◎観る前には戻れない 上質なドキュメンタリー映像の感覚
清末浩平(劇作家、劇団サーカス劇場主宰)
先日、私の先輩で休業中(?)の演出家である西悟志氏と会ったとき、彼が「戯曲でなくても、どんなテキストであっても舞台作品として上演することは可能だ」と言ったのを聞いて驚いた。
西氏は実際、プーシキンの小説など非戯曲作品の演出をこれまで行っており、特に阿部和重の小説『ニッポニアニッポン』の舞台化作品は大傑作の名に値する舞台として私の記憶にも刻みつけられているのだが、しかし、喫茶店で私と話しているときに「舞台作品として上演」できるテキストの例として彼が挙げたのは、東浩紀の『動物化するポストモダン』だったのである。言うまでもなくこの高名なテキストは評論文であり、ストーリーを備え会話もある程度書かれている小説ならともかく、そんなテキストが演劇として上演されるような事態など、そのときの私には想像もできなかった。
しかしそれから2ヶ月ほどの後、世田谷パブリックシアターでサイモン・マクバーニー演出の『春琴』を観たとき、私は大いにエンターテインされると同時に西氏の言葉を思い出し、彼の炯眼に感服した。もちろん西氏の認識とマクバーニーの舞台の間に直接的な関係など何もなく、そのリンクは私の中で起こったことでしかないのだが。私は『春琴』を観て、「どんな種類のテキストであっても、演出家がしっかりとテキストに就き、卓越した技術を用いさえすれば、舞台作品として上演することは可能だ」と分かったのである。
舞台『春琴』は、谷崎潤一郎の『春琴抄』と『陰翳礼讃』をもとに構成されている。周知のとおり、『春琴抄』は人物評伝のような結構と文体で書かれた小説であり、会話によって演劇的に成り立つような場面は少ない。『陰翳礼讃』は評論文である。どちらも一般的に言って、舞台化しやすい素材とは言えない。
それをマクバーニーはどのように舞台化したのか。
上演の序盤、ひとりの俳優がまっ暗な舞台に登場して朗読用の机につき、スタンドの仄かなライトを点して用意されていたテキストを読み始める。彼女は朗読家であり、暗いスタジオの中で音声の録音を行っているという設定である。
彼女がテキストを読んでいると、スタジオの闇の中に『春琴抄』の登場人物たちが浮かび上がり、朗読されつつある言葉に沿ってシーンを演じてゆく。そこで演じられる場面は、朗読している人物の頭の中に浮かぶイメージであると同時に、その朗読を聴く者が想像する世界でもある。
このような仕掛けによって、マクバーニーは谷崎の原作の膨大な地の文を見事に処理し、演劇としての(つまり、演者と観客との間で現在進行的に立ち上がってゆく芸術としての)枠組みを作り上げた。
この処理が見事だと私が述べる理由は、テキスト『春琴抄』自体との関わりの中にある。そのあたりの事情について、もう少し詳しく検討してみよう。
『春琴抄』という小説は、「私」と名乗る語り手が「鵙屋春琴伝」なる小冊子を手に入れ、その冊子を読みながらヒロイン春琴の人物像を想像し作り上げてゆく、という結構を持つ。読者の多くは、地の文の語り手である「私」を作者・谷崎とほぼ同定して読んでしまうだろう。乱暴に言ってしまえば、『春琴抄』は谷崎が先行テキストを「読むこと」、すなわち読んで想像を膨らませることによって成立している小説なのである。
一方舞台『春琴』は、朗読家が『春琴抄』を「読むこと」によって成り立つ。ここでも先行テキストを「読むこと」が、舞台が立ち上がるための土台(いわば地の文)となっている。そして、朗読家は「私」という一人称で観客から認識されるのだが、この「私」なる呼称が『春琴抄』の語り手である「私」へと、奇妙な接続を見せるのだ。さらに、この朗読家が女性として設定されている点も面白い。テキストの作者とまったく無縁であっても、もちろん性別まで違っていても、テキストを読んで想像を膨らませる自由はその読者にこそあり、そういった意味においてテキストは読者のものであるというわけだ。
マクバーニーはこの朗読家の設定を通して、作者・谷崎潤一郎が握っていると思われがちな『春琴抄』というテキストの所有権を、現代のひとりの読者の側へと移行させている。テキスト『春琴抄』自体の作法にのっとりながら、テキストが纏ってしまっていた不要の権威を内破するこの身振りは、すぐれて脱構築的なものであり、正当な批評性を持つ。おそらく谷崎が観たとしても、妥当なものだと認めるであろう。
入口のところで分析的にこだわりすぎたかも知れない。舞台に現れたその他の形象にもふれておこう。
