稿の冒頭で厳しく禁じたはずの、あの一語をここに書きつけようとする手を抑えつつ、偽者の伝次が蛇となって姿を消した後の舞台の行方を、最後に見届けることにしよう。そこにこそ、唐十郎の戯曲の本質を我々の現在へと接続する、劇団唐ゼミ☆の上演の真価が認められるだろうからだ。

9-現在への回路

 『蛇姫様』の第3幕の後半を観ながら、観客は、ある違和感を覚えざるをえない。
 たとえば『唐版 風の又三郎』のヒロインであるエリカは、死んだ恋人の行方を追うためなら地獄めぐりの旅をも辞さず、恋人の死体を奪われるよりは自らすすんでその死肉を食べてしまうような、ファナティックなロマン主義者であった。あるいは、唐戯曲におけるヒロインの圧倒的優位を作劇術の水準で確立した『二都物語』(1972年)のリーランも、亡き兄への近親相姦的な愛から常軌を逸した行動をとり続け、その狂信的な欲望が彼女の言動に、散文的な現実を無化する詩的な力を備給していた。1970年代前半の唐十郎作品のヒロインたちはみな、多かれ少なかれこの種の性格を持っている。

 一方、『蛇姫様』のあけびは前述したように、彼女の抱く目的の散文性のために、他のヒロインたちの像から差別化されていたはずだ。あけびが亡き母の日記帳を持って藪野の床屋を訪ねたのは「就職の口」を見つけるためであったし、第2幕の中盤では実際に伝次の講習を受けてエムバーマーの資格まで手に入れている。彼女の存在の固有性が差別によって傷つけられることさえなければ、あけびはエムバーマーとして「社会に巣立つ」こともしたであろう-ときおり「午後五時以後」に小林と会って空想を語り合うことで、散文的な日常と折り合いをつけながら。換言すると、あけびはリーランやエリカといった他の劇のヒロインたちよりも、ずっとプラグマティックな傾向を持った主人公なのである。

 ところが、『蛇姫様』3幕後半の対決場面では、このようなプラグマティックなしたたかさは、なぜかあけびから欠落してしまっている。むろん、自らの尊厳を毀損しようとする圧力に抗うために命を賭しても戦わねばならない、というモティヴェーションは理解できぬものではないけれども、偽者の伝次への無償の復讐のために「共死に」へと突き進むあけびの姿が、まるで自分の未来を完全に放棄しているかのように見えたとき、観客は胸の内に湧き起こる疑問を抑えきれなくなるだろう。-人は差別と戦うためには命まで捨てねばならぬのか? より現実的な解決策をこそ探るべきではないのか? プラグマティックで即物的な水準での差別の解消こそ、あけびにはつきづきしいものなのではないか? 未来へ向かって現在を生きてゆくためにこそ、人は時に外傷的な過去と対峙するのであって、過去と「共死に」してしまっては本末転倒なのではないか?

 『蛇姫様』の戯曲はこのような疑問に対し、じつは最後まで納得のゆく回答を与えることはない。偽者の伝次が逃げ去った後、自らつけた傷からの出血とまむしの毒のせいで、あけびはいよいよ死に瀕する。「口からもれ落ちる血をぬぐって立ち」ながらあけびが「蛇姫様」としての台詞を語る最後の場面は、戯曲上の意味としては、死の間際の夢の光景である。扇田昭彦に倣って、傷ついたヒロインが死への切迫の中で「神話的な存在へと切なくも華麗な変身をとげる」(前掲解説)、と述べることも、とりあえずは許されよう。たとえば『夜叉綺想』(1974年)の結末で、ヒロインの牛乃が「見えます、[……]明けの空をゆくUFO!」と叫んで死ぬに至る場面と、基本的には同じことがここに書かれているのであり、『唐版 風の又三郎』以降唐十郎は、自らの劇にドラマティックな幕切れをもたらすため、死を前にした現実の否定、および空想の勝利宣言という意味合いのこういったラストシーンを、しばしば反復している。『蛇姫様』の末尾に暗示されるあけびの死を、当時の唐のマンネリズムの産物であると、身も蓋もなく批判することも可能だろう。実際、あけびが「神話的な存在」などに変身したところで、『蛇姫様』という劇が扱ってきた問題は何ひとつ解決されないのだ。

 しかし、そもそも「蛇姫様」というイメージは、あけびと小林の間の遊戯から生まれたものであり、「神話的な存在」としての性格は元来薄い。ラストシーンであけびが「蛇姫様」であることを宣言しても、それを「切なくも華麗な変身」などとは呼べまい。『唐版 風の又三郎』の結末で、エリカが「風の又三郎」として顕現するときのような、不可能を可能にするドラマティックな飛躍はここにはないのだ。『蛇姫様』のラストで起こっている出来事は、もっと違った何事かであるはずである。

