劇団唐ゼミ☆「下谷万年町物語」

◎夢のようにリアルな
 清末浩平

「下谷万年町物語」公演チラシ 唐十郎の戯曲『下谷万年町物語』は、1980年に執筆され、翌1981年、蜷川幸雄の演出によりPARCO西武劇場で初演された。少なくない数のメイン・キャストのほかに100人もの男娼(オカマ)も登場し、大掛かりな舞台転換もあるこの劇は、初演以降長らく再演不可能といわれていたらしい。唐十郎の監修のもとに唐の過去作品を上演する劇団唐ゼミ☆は、2009年、劇団外部からの客演を多数募り(この劇団には珍しいことだ)、舞台美術や演出効果の面でも大規模なスペクタクル性を前面に押し出しつつ、この戯曲を再び上演してみせた。そして2010年、同劇団は座組みを劇団員中心のメンバーに絞り、規模の大きさより内容の密度を重視する方針を採用して、『下谷万年町物語』をゼロから作り直したのだが、本稿が論じるのはこの2010年11月の劇団唐ゼミ☆による上演である。

 わずか20人弱の俳優によって演じられたこの上演において、おそらく初めて『下谷万年町物語』という戯曲の蔵していた意義やポテンシャルが明らかになった。というのも、この戯曲は唐十郎の書いた数多くの複雑な戯曲の中でも特に難解な作品であり、あまりの韜晦のため読解を断念しかねぬほどなのだけれども、2010年の劇団唐ゼミ☆はスペクタキュラーなイリュージョンに頼ることなく、このテキストの中の断片的で暗号めいた記号のひとつひとつを執拗に読み解き、ただひたすらに妥当な解釈を提出し続けたからである。

 したがって、本稿においては戯曲の水準と上演の水準とが区別されずに批評されてゆくし、その中で戯曲自体への評価は同時に、あまりにも難解な『下谷万年町物語』のテキストを精確に読み解いた劇団唐ゼミ☆への賞賛をも意味することになる。

 『下谷万年町物語』の戯曲が恐ろしく難解なのは、この作品が夢の物語であるからだ。

 この劇は、かつて「文ちゃん」と呼ばれていた人物(「大人の文ちゃん」)が幼かった頃の自分の幻(「少年の文ちゃん」)と出会い、その幻によって過去の記憶の中へと連れ込まれるというプロローグから始まる。プロローグが終わると、昭和23年を舞台とした本編が始まり、そこで少年の文ちゃんが狂言回しとなって舞台が展開するのだが、この一種の劇中劇は、文ちゃんの夢だといってよい。大人の文ちゃんが見ている夢の中に、昭和23年の記憶が回帰してきたというわけだ。

 今日、こういった夢による枠物語の構造を備える演劇は珍しくない。むしろそれ自体は陳腐であるほどだ。たとえば、『下谷万年町物語』と同時期に上演されていた、演劇ユニットてがみ座による『乱歩の恋文』(王子小劇場、2010年11月)。長田育恵脚本、扇田拓也(ヒンドゥー五千回)によるこの劇は、原稿が書けずに失踪した江戸川乱歩を追って、乱歩の妻がいかにも江戸川乱歩的な道具立ての「傀儡芝居」の幻想へと迷い込み、劇中劇として乱歩と自分の過去を回想する、という結構を持っているが、これも一種の夢であるといえる。

 しかし、『乱歩の恋文』がなぜ夢という枠を必要とするのかといえば、雑多なエピソードの寄せ集めに全体性と統一感を与え、あるエピソードから別のエピソードへの唐突な場面転換に関するエクスキューズを確保するためである(「夢だから」という前提があれば観客は納得する)。『乱歩の恋文』、およびそれに類する多くの演劇は、作品の内部を意味づけしやすく整理し、脚本家や演出家の意識によって統制するためにこそ、夢というモティーフを採用しているのだ。

 ところで、一般に人間の夢は、圧縮や置き換えといった無意識的欲望による加工(フロイトのいう一次過程)を受けて歪んでおり、意識による統制から逸脱している。夢の中では様々な記号が断片的なシニフィアンとして浮遊し、覚醒時の意識がこれを秩序づけて解釈することは困難である。

 『下谷万年町物語』が夢の演劇であるというのは、この水準でのことなのだ。覚醒時の意識によって夢の中の記号を整理してしまったとき、夢はもはや夢たりえない。だから唐は夢という枠の中の劇中劇をアナーキックなままにとどめた。結果、『下谷万年町物語』の台詞は整序されておらず断片的で、圧縮に当たる隠喩や置き換えに当たる換喩に満ちている。そこから異様なほどの難解さが生まれるわけだが、精神分析的な意匠を巧妙に利用した他の夢の演劇には、このような難解さは見られない。『下谷万年町物語』の複雑さやアナーキーは、他の夢の演劇の行儀のよさと、まったくの対極にある。

