◎「可視的であること」への信仰を相対化
野村政之(劇団・劇場制作)
サイモン・マクバーニー演出『春琴』は、谷崎潤一郎の『春琴抄』についての解釈と考察についての文章の朗読をNHKラジオのスタジオで収録するという舞台設定のもとで、さまざまな趣向をおり交ぜながら、朗読にのせて各場面が演じられた。以下3章にわたって、なんだったのか、考えてみたいと思う。
■俳優とモノの対等
今回の上演を見ながら、僕がまず見どころに感じたのは、「俳優とモノの対等な扱い」という点。
まずわかりやすいところでは、文楽を模倣して、幼少期の春琴を人形で提示し、それを深津絵里ともう一人の俳優で動かす。また、朗読に合わせて演じられる舞台設定が、畳や棒で示され、それらを場面に応じて役の演者でもある俳優が黒子となって移動し、配置する。
小劇場では電動の舞台機構等がないこともあって、場面転換等であえてそのような形をとる演出もよくある。この場合多いのは、その黒子の役割の俳優に照明があたっていて見えていても、その俳優たちの動きを「演技の外」として扱い、上演のなかで回収しないというやりかたである。いわば「見えてるけど見ないもの」「演技のON/OFFでいえばOFF」として無きものとみなす。観客もそういった演出があることを知っているので、だいたい無きものとして、「ON」の時間だけをつないで作品を見ることにする。
『春琴』では、そうやって俳優が道具を動かすことを「演技の外」としては扱わない。たしかにモノは移動され、人形は動き、畳は様々な形に接ぎ合わされて廊下になったり部屋になったり、墓の台座になったりするのだが、それを移動する俳優も、上演のなかで無きものにされるわけではない。たぶん、サイモン氏は、意味的にも、また演技的にも、この黒子の俳優の動作を「演技の外」としては扱わなかっただろうと思う。
まず意味的な部分。たとえば幼少期の春琴を示す人形を深津絵里が動かす。春琴のセリフを言う深津絵里の声は春琴の声であり、人形を動かす手足の動きは春琴の手足の動きを表している、とふつうに見ることができる。だが、これをちょっと別の角度から見ることもできる。すなわち、盲人であり、佐助の介添えなしには生活に不自由する春琴を示す人形を、深津絵里が動かす、というふうに見ることもできて、その場合、深津絵里という俳優/黒子はじつは春琴を示す人形を介添えする佐助であるとも言える。
ほかにもモノを俳優/黒子が動かす様子を上演中通じて観客は見続けることになるが、いま述べた角度からこれを見た場合、盲人にかぎらず、一般的に人間が誰かに介添えされている、というような印象を生むことにつながってくる。そして全体としては、モノも俳優とともに演劇の内部で運動していて、人(俳優)は、次のシーンのため、または他者(ほかの俳優)のためにモノを介してなにかのアクションをする(対応して、人は他者からモノの介してなにかのアクションをされる)、ということを伝達する構成になっている。
次に演技的な部分。俳優は、黒子として何度も何度もモノを移動する段取りをこなすことになり、モノをスマートに扱うために、ONの状態のままシンプルな動きを要請される。いうなれば「モノに踊らされる」。さらに、役=ON/黒子=OFFとなるのではなく、役と黒子がグラデーション的に接ぎ合わされることにより、過剰に大きな、歌い上げる演技(ふつう中劇場や大劇場で演じられるような演技)をするのではなく、抑制された演技を要請される。これは、単に演技のON/OFFを演出的にどう定義するか、というだけでなく、同じ舞台空間にどういう存在感で立つべきか、というシーン全体のバランスにも関わっているので、俳優に対していたずらな過剰な演技を禁ずるというふうにも作用していると思う。そうした演技の様をあえて大げさに比喩していえば、「モノと会話をしている」のである。そうして演技にモノがついてまわることによって、大げさに身を振るいセリフを歌い上げ一種の陶酔的な状態で「役」にのぼりつめるような、演技の階梯を駆け上がることを差し止められていて、ときにマイクをはさみながらささやき、ささやきを可とすることによって抑制を保ち、「なまなましさ」を保つ。
蛇足になるが、『春琴』が『陰翳礼讃』からもインスパイアされた作品であって、光があり翳があり、陰翳を礼讃する(したい)谷崎潤一郎の世界観をなにかのかたちで示そうする作品であるという観点からみると、この抑制ぶりは必要な効果であったといえると思う。「なまなましさ」に対置される「大きな演技」は「影のない明るさ」と親和する。
こうして、俳優とモノを対等に扱うことを単に演劇創作の方法論としてだけではなく、舞台からの客席への伝達のベースとしている点が大変興味深かった。
■真贋
プロットとしての『春琴』は、『春琴抄』を現在から見つめる「歴史と記憶の物語」であったと思う。
