◎適切さの欠落
清末浩平
(1)名作に包囲された問題作
本稿は、2011年の5月に書かれている。去る4月の27日と28日の2日間、劇団唐ゼミ☆が、古巣である横浜国立大学の構内にテントを建て、第19回公演『海の牙』の「プレ公演」を上演した。この演目は、かなり長い磨き直しの期間を経た後、6月18日から7月3日にかけて、浅草で再び観客の前に姿を現すことになるという(http://www.karazemi.com/ なお、以下の文章では、『海の牙』のストーリーが解説されてしまうため、劇団唐ゼミ☆の本公演をこれからご覧になる方は、観劇後に読んでいただくほうがよいかも知れない)。
『海の牙』は唐十郎が1973年に書いた戯曲であり、同年の秋、唐の劇団状況劇場によって初演された。テキストとしての初出は雑誌「海」の同年10月号。
この時期の唐十郎の劇作を並べてみると、以下のようになる。
『二都物語』 1972年春、状況劇場
『鉄仮面』 1972年秋、状況劇場
『ベンガルの虎』 1973年春、状況劇場
『盲導犬』 1973年春、櫻社(演出=蜷川幸雄)
『ガラスの少尉』 1973年6月放送のラジオドラマより改作
『海の牙』 1973年秋、状況劇場
そして74年の春には、最高傑作との呼び声も高い『唐版 風の又三郎』も誕生する。唐は30代の前半、劇作家としてのひとつの絶頂期である。特に、状況劇場の春公演では、李礼仙と根津甚八の2人を主軸に据えた『二都物語』、劇の三幕構成を確固たるものとした『ベンガルの虎』と、古典的な完成度を誇る名作が続く。その一方、73年には、状況劇場の上演台本以外の戯曲も書かれており、唐の実験精神の旺盛さも窺われる。
そんな中で書かれたのが『海の牙』だが、この作品は、比較的小規模な秋公演用の戯曲ということもあり、また、おそらく劇団外での実験的な仕事からのフィードバックも受けて、『ベンガルの虎』や『唐版 風の又三郎』といった王道の作品とはかなり趣きを異にしている。
実際、『海の牙』の構成のいびつさは一目瞭然だ。二幕構成で、第一幕が異様に長く、第二幕は第一幕の半分にも満たない(劇団唐ゼミ☆による「プレ公演」の上演では、第一幕は100分、休憩を挿んだ後の第二幕は40分だった)。内容に目を転じても、第一幕前半における各人物の登場は少なからず唐突であり、ことに序盤では、おそろしく屈折したレトリックの応酬が延々と続きもする。細部についていえば、多くの断片的なモティーフが劇のそこここに、思わせぶりに埋め込まれているものの、それらを注意深く繋いでゆこうとしても脈絡を見失うばかりで、そのあまりの難解さに、観客あるいは読者はいささか辟易させられる。
しかしながら、かほどにバランスを欠いて見える『海の牙』は、同時期の唐の名作群と比べても、ひときわ鮮烈な印象を観客あるいは読者に与える作品なのだ。なぜならこの作品が、性と民族をめぐるなまなましい政治の問題を、庶民レヴェルの生活の中から抉り出しているからである。この力業めいた外科手術は、観客あるいは読者に向けて、突き刺さるような血のしぶきを放つ。劇団唐ゼミ☆による「プレ公演」としての上演も、戯曲のその尖鋭性につきづきしく、強烈な迫力をもって展開された。
(2)『海の牙』のストーリー
『海の牙』の主人公は、呉一郎(土岐泰章)という青年である。呉は中学生の頃、鉄棒で得意の「大車輪」を回っていたとき、少し離れた校舎の2階から、ひとりの女生徒が自分の姿を見つめているのに気づいた。女生徒は呉の大車輪を「邪道の円」と呼び、聞こえるはずのないその声を聞いた呉は鉄棒から落ちてしまう。以来、呉はその女生徒のことが忘れられず、何年もの月日がたったいまも、彼女を探している。