 話を進める。夢の中のシニフィアンは断片として浮遊し、圧縮や置き換えといった加工を受けて夢に歪みをもたらしている。が、それらはけっして無意味ではなく、たとえその内容を意識によって把握できないとしても、夢を見ている人間にとってはどこか切実でありリアルなものだ。同様に、『下谷万年町物語』の難解な台詞にも、実はいちいち記号内容や参照項が存在している。

 劇団唐ゼミ☆は2010年の『下谷万年町物語』の上演にあたり、演出の中野敦之を中心に徹底して戯曲を読み込んで、すべての台詞に内容を与えることにこだわった。いちいち細かい台詞の意味に拘泥せずとも、雰囲気や勢いによって場面を進行させてゆけるだけの技術が中野の演出には充分にあるし、また、そういった膂力の発揮を観客もどこかで期待しているのだが、それでも中野と劇団唐ゼミ☆の俳優たちは、唐十郎の記したひとつひとつの記号に、愚直に内容を充填していった。

 結果観客は、妥当性のある解釈に裏づけられた個々の演技と、合理性を振り切る物語の展開との間で、名状しがたい眩暈を引き起こされる。そして、実際に夢を見たあとのような疲労を味わうことになろう。自らの潜在思考が無意識的欲望によって加工された切実な夢を見た後、人は疲れを感じるものだ。しかし、その疲れが無駄なものであったとは考えない。夢はそれを見る人間にとってこのうえなくリアルなものであり、それなしに人間は生きられないからである。

 本稿の筆者は以前、唐十郎の1970年代の戯曲に関して、ジャック・ラカンの三界理論との類比関係を指摘した(清末浩平「劇の厳密なる作動」wonderland 2010年。 http://www.wonderlands.jp/archives/12669/ )。男女ひと組の主人公たちを甘やかな空想で結びつける想像界と、現実原則や既成権力による秩序に当たる象徴界と、外傷の痕跡を通して間歇的に舞台上に噴出するおぞましきものとしての現実界、この三幅対が70年代の唐の戯曲を構成しており、しばしば社会的な権力と結託した悪役に代表される象徴界は、現行の秩序と背立する想像界を破壊して、秩序の中へ組み込もうとする。

  先に用語だけ定義しておくと、想像界が破壊されて象徴界へと囲い込まれることを、精神分析では象徴的な父による去勢、あるいは父の名における去勢という。また、父の名において去勢を行うものを、本稿では象徴的な父の代理と呼ぼう。精神分析においては、象徴的な父の代理から去勢されることによってこそ、人間は主体化することができる。ここでの主体化とは、ある人間の個人性が責任とともに確立されること、自らの行動に対して責任を負わねばならぬ個人(つまり主体)となることなのだが、去勢にとってなぜ人間が主体化するのかといえば、多形的でアナーキックな欲望を担う想像的ペニスを切り取られ、代わりに社会の規範を内面化させられるからである(規範を内面化した人間は、自分の行動に責任を持たねばならなくなる)。この内面化される社会の規範を、象徴的な父から与えられたファルス(男根)という。ひとりの人間が去勢によって主体化し象徴界に参入するということは、想像的なペニスを失って、象徴的なファルスを持たされるということなのだ。

 以上のことを前提に、1981年の唐十郎作品としての『下谷万年町物語』を見てみよう。この劇の本編は文ちゃんの夢であり、劇中劇であり、回想された昭和23年の記憶であったが、そこにはどういった人物たちが登場しているか。設定やあらすじ、および劇団唐ゼミ☆の上演における配役の紹介もかねて整理する(紙幅の関係上、暴力的に簡略化せざるをえない。詳しいことは別稿「父の名をかたることなく」http://42286268.at.webry.info/ を参照されたい)。

 昭和23年11月、下谷万年町という町に住む男娼たちは、お市(さくら夢羽奴)とお春(安達俊信)という2人のオカマをリーダーに、上野の森で警視総監に暴行を加え、その帽子を強奪した。戦利品の帽子は、万年町のオカマたちの実力の証となる。しかしあるとき、お春の情夫だった洋一という青年(土岐泰章)が、ひょんなことから帽子を持って逃走する。お市は白井というヤクザ(熊野晋也)を、お春は少年の文ちゃん(水野香苗)を使役して洋一と帽子の行方を追う。

 逃亡した洋一は、浅草の軽喜座という老舗劇団に身を寄せている。この劇団はオカマたちによる警視総監襲撃事件を題材に『娼夫の森』という芝居を作ろうと稽古中だが、洋一は下っ端の小道具係をやらされて、稽古に参加させてもらえない。浅草の瓢箪池で、小道具のサフランの造花を染色しようとしていた洋一を、文ちゃんは見つける。文ちゃんと洋一は2人とも、生まれたときに手の指が1本多く、その指を切り取られた傷が手に残っており、同じ「六本指」どうしで意気投合してしまう。