劇の冒頭で、晩年の佐助とも、またサイモン氏が書き添えたキャラクターとも、また本人自身ともとれるヨシ笈田が「年をとってくると記憶があいまいで、どれがほんとかどれがうそかわからなくなる…」というような意味のことを言っていたと記憶しているが、年をとるとらないにかかわらず、どんな記憶も、またそれを書きつづった「伝/伝記」も、それ自身が一枚の全体であるようなものではなく、断片の接ぎあわせだといえると思う。そうした断片をまとめあげるのは、「現在」ないしはそれが記されたものであれば「読者」の視点、なのではないだろうか。
たとえば歴史について考えるならば、「歴史」というものがある。あるとされる。
あるけれど、それはいつも移り変わる「現在」からの編みなおしの中途にある。教科書は書き換えられるし、新しい出来事はつねに過去の意味を変容せしめている。
僕らがいま知っていると思っている、共有していると思っている“最新”の歴史も、こうした複数の歴史の一つであって、要は現在の視点からまとめ上げられた事実の断片の接ぎ合わせの組み合わせの一つにすぎない。すぎない、というか、そうとしか理解しえない。誰かがどんなに自分にとっての「正史」を主張したところで、それを「正史」だと証明する完全な根拠はどうやっても見つからない。いまみえている歴史は、いまみえている歴史である。
ではあるけれど、いっぽうで、たとえば研究書や教科書で歴史的事実を接ぎ合わされた文章を読んでしまうと、いくら批判的であろうとしてもある歴史の像が見えてしまうし、それを学校で教わったりして「真」であると考えるようになることもある。
語られている「事実」は断片であり、太古の昔から現在までのびている「歴史」の全体のなかで、一個の事実を対象化することはできないはずである。また、ある事実がまた別の事実に対してどのように影響を与えたかは、一意的に決まることではないだろう。その意味で、ある一片の事実はそれだけでは「真」ではない。「贋」といってしまっていいかどうか言いにくいが、「真」が一つであるとすれば「贋」といえる。しかしながら歴史はそれぞれの「贋」の断片を「現在」「読者」の視点から構成し、接ぎ合わせ、そこからなにがしかの「真」、物語を呼び出す。
この、「贋」から「真」を呼び出す「現在」ないし「読者」の視点が、観客の「進行中の現在」の行為のなかにも紛れ込んでいること、言い換えれば「贋」から「真」を呼び出す「錯覚」が、「上演を観るという進行中の現在」にも稼働していることを、『春琴』の上演は執拗に提示していたように思う。
先に述べたように、人形を用いて示される春琴とそれを操る俳優深津絵里は、役の観点からは分断されている。また離合集散をくりかえす畳や棒は、それらが断片の接ぎ合わせであることを主張し続ける。
さらに、奥のホリゾントパネルにときどき投影される俳優の画像は、僕が見た限りでは、ゲネプロなどであらかじめ撮影されたものを投影しているのではなく、現在進行中の上演の瞬間を撮影し、投影しているようだった。それはあたかも、現在接ぎ合わされてしまっている一連の時間が断片から構成されていることをことさらに強調するかのようだった。
また、中空に複数の俳優/黒子が白い紙を集めてそこに事実上『春琴』役である深津絵里の顔を投影し、それをあからさまに霧散させる演出も繰り返される。
こうした演出から見えてきたのは、観客としての僕(野村)がことさらに意識するまでもなく、断片は接ぎ合わされてある視覚/ヴィジョン/シーンの全体を構成してしまい、僕はそれを諒解できてしまい、それらのシーンを基盤にして観客の僕は上演が進めていく物語を系統的に解釈できてしまっているという事態。舞台上で進められていることは接ぎ合わせを接ぎ合わせとして上演しているにも関わらず、観客としてはひとつの全体として見えてしまっている、全体を見出してしまっている、ということだ。
たぶん、これは僕だけがそう見えている、騙されているのではないと思う。いちおう僕自身は、いちおう作り手でもあるので、単に受け身に上演を観るというよりは、演出家に仕組まれたことに騙されるまい、上演で行われていること(見えと聞こえ)以外のことから物語を生成するまい、という構えを持って、ニュートラルな立場にとどまって上演を見ようとしている。が、そういうこととは関わりなく、思考を経由する以前に、「見え」が避けがたくある全体を構成してしまう。接ぎ合わせの「贋」の断片が「贋」であることは繰り返し見せられているにもかかわらず、その場その場でなにか意図された全体(「真」)があるかのように見てしまう。見てしまうことしかできない。