その女が、ヒロインの瀬良皿子(椎野裕美子)であり、彼女はいまはパンマ稼業によって糊口をしのいでいる。パンマとはパンパンの按摩のことで、つまりは按摩に扮した娼婦だ。とある昼下がり、呉と瀬良は再会するが、瀬良は、目の前の青年がかつて大車輪を得意としていた呉であることに気づかない。
ふたりの再会の舞台は、一軒のカツラ屋の軒先である。そのカツラ屋の主人(上田康文)、女房(水野香苗)、番頭(重村大介)は、マゾヒスティックな性愛を介した三角関係にある。痴情のもつれから、主人が女房を殺害して遺体を寸断し、番頭がその頭部だけを持ち去る、という事件も起きる。
さらにそのカツラ屋を訪ねて来たのが、梅原北明(西村知泰)と名和四郎(熊野晋也)だ。梅原北明は実在した文化人であり、1946年に死亡しているのだけれども、この劇の中では生き延びており、朝鮮半島の済州島で現地の女性との間に子をなした後、その子を連れて日本へ戻っている。「チュジュド」(済州島)と「ウェノム」(日本)との「アイノコ」たるその息子が、名和四郎である。まだ幼さの残る名和四郎は、母親と引き離されて日本へ連れて来られたのだが、彼の影の中にはいまも母親の幻(禿恵)が棲んでいる。名和四郎の影に潜む朝鮮民族の女たち(禿恵、川上真奈美、イリヤ)は皆、「女の命」である髪を切りとられて、日本人用のカツラに使われてしまっているのだった。
さて、瀬良皿子はパンマであるがゆえに、客を横取りするといって正規の按摩(安達俊信)から恨まれ、髪の毛を切られて「トラ刈りのひどい頭」にされる。そこに現れた名和四郎の母親らの幻は、自分たちの髪で作られたカツラを瀬良に与え、かつ、瀬良に朝鮮の民族衣装を着せる。そのようにして瀬良を朝鮮民族の女に仕立てあげ、彼女に憑依することにより、日本の地で名和四郎を守ってゆくための実体を手に入れようというわけだ。「無国境主義者」の瀬良は、それをいささか軽率に受け容れ、「朝鮮パンマ」となる。
第一幕の後半は、梅原北明によって演出された、日本人の按摩と「朝鮮パンマ」の対決である。真っ赤に焼けた鉄の棒をつかめるか、ということを、按摩と瀬良が競い合う(この競技自体には明白な必然性はない)。そんな中、もののはずみから朝鮮民族、および女性への差別意識を剥き出しにした梅原北明は、瀬良の髪の毛を火にくべて燃やす。その髪は、名和四郎の母親の髪でもある。日本にいる間は「国士舘風の黒のツメエリ」を着せられ日本男児として生きねばならない名和四郎は、父の命令と母への想いとの間で引き裂かれた末に、背負っていた弓を梅原北明に対してかまえ、火矢を放つ。梅原北明は重傷を負う。
呉一郎は、中学時代の出会いを瀬良に想起させ、差別と被差別の圏域からともに逃走しようと、力強く訴えかける。文字どおり手に手を取った、呉と瀬良のその手が、幻想の中でまったき自由を得たかのように宙を舞う。(この手に関しては、解釈の分かれる可能性があるが、劇団唐ゼミ☆による「プレ公演」の上演では、呉と瀬良のふたりの手が絡み合って飛んでいた。)
しかし第二幕に入ると、なぜか、呉と瀬良は一緒にいない。呉は病院に入れられている。なぜか。彼はあるとき(第一幕と第二幕との間の時間)、電車の中で朝鮮民族の女性が日本人の男たちに囲まれ、「嬲られて」いるのを見た。その女性は瀬良であった。呉は、瀬良を囲む男たちの手を、ジャック・ナイフで切って回った。そうして逮捕されたものの、留置場にいることに耐えられなくなったため、タバコを食べてわざと健康を崩し、彼は病院に入ったのだった。
呉と同じ病室に、火矢で重症を負った梅原北明が入院している。そこへ、名和四郎を連れた瀬良が見舞いにやって来る。瀬良の髪は名和四郎の母親の髪であるため、その髪の不思議な作用によって、瀬良は当然のことのように名和四郎の世話をしてやっているのだ。と、瀬良を目の敵にしていた按摩が刑事となって現れ、病室は取調室に変わる。
その取調室では、第一幕で起こったカツラ屋の女房の惨殺事件が扱われる。