  そんなとき、瓢箪池に身投げがあり、洋一は池に落ちたお瓢という女(椎野裕美子)を拾う。お瓢はキティ・瓢田という芸名を持つ女優であり、かつて、恋人でもあった田口洋一という演出家とともにサフラン座なる劇団を作ろうとしていたのだが、田口と死に別れて以来「廃人」のようになっていたのだった。

 お瓢の話を聞いた洋一は、自分と文ちゃんとお瓢の3人でもう一度サフラン座を旗揚げしようと提案する。サフラン座の最初の演目は、軽喜座との合同公演『娼夫の森』だ。その公演では、死んだ田口と同じ名を持つ洋一は演出家になり、また、警視総監の帽子を持って逃げた彼自身を役として芝居に登場させ、その「僕」という役をお瓢に演じさせようというのだ。

 洋一は軽喜座に合流を申し込む。むろん最初、軽喜座の面々はまともにとりあわない。しかし、洋一が連れてきたお瓢を見たとき、キティ・瓢田のファンだった座長の「先生」は態度を変える。そうして軽喜座とサフラン座の合同公演『娼夫の森』の稽古が始まり、本物の警視総監の帽子が小道具として用いられるこの芝居は、大いに世間の評判を呼ぶだろうと期待もされるのだが、あるとき、稽古中のお瓢のもとに、一本の注射器が届けられる。これを届けたのはヤクザの白井なのだが、白井は実は死んだ田口の弟だった。そしてこの注射器は、戦中ヒロポン中毒であったお瓢に、田口が送ったお守りだった(かつて、空の注射器を与えることで、田口はお瓢の中毒克服を励ましたのだった)。

 注射器を見たお瓢に、ヒロポン中毒で入院していた頃の記憶と田口の思い出とが蘇り、彼女は錯乱する。さらに、お市の率いる万年町のオカマたちが軽喜座の舞台へと乱入し、帽子を持って逃亡していた洋一がリンチにかけられる。……

 とりあえずここまでで、主要な人物たちとその背景を紹介できたことになる。以上の整理によって分かるのは、『下谷万年町物語』の本編である劇中劇としての夢の中には、象徴界を代表するような人物が登場していないということだ。主人公たちにとってある意味で敵役となるお市や白井は、一般的な社会の秩序からはみ出したアウトサイダーであり、また軽喜座の役者たちも、お瓢や洋一や文ちゃんに去勢を迫りはしない。

むしろ、主人公たちを含めたこれらの人々は皆、去勢されることによる主体化に失敗した、象徴界以前の人物たちなのである。彼/彼女らは個人あるいはグループでそれぞれの想像界を持っており、その中で生きているのであって、『下谷万年町物語』のドラマは、利害の異なるいくつかの想像界が、舞台の上で共存あるいは衝突することによって成立している。ここにこそ、象徴界と想像界との闘争を軸に展開する1970年代の作品と、1981年の『下谷万年町物語』との間の差異がある。

 実際、『下谷万年町物語』の夢の中には、想像的なペニスが多数飛び交っている。あらゆるモノをフェティッシュ化し複数の対象へと耽溺してゆく幼児的な多形倒錯は、もともと唐十郎の劇のひとつの性格だが、特に『下谷万年町物語』では、夢としての劇中劇が想像界によって覆われているため、幼児のペニスを思わせる小さなフェティッシュが氾濫することとなったのだ。

 まず、洋一と文ちゃんの、いまは存在せぬ「六本指」は、明らかに想像的なペニスである。そしてこのペニスの喪失(去勢)を否認しようとするかのように、「六本指」のイメージがかつて座を占めていたはずの空白へと、様々な具体物が呼び寄せられる。たとえばサフランは、6枚の花弁を持つことによって「六本指」のイメージとなり、洋一にとってのペニスとなる。また、お瓢の「六本指」である注射器もお瓢の想像的なペニスなのだが(女性も想像界においてはペニスを持つ)、これについては後述する。

 洋一が懐から一匹の亀を取り出して、それを「下にある権力」と呼ぶ場面もある。この亀からペニスのイメージを読み取ることは容易だろうから、露骨な解説は控えるが、ここで新たに注目すべきは、本来「お上」にあるはずの「権力」が、「お下(しも)」へと「横領」されていることだ。本稿の筆者は以前、劇団唐ゼミ☆の『蛇姫様――わが心の奈蛇』への劇評(前掲「劇の厳密なる作動」http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kiyosue-kohei/ )で、自らにつけられた差別的な名の「価値を反転し、横領」するヒロインの戦略を論じた。ある記号のシニフィアンをそのまま受け継ぎながら、その内容を入れ替えてしまう「横領」の戦略。警視総監の帽子という記号をめぐっても、同じ戦略が展開される。