勝手な想像だが、こうして考えてみて、サイモン氏がなぜ『春琴抄』を題材に選んだのかということがなんとなく受け取れる気がする。すなわち、盲人の春琴と、自ら視覚を放棄する佐助の物語を素材とし、「見る」ものである演劇を用いて「見ること」の自動性を対象化することで、視覚、「可視的であること」への信仰を相対化しようと企図しているのではないかということだ。そう考えるといろいろとサイモン氏のメッセージを考えたくもなってくる。ここではそうした意図の社会(学)的考察、意義の掘り下げの議論はしないが、この想像じたいは外れたものでもないんじゃないかとなんとなく思っている。
と、「歴史/記憶」「視覚/可視性」において「真贋」を見出してしまうことの自動性について述べてきたが、このことは、『春琴』の上演と鑑賞をめぐる他の切り口にもいえることだと思う。すなわち、「『春琴抄』における谷崎潤一郎の作家性(たとえば倒錯)」とか、谷崎潤一郎の特徴・記号としてなかば自明化している「日本らしさ」とか、あるいは定評のある深津絵里が出演しているということでの「深津絵里の演技力の爆発的発揮」とか、といった「真」を期待して上演を鑑賞して、報われたり報われなかったりしてそれぞれの観客の評価があると思うが、そうした「真」を実現することは、最初から目指されていないし、それだけでなく、たとえばいま挙げたような切り口から「真贋」を下すスタンスを相対化するように『春琴』は創造されている、と思う。
サイモン氏は谷崎ではないし、2008年の日本は1933年の日本ではないし、深津絵里は春琴ではない。そういった「“らしさ”の虚構性」を取り去ったところで、舞台空間を構成する「モノ」や「俳優」の存在感とか、「現在と『春琴抄』」の関係とか、「サイモンマクバーニー built in UKと世田谷パブリックシアター in Japan」の関係とかといった素材、上演にとっての断片を出発点として、果たしてなにができあがるのか。
こんなところから『春琴』は創造されていたのではないだろうか。
■演劇/play/ごっこ
パンフレットに収録されているインタビューで、サイモン氏は「演劇はplayで遊戯だ」ということをいっている。上演からして、これはあながちリップサービスでも逃げ口上でもないと思う。
『春琴』の全体は先にものべたように、「ナレーターの朗読に合わせて俳優とモノが演技する」という構造のもとにある。『春琴抄』を外側からくるむ一種のメタ構造ということになり、ストレートに上演しないという意味でひとつの「ごっこ」である。それに加えて、この上演構造じたいも、「ナレーター」(義太夫)の朗読に合わせて「俳優」(人形)が演技する、というふうに文楽の様式を利用した「文楽ごっこ」であるといえると思う。
さらに、いままで述べてきた、“モノと俳優の扱い”や“断片の接ぎ合わせ”ということも、演劇を直接的に上演することを徹底的に異化しており、演劇の「贋」すなわち「ごっこ」の体になっている。
体験としては、たとえ「断片の接ぎ合わせ」に見えたからといえ、上演された全体はどういってみても演劇的なリアリティをたたえていたので、「ごっこ」というような言い方をすると、『春琴』という作品を、また「演劇」という芸術を、馬鹿にしていると受け取られるかもしれない。でもこれは『春琴』を観た僕の、まったくシンプルで正直な物言いだし、またいっぽうで、現在の小劇場演劇のなかで、「演劇」という形式をその語彙のレベルから創造しようとしている、と僕が感じる作品に共通する傾向だと思っている。まったく否定的な評価ではない。
いまのところの僕の言葉で表現すると、それらのチャレンジングな作品は、演劇を「ごっこ」だとして、その「ごっこ」からなにがこぼれ出てしまうのか、ということをめぐって創造されている。舞台空間の構成要素に、なにかの設定をまとわせるだけでなく、その「設定をまとっている」という状態も諸共、あからさまに提示する。舞台が帯びている虚構性を無視せずに、無視しないだけでなくその虚構性を明らかにして、構成要素の存在感(俳優の身体性も含め)を押し出してくるのである。
このwonderlandで木村覚氏が小指値『霊感少女ヒドミ』について似たような論旨をあげていたとおり、小指値の作品群や、五反田団のいくつかの作品は「ごっこ」らしさがあからさまな作品だと思う。木村さんのいう「遊び」(不条理ともシニシズムとも笑いとも輪郭を接するような遊戯性)という枠をとりはらえば、チェルフィッチュやサンプルや東京デスロックなどの作品もこうしたフレームで創造されていると僕は思っている。単なるリアルやアクチュアリティを追求するだけでなく、演劇の虚構性をも射程におさめてなお同時代のアクチュアリティを追求する作品たち。これが偶然の一致なのかグローバルななにかの必然的な一致なのか僕はわからないが、ともかく、僕は『春琴』を、そういう作品たちを観るのと同じような見方で観た。観ることができた。海外の作品の日本公演というかたちではそういうこともあったが、海外の演出家が日本の俳優や日本の戯曲をつかって上演している作品でこういう感じだったことは今までなかったので、びっくりした。