女房を殺した「下手人」はカツラ屋の主人だが、もうひとり別の何者かが、その女房の頭部(女房と姦通していた番頭がそれを持ち去っている)から髪の毛を切り取っていた。その、髪を「ヘアー・ジャック」した「上手人」の嫌疑が、瀬良にかけられるのだ(髪を切った犯人は、本当は名和四郎なのだが)。
取調べの中で、呉は「証人」となり、電車の中での事件に言及する。しかし、性と民族による差別を一身に受けて生きている瀬良は、自分が「嬲られて」いたという現実から目を逸らすため、電車の中でツメエリの名和四郎と「戯れて」いただけだ、と語る。電車の中で、瀬良は「嬲られて」いたのか、「戯れて」いたのか。この一点をめぐって、事件の解釈は二転三転する。そして電車での出来事が再現され、「朝鮮パンマをスケコマセ」という男たちの声が響く中、瀬良は自分が「嬲られて」いたのか「戯れて」いたのかを明言せぬまま、呉に向かって呼びかけるように、何かを訴えかけるように、ただ手をあげる。呉はその呼びかけに応え、瀬良を助けるために男たちの手をナイフで払いのける。
(3)氾濫する記号
愛する者が差別を受けていたとき、自分はその他者のためにどのように生きるのか。結局のところ『海の牙』という劇は、そのようなただひとつの主題を中心に組織されている。したがってストーリーの骨格は、呉一郎が瀬良皿子のために生きることを決意し、その決意をいくつかの困難によって試される、というきわめてシンプルなものとなる。
しかしながら、この劇を構成する微粒子のような記号群へとフォーカスしたとき、そこに氾濫する過剰なテマティズムに、観客あるいは読者は眩暈をおぼえざるをえない。それぞれの記号を図式的に配置すること、それらを繋ぐ固定した意味の地図を作成することが、おそろしく難しいのである。
けだし、最も理解しやすいのは、「髪」という記号だろう。これは「女の命」と呼ばれるように、女の側に配分される記号である。そしていつも男の「手」によってつかまれ、切り取られてしまう。
では、「手」とはつかむものであり、完全に男の側の記号なのか。そのように限定できないのは、瀬良皿子の「手」があるからだ。呉と瀬良の中学時代の出来事において、呉が鉄棒をつかむ「手」と対照的な形で、呉の大車輪の回転を狂わせる瀬良の「手」が登場する(「手で、それも細く長い五本のメスのような手で、ぼくの描く大車輪の輪をメッタメタに切りきざむようなことを――」)。そして、さらにもうひとつの鍵となる「手」は、電車の中で男たちに囲まれた瀬良が、呉のほうへとあげる「手」である。この「手」は当の光景の中で、吊革をつかむ男たちの「手」と鮮やかな対照をなす。片手で吊革をつかみ、もう一方を瀬良の身体に当てているだろう男たちの「手」と違い、瀬良の「手」は何もつかむことなく、頼りなげに空中に差し出されただけなのだ。
ここに、『海の牙』における「手」というシニフィアン(記号表現)の両義性がある。鉄棒を握る「手」と、それを切り裂いて離させる「手」。吊革をつかみ女性を辱める「手」と、言葉にならないメッセージを、誰かに届くという確信もないまま宙に投げる「手」。これら2種類の「手」は、現在も性差別を再生産し続ける社会の中で構築された「男=有用性」と「女=無用性」という二項へ、それぞれ配分されている。
ここで興味深いのが、呉一郎の「手」である。彼の右手は白?病という病に冒され、脳=中枢の命令から独立した、自分自身のリズムで振動している。そして「ダントン」と名づけられたこの「手」をこそ、呉一郎は瀬良皿子に差し伸べる。「腐臭に於て、その無用さに於て、その死の夢の見方に於て、このダントンはあんたより格が上だ」。