 フロイトによれば、夢の中では帽子が男性器を表すことがあるが、『下谷万年町物語』の帽子は、警視総監の頭にのっていたときには、警察というきわめて象徴界的な「権力」を表象するファルスであった(夢の一次過程としての置き換え=換喩)。ところが、これが洋一を通してお瓢の手に渡ると、サフラン座という想像界の「権力」を宿す想像的なペニスに変わる。帽子も「権力」という語も、象徴的なものから想像的なものへと、その意味あいを変えたのだ。かような記号内容の変化のダイナミズムは、執拗に内容を問題化しながら舞台を組み立てる劇団唐ゼミ☆の手法によってこそ、十全に表現されるのだといえよう。

 さて、『下谷万年町物語』の夢の中においては、それぞれの登場人物の想像界が舞台の上に並立し、それらの象徴界どうしがぶつかりあう様子は、複数のフェティッシュ(想像的なペニス)へと物象化される。注射器という小道具を通して、そのありようを見てみよう。

 注射器はもともと、死んだ田口洋一からお瓢に贈られたものであった。これはお瓢と田口とを想像的に繋ぐフェティッシュであり、田口のペニスであると解釈できる。お瓢は田口への操を立て続けるためには、「そこになにか入れちゃいけないよ」という田口の言いつけを守り、空のままで注射器を持ち続けなければならないはずだ。

 しかし、万年町の洋一とともに再びサフラン座を立ちあげることを決めたお瓢は、2人の「洋一」を判然と区別することができなくなる(夢の一次過程としての圧縮=隠喩)。彼女は注射器を握り締めて「みんな、みんな洋ちゃんです」と言い、「あの洋ちゃんも、この洋ちゃんも活かしてやろう」と決意する。2人の「洋一」を、自分の想像界の中で重ね合わせようとするのである。そして三幕では、彼女は注射器に洋一の血を吸わせ、田口の注射器の内容を、洋一の「六本指」へと変えてしまう。これも前述した記号内容の入れ替えであり、一種の「横領」なのだが、おそらく現在を生きるということは、空の容器の中に現在の生を充填するような何事かなのだろう。こうしてお瓢の手の中で、田口のペニスは洋一のペニスともなる。

 だが洋一にしてみれば、自分の想像的なペニスは自分の作ったサフランの造花だけである。ゆえに彼は、オカマたちのリンチからお瓢によって助け出された後、自分のペニスであるサフランと田口のペニスとしての注射器との二者択一をお瓢に迫る。そして、お瓢が注射器を手放せないことを知ったとき、彼女との別れを選ぶのだ。

 その直後、注射器を地面に落としたお瓢の前に、白井が現れる。白井は兄である田口と想像的に同一化してしまっており、死んだ兄がお瓢を愛したように自分もお瓢を愛さねばならぬと思い込んでいるし、兄のペニスであった注射器を自分のペニスでもあると錯覚している。白井が地面に落ちた注射器を指さして「それをどうしてひろわない?」とお瓢を問い詰めるとき、お瓢は田口の注射器を拾うべきだ、という白井の判断は同時に、自分のペニスをお瓢に受け容れてほしい、という彼の願望でもある。

 お瓢は注射器を見て「いいえ、これは忘れてません」とひとりごちるものの、その注射器のことは棚上げにしてしまう。白井は、自分と兄との想像的なペニスをお瓢から拒絶されたと感じる。白井はお瓢と想像界を共有することができなかったわけだ。そこで彼は、せめて死んだ兄の空位に洋一がおさまることだけは阻止しようと、兄の注射器を使って洋一を殺す。

 ここに見た一連の場面は、もはや存在しない田口をめぐる奇妙な三角関係を描いて、劇全体の中でいちばん内容の濃い見所のひとつともなっている。劇団唐ゼミ☆の上演では、お瓢役の椎野裕美子を相手取り、洋一を演じる土岐泰章と白井を演じる熊野晋也が、それぞれ入魂の演技を見せた。

不動の主演俳優としての力強い安定感の上に、悲しみや苦みを繊細に表現した土岐の演技、特に「僕を返してほしいんです」という悲痛な一言は、現在までの彼にとって最高の成果であるばかりでなく、唐十郎作品でヒーローを演じる俳優のひとつの標準を示したものといえよう。そして、退場する土岐と入れ替わるように、誰にも理解されない白井の孤独を身にまとった熊野が登場する。その絶望的な求愛の演技は非常に感動的であり、また、演出の中野敦之は、白井が黙って注射器を見つめ、中にたまっている洋一の血をゆっくりと抜いてゆく、というト書きにない場面を挿入したが、自らの想像的な欲望を斥けられた白井の怒りや嫉妬や悲しみが、この演出によって見事に際立てられた。
(続く >>


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