最後に。
いろいろ書いてきてなんではあるが、不勉強なあまり僕はサイモン・マクバーニーについてよく知らない。前作『エレファント・バニッシュ』も観ていない。プロフィールを読むところでは、イギリスの一線の演出家、ということだ。上演は、まったく肩書き通りのものだった。
海外で制作した作品を単に日本に巡演するのではなく、サイモン氏のような一線の演出家が、日本の俳優たちと、日本の公共ホールのクリエーションとしてこれほど同時代にアクチュアルな作品を創造し上演したことは、ともかく喜ばしいことだと思う。
当然ながら世田谷パブリックシアターとその10年がなければこういったことは実現しないわけで、演劇の制作に携わる一人として、その労に思いを致したりもする。ともかくこの上演があってよかった。有難かった。
(2008.3.1 19:00の回観劇。俳優の敬称を略させていただきました)
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド 第85号、2008年3月12日発行。購読は登録ページから)
【プロフィール】
野村政之(のむら・まさし)
1978年生。東京大学文学部卒(心理学)。2000~2004年、小鳥クロックワークに主にスタッフとして参加。1年間の公共ホール勤務ののち、2007年、青年団入団。現在、青年団とこまばアゴラ劇場の制作を担当。自分のブログに、有難かった作品についてのまとまらないレビューを時折アップしている。
※こまばアゴラ劇場では2008年度劇場支援会員を募集しております。(「支援会員通信」ではココだけ読める注目記事を掲載しています。ぜひどうぞ。編集係:野村)
・ブログ「黙黙」:http://nomuramss.exblog.jp
・2008年度こまばアゴラ劇場支援会員募集:http://www.komaba-agora.com/sien2008/index.html
【上演記録】
世田谷パブリックシアター+コンプリシテ共同制作『春琴(しゅんきん)』
谷崎潤一郎「春琴抄」「陰翳礼讃」より
世田谷パブリックシアター(2008年02月21日-03月05日)
[出演] 深津絵里、チョウソンハ、ヨシ笈田/
立石凉子、宮本裕子、麻生花帆、望月康代、瑞木健太郎、高田惠篤/本條秀太郎(三味線)
[演出・構成] サイモン・マクバーニー
[作曲] 本條秀太郎
[美術] 松井るみ/マーラ・ヘンゼル
[衣裳] クリスティーナ・カニングハム
[照明] ポール・アンダーソン
[音響] ガレス・フライ
[映像] フィン・ロス
[人形制作] ブラインド・サミット・シアター
[演出助手] カースティ・ハウズリー
[演出家付き助手] ジョー・アラン
[プロダクション・マネジャー] 福田純平
[舞台監督] 山本園子/キャス・ピンクス
[技術舞台監督] ロッド・ウイルソン
[舞台監督助手] 桐山知也/エマ・キャメロン
[音響操作] ガレス・フライ
[照明操作] 加藤学
[映像操作] フィン・ロス
[衣装] 篠原直美 戸田京子
[日本髪協力] 奥松かつら
[ヘアメイク]川口博史 喜屋武樹里 清水美穂
[声の出演・方言指導] 大原穣子
[照明技術スタッフ] 杉本公亮
[音響技術スタッフ] 尾崎弘征
[技術スタッフ] 松嵜耕治 奥野さおり 伊藤久美子
[通訳] 野田ちゑ里 野田学
[技術通訳] 松村佐知子
[創造協力] キャサリン・アレキサンダー
[スクリプト協力] 川島健
[コラボレーター] クライブ・ベル ビクトリア・ゴールド ティム・マクマラン
[大道具]村上舞台 井手口 拓人 輝舞台 工藤舞台
[小道具]藤波小道具 今村企画 福田秋雄(ベゼット)
[英語字幕操作]G・マーク
[ロンドン稽古場協力]在英日本大使館
[音源協力]朝日新聞社(谷崎潤一郎「春琴抄」の朗読)
[輸送]ケイラインロジスティックス マイド
[協力]杉本博司 東京ワンダーサイト 深津金戍朗
[法務アドバイザー]福井健策
[プロデューサー]穂坂知恵子
[制作]相場未江]佐野昌子
[インターン]田室寿美子
[広報]森直子 和久井彬
[票券]金子久美子(ぷれいす)
[営業]清水信一
[企画制作]世田谷パブリックシアター/コンプリシテ
[主催]財団法人せたがや文化財団
[助成] 大和日英基金
[協賛] ブルームバーク
[協力]アサヒビール株式会社 東京急行 TOKYU HOTELS 渋谷エクセルホテル東急
SS席(整理番号付指定席)7,000円/S席7,000円 A席5,000円/B席3,000円
平成19年度文化庁芸術拠点形成事業/UK-Japan 2008公認イベント