差別を基盤として構築される有用性/無用性という二項対立において、無用性とは有用性の欠如である(性差別において、女性が男性性の欠如として定義されるのと同じように)。しかし、「ダントン」の「死の夢」(これは明らかに、精神分析における「死の欲動=タナトス」である)は、かようなヒエラルキー、有用性の専制下にあるかような秩序を、転覆することを企てるのだ。現行秩序の転覆を、ここではとりあえずのところ革命と呼ぶことにすると、『海の牙』は革命論の物語であるといえる。
この、とりあえずのところ革命と呼ばれたものに対しては、劇中に頻出する「円」という記号が、別の角度から照明を当てている。
中学時代の呉の大車輪は、瀬良皿子によって「邪道の円」と呼ばれる。これは、この世界に現象してしまった円はすべて「完璧な円」ではない、という意味である。したがって、『海の牙』に見られる「円」の記号は、ほとんどすべてが「邪道の円」でしかない。瀬良の名前は『千夜一夜物語』のシェラザードから採られているが(瀬良皿子は「シャラシャラコ」とも呼ばれる)、千の物語のストックを語り終わってしまった後に最初の物語に戻るという「千夜一夜」の円環も、やはり「邪道の円」のカテゴリーに入る。世界を「調和」という欺瞞で満たし、人々を閉ざされた思考の檻へと囲い込む「邪道の円」は、端的にいって現行秩序の表象であり、抑圧的な制度の表象である。
それならば、「邪道の円」ではない「完璧な円」などというものがあるとして、それはどのようなものなのか。その「完璧な円」こそが、ほかならぬ革命の記号なのだ。差別的な二項対立に基づいて構成された現行秩序を無化しようという意志、その制度の圏域の外へ超え出てゆきたいという想いが、「完璧な円」という記号に込められている。次に引用するのは、第一幕の大詰めの呉一郎の台詞である。
この手を取れ、因果なパンマ。千夜一夜の鏡をすてろ。未だあらわれたことのない異境の果てからこのダントンがさらいにやってきたのだ。さあ千夜一夜の一夜先へ完璧な円を描いて飛んでゆこうよ。
では、かような「完璧な円」は、『海の牙』の舞台上に、いかなる形象を持つことになるのか。それは舞台上には、もはやほとんど「円」とは呼べないようなものとして現勢化される。「完璧な円」が実際に舞台上に姿を現すのは、名和四郎が弓を引き絞ったときであり、そのときだけなのだ。もちろん、引き絞られた弓が「円」の形をしているはずもないが、にもかかわらず、それを見た瀬良は「あ、円」と口走る。
引き絞られた弓が、そのギリギリの緊張の中でのみ表出するもの。図形としては「円」とはいえぬが、「円」をいままさに産出しようとする力そのものであるところのもの。潜在性としての「円」、いわば微分的な「円」。この「完璧な円」が現れているごく短い間だけ、名和四郎は言葉をしゃべることができる。第一幕の終盤で、弓を引き絞った名和四郎が梅原北明に訴えるのは、「お父さん、この弓が円を描いている間、母を陰から出してください」という反差別の言葉である。
そして名和四郎の同じ長台詞は、差別の無化を託した「完璧な円」を、「ネムの花」という別の記号と連結させる。それを聞いた呉一郎は、第二幕で「古代九州と朝鮮との間は昔、川だったと言うじゃありませんか。その川辺に咲いたネムの花は、埋もれた水稲耕作機の謎を持っているのじゃないでしょうか」と言い、日本民族/朝鮮民族という二項を対立させる差別的な軸を消去しようとすることになる。
(4)混乱のエクリチュール
ところで、日本民族/朝鮮民族という二項対立のモティーフを支えているのは、「鏡」という記号である。日本民族の父と朝鮮民族の母との間にできた混血児である名和四郎は、父の前ではマッチョな日本男児のイメージを担って「ウォッス!」としゃべらなければならないが、母の幻の前では「シュリンガーラ・ティリカ」という一言だけを口にする。名和四郎は父と母、日本と朝鮮の間で引き裂かれた存在であり、その事態は、ひとりの人間の存在を二重化する「鏡」が頻繁に舞台へ持ち込まれることによって、感得されやすいものになっている。