まず目を引くのが木の棒である。世田谷パブリックシアターの巨大な舞台におよそ釣り合わない、細すぎる棒が俳優の手で舞台に持ち込まれる。その棒が様々な場面で舞台造形に利用されてゆくのだが、たとえば小説『春琴抄』の冒頭のくだり、小説の語り手が春琴の墓を訪ねる場面では、俳優たちがその棒を組み合わせることで「大阪にはちょっと珍しい樹木の繁った場所」を作り出す。
こうして語ってしまうと、ほとんど学芸会的と言ってもよいアイディアではある。しかし、棒を扱う俳優たちの極度に繊細な手つきによって、演出プランは正当性を獲得していた。奏功を期して粗暴にいきりたつようなところのまったくない俳優たちは、ひとつバランスが壊れると完全に崩壊するに違いない脆さを身体全体で受け止めながら演技しているに違いなく、その所作は原作の持つ力強い儚さにつきづきしいものであった。そうした緻密な演技を通してあらずもがなの「樹木」ひとつを舞台に現出させることで、マクバーニーはテキストの中に埋蔵されたある種の原理をも可視化している。立ち枯れの木のようないわゆる「日本的」な「わびさび」ということだけではない。《物語の終わった後にそれを語る=再演する》という「小説」の条件(『春琴抄』という小説は、ヒロイン・春琴とヒーロー・佐助の生の再演=追体験である)と、再現芸術としての「演劇」の条件とが、非常に美学的な形象によってそこで接続されているのである。
物語の終わった後の寒々とした光景。しかしそこから物語の生きられていた過去へと足を踏み入れてゆくと、過去の闇の中には濃密な官能のいきれが満ちみちている。マクバーニーは、佐助に年代の違う3人の男優を当て、春琴には女優のほかに美しい人形まで用いて、ふたりの主人公の生の物語のほうへと肉感的ににじり寄る。時間の経過による人間の変化(成長および老い)を表現するための複数人一役というこの方法は、演劇が担わされている「再現芸術」としての宿命(すなわち人工性)を引き受けながらも、個々のシーンにおいて圧倒的な生々しさを獲得していた。幼い少女と少年の性、成熟した男女の性、老いの兆候を孕んだ性、それぞれが観客の目の前でリアルに立ち上がるのだ。そのエロスの強度は、舞台の枠組みの荒涼とした風景との間で、衝突の技巧によりいっそう強烈な印象を残す。
他にも、映像の用い方、小さな白紙を使用した演出効果、畳・座布団・机などを摺り足歩行のようななめらかさでスライドすることによって観客の視線の角度を変化させるテクニックなど、鮮やかな演出に関しては枚挙にいとまがないが、ここではそれらについては書かない。
観終わったときの感想というか印象としては、上質なドキュメンタリー映像を鑑賞したような感覚が残った。このような演劇が可能であり、これほどエンターテインニングなものでありうるのだということは発見であった。
しかしおそらく、『春琴』の雰囲気やテクニックを参考にすれば(模倣すれば)非戯曲であっても上演が可能だと考えるのは間違いである。『春琴』の舞台にあった空気やそこで用いられた技巧は、優れた演出家が『春琴抄』および『陰翳礼讃』というテキストと正面から向かい合い苦闘した結果、1回限りのものとして生まれたものだったはずだ。
テキストを口実にしながら自分(たち)の世界観であるとか思いつきであるとかを開陳していくような「感性」的な演劇は、小劇場でよく見かける。けれども、テキスト自体と特に関係のない舞台制作者の「自己表現」をそういった形で行うことができる(と思い込む)根拠が私にはよく分からないし、特に意味のあることだとも面白いとも思えない。そういう類の演劇は、周到な計算と理論的な正確さをしっかりと踏まえた上できわめて官能的な世界を立ち上げたマクバーニーの試みの、対極に位置するものなのではないか。
ともあれ私は、マクバーニーがこれからも様々な作家の様々な形式の作品を採りあげ、正確に的確にテキストを解釈しながら素晴らしい舞台を作り続けてくれることを、大いに楽しみにしたい。ちなみに舞台『春琴』を観てからこっち、『春琴抄』を読むたびに、あの劇場の薄明かりの中の陰翳深い役者たちの姿が眼前にちらつくようになってしまった。もう観る前には戻れない、これは一種の洗脳である。
【筆者略歴】
清末浩平(きよすえ・こうへい)
1980年、大分県に生まれる。東京大学文学部日本語日本文学専修課程卒業。同大学院国文学修士課程修了。大学および大学院では安部公房を研究。2001年より劇団サーカス劇場で代表をつとめ、脚本・演出を担当。役者としても自劇団や他劇団に多数出演したが、現在そちらは廃業。舞台作品に『グラジオラス』、『サーカス版カリギュラ』、『ファントム』、『隕石』など。次回公演は2008年5月、夢の島でのテント公演『幽霊船』。