 『蛇姫様』という作品の固有性が、『唐版 風の又三郎』などと同一の幕切れが再現されることを拒んでいる。あるいは、唐のエクリチュールそれ自体が、同一性を再現しようとする唐自身の意図を裏切っていると述べてもよい。単に作家の失敗と断ずるのではなく、この事態を救出することはできないだろうか? -劇団唐ゼミ☆の中野敦之は、おそらく、このような問題設定と野心をもって『蛇姫様』のラストシーンを演出している。

 まず、腕から多量に出血したあけびを演じる俳優は、常識的に考えれば、瀕死者の演技を要求されるはずだ。が、椎野裕美子はそのような演技をしない。また、タチションの手からまむしの毒を吸い出していたあけびが、「急にグラリと」よろめいて「口の中を切っていたんだ」と告白するとき、「姫っ」と呼びかける小林は当然、致命的な失策への驚愕を表情に出すべきだろうが、土岐泰章はただ穏やかな目で相手役を見つめるだけだった。どういうことか。腕から血を流しても蛇の毒に犯されても、あけびは死なないのだ。中野はあけびの腕の傷を軽傷とみなし、まむしの毒に罹ったことも、虫歯に冷水がしみた程度の出来事として処理したのである。

 もちろん、非常に強引な演出ではある。けれどもあけびが死なないことによって、『蛇姫様』の結末は、この劇を締めくくるにふさわしい明るさと広がりを湛え始める。厳しい現実原則の中に投げ出された手負いの若者たちがいじましく身を寄せ合う、という場面になりかねなかったラストシーンが、現在を生きてゆく人間たちの連帯の光景へと、大胆に転換されたのだ。この大団円を満たす希望こそ、『蛇姫様』という戯曲が探ってきたはずのものであり、と同時に、各々の現在を生きる観客が希求していたものでもある。中野敦之の演出は、その明晰性によって戯曲の可能性の中心を照らし出し、観客の現在へと見事に繋いでみせた。劇団唐ゼミ☆の上演によって、33年前に書かれた『蛇姫様』という戯曲が、我々の貴重な財産となったのだ。

 これまで何度も述べたように、唐十郎の戯曲は、圧倒的な情報量の多さと複雑さをその特色としている。おそらくこの複雑さは世界的にも類例のないものであろう。したがって、よほどの直観力を持ち、一種の修練を積んだ観客でない限り、上演を一度観ただけでその劇世界の精密な作動のありようをすべて把握することは不可能だ。そこであるときは本稿が冒頭で禁句としたあのジャーゴンが用いられ、あるときは難解という語で事足れりとされるわけだが、どちらの語も単なるクリシェであり、我々に思考停止しかもたらさない。むろん、思考を停止してただ舞台の上で起こる出来事の連鎖を見つめるという態度も、唐十郎作品を観劇する際の享楽のあり方として有効である。そのような楽しみを本稿はけっして否定しない。だが、劇団唐ゼミ☆の中野の演出とせめて同水準の明晰性をもった批評が、そろそろ登場してもよいのではなかろうか。厳密に作動する装置としての唐十郎の劇を、それ以上の厳密さで追跡したうえで評価する現在の批評を、本稿の書き手は寡聞にして知らない。そのような批評が出現したとき、唐の作品が新たな照明のもとに新たな相貌を見せるであろうことは、上演という形で唐の戯曲を批評する劇団唐ゼミ☆の公演を観るにつけ、大いに期待されるのだが。劇団唐ゼミ☆の活動によって唐十郎の戯曲が古典的なテキストとなったいまだからこそ、新しい批評が待ち望まれる。

 ともあれ、劇団唐ゼミ☆第17回公演『蛇姫様』に対するいち劇評としての本稿には、このあたりで終止符が打たれるべきであろう。

(初出:マガジン・ワンダーランド第201号、2010年7月28日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
 清末浩平(きよすえ・こうへい)
 1980年、大分県に生まれる。東京大学文学部言語文化学科日本語日本文学専修課程卒業。同大学院国文学修士課程修了。2001年より劇団サーカス劇場で代表をつとめ、脚本・演出を担当。2009年より劇団ピーチャム・カンパニーに参加、脚本を担当。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kiyosue-kohei/

【上演記録】
劇団唐ゼミ☆第17回公演『蛇姫様-わが心の奈蛇』
浅草花やしき裏特設テント劇場(7月3日-4日、9日-11日、16日-19日)

作・監修=唐十郎
演出=中野敦之
出演=椎野裕美子、禿恵、安達俊信、土岐泰章、水野香苗、重村大介、小松百合、高次琴乃、熊野晋也、佐藤悠介、さくら夢羽奴、井上和也、川上真奈美、寺部隼人、関緑

照明=齋藤亮介
音響=高次琴乃
作曲=安保由夫
編曲=サトウユウスケ
衣装・小道具=佐藤千尋/砂田和美
宣伝美術=K.徳鎮
背景画=さくら優奈
前売り2,800円/当日3,200円(全席自由・税込)


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