同様に、もともと日本人であった瀬良皿子が「朝鮮パンマ」になったことも、「鏡」を介した日本と朝鮮との関係として把握できそうに思われる。劇の最初の段階では、瀬良皿子は日本人であった。彼女は、パンマという職業に向けられる差別と性差別とを同時に受けて、髪を切られる。そこへ、名和四郎の母親の髪を移植され、瀬良は朝鮮民族へと転換するわけだが、この転換にも「鏡」という小道具は関わってきている。
そのうえで、名和四郎と瀬良との差異に注目してみよう。劇全体を通して名和四郎が日本/朝鮮のあわいに宙吊りにされ続けるのと違って、瀬良皿子は日本民族から朝鮮民族への、後戻り不可能な一回きりの移行を果たしている。第一幕の半ばで瀬良にカツラと民族衣装が与えられて以降は、瀬良はずっと「朝鮮パンマ」なのであり、日本と朝鮮の間を往還したりはしない。「鏡」の転換は瀬良においては一度だけしか機能せず、日本人だった瀬良は「鏡」の中に閉じ込められたままなのである(「隣の部屋の囚われの女」)。
瀬良は第二幕で「今は朝鮮パンマよ」と言い、「あたしは、昔から今まで朝鮮パンマだったかもしれないわ」とも言う。実際、第二幕の展開は、瀬良が「朝鮮パンマ」であることが、その時点で確固たる前提となっているからこそ成立するものだ。そうでなければ、民族差別への異議申し立てというテーマの訴求力が弱くなってしまう。だが、この点に、『海の牙』という作品の、戯曲レヴェルでの最大の難点があるといわねばならない。名和四郎が劇の中で日本と朝鮮の両極に引き裂かれ続けることは、「アイノコ」という彼の設定によってしっかりと裏支えを受けているが、しかし瀬良のほうは、彼女が「朝鮮パンマ」に転換することの必然性を、設定の水準で与えられてはいない。カツラをつけられ民族衣装を着せられ、カツラが頭皮に根を下ろして地毛になってしまう、というきわめて幻想的な場面によってしか、彼女の朝鮮民族としてのアイデンティティーは支えられないのだ。
ここから、民族的アイデンティティーなるものの幻想性や構築性(根拠のなさ)、およびそれに対する作家の批評意識を読み取ることも、不可能ではあるまいが、『海の牙』の舞台を観る限りでは、さきほどまで日本人としてふるまっていた者が突然朝鮮民族として差別を告発し始めても、説得力に欠けるといわざるをえない。名和四郎に対しては周到に用意されていた設定が、瀬良皿子にはないからである。瀬良皿子というキャラクターの持続には、作品内部でのリアリティーが、明らかに不足している。
劇団状況劇場による初演を想像してみると、この内在的リアリティーの不足に関する疑問は、ある意味において氷解してしまう。『海の牙』は、他の唐十郎戯曲と同様に状況劇場の俳優たちへの当て書きであり、当時の唐の妻である李礼仙への当て書きであったからだ。当時の観客の大多数は、舞台作品の設定以前の設定として、瀬良皿子を演じる李が在日韓国人であるということを知ったうえで、『海の牙』を観たはずである。よってそこにおいては、戦略として、確かに瀬良皿子と朝鮮とを結びつける設定は必要ないともいえる。作品内部でのリアリティーの不足は、作品の外部にある俳優の身体によって、確実に補われるであろうからだ。
だが、瀬良皿子というキャラクターにおける内在的リアリティーの不足は、すべてが作者の戦略的な意図によるものだったのだろうか。日本民族から朝鮮民族へと移行する瀬良の転換は、唐が李との出会いを虚構の水準で反復したものとして読むこともできよう。すると、『海の牙』という戯曲を、唐のいわば私戯曲、フィクショナルな自伝と捉えることが可能であるわけだが、そのような視点から見てみれば、劇の第二幕で「嬲られる」と「戯れる」をめぐり瀬良と呉一郎が自分自身の感情や認識すらも統御できないほどに混乱していたのに似て、『海の牙』を書く唐十郎のエクリチュール自体が、ある混乱の現勢化となってしまっているように感じられる(それはまるで、脳からの命令を受けつけず自律的に振動する「ダントン」だ)。
唐十郎は1973年、李礼仙と自分自身への当て書きとして、『海の牙』を書いた。素材が自分たちにとってあまりになまなましいものであるために、そのエクリチュールには、理性の統御以上に混乱が流れ込まざるをえなかった。……作品を論じるうえでかほどに直接的に作者の実生活を参照してしまうことに、本稿の筆者もためらいをおぼえるが、この点に関しては本稿の読者による批判を待つとして、ここではとにもかくにも、『海の牙』という作品の内部の記号の体制を横断している混乱にこそ注目しよう。瀬良皿子に関する内在的リアリティーの不足も、その混乱のひとつのあらわれである。また、本稿はここまで、いくつかの記号(「髪」、「手」、「円」、「鏡」)をめぐることで、性、二項対立、差別、革命、民族といった『海の牙』の中心的なテーマを繋いできたけれども、実のところは『海の牙』には、その何倍もの数の記号が溢れかえっており(「昼下がりの坂」、「黒鉄」、「火」など)、しかもそれらはいちいちいかにも象徴的なその装いをもって解読への欲望を観客あるいは読者の内に掻き立てつつも、結局は両義性、多義性、無意味性へと拡散し、テマティックな解読を不可能にしてしまうのだ。いわば、シニフィアン(記号表現)がシニフィエ(記号内容)への繋留を失い、浮遊している。この浮遊するシニフィアンもまた、混乱のあらわれであろう。
(5)適切さの欠如したところで
『海の牙』という戯曲は、同時期の唐十郎の作品と比較したとき、洗練という点において優れたものとはいえまい。ここまで見てきたように、それぞれの記号は古典的な象徴性を持っておらず、構成の点でもプロポーションが崩れており、政治的なメッセージとしても、民族性の相対化とアイデンティティ・ポリティクスとの間で不徹底であることが目立つ。生活の中の政治性を抉り出すという点において、いわゆる政治的尖鋭性を誇らしげに謳う他の凡百の作品とは明確に一線を画しているとはいえ、やはりこの戯曲は多分に問題を含んだものであろう。正直なところ、戯曲自体としての評価は、本稿の筆者にとって、現段階では難しい。
だが、2011年4月末の「プレ公演」では、唐十郎の言葉に身体を捧げる劇団唐ゼミ☆の俳優たちの倫理性(これについては、以前「下谷万年町物語」評で述べた。http://www.wonderlands.jp/category/ka/kiyosue-kohei/)と、『海の牙』執筆当時の唐十郎が自身の混乱に率直であったこととが共鳴し、とほうもなく感動的な舞台作品ができあがっていた。以下、本稿の筆者の印象ばかりを書き連ねることになってしまうけれども、劇団唐ゼミ☆による『海の牙』は、いわゆる「政治的正しさ」以前の時空を扱ったものであるように思われる。差別する側として描かれる脇役だけでなく、主役である瀬良皿子と呉一郎も、「政治的正しさ」という観点からすれば不適切としかいいようのない台詞を発することがある。そういった場面はむろん、たいへん危険なものだし、批判されねばならない。しかしながら、『海の牙』という作品において、瀬良や呉が政治的に正しい部分も正しくない部分も、あるなまなましい混乱の振幅の中にあるとしたらどうだろうか。その混乱の渦巻いているのが、「政治的正しさ」という基準が確立される以前の次元であるとしたらどうだろうか。少なくとも、劇団唐ゼミ☆の上演する『海の牙』には、そう感じさせるだけのものがある。といっても、「政治的正しさ」を無視してもよいときがある、と本稿の筆者が認識しているわけではなく、このあたりの事情については、2011年6月に上演される『海の牙』の本公演を観て、より厳密に考えねばならぬだろうが……。
劇団唐ゼミ☆の俳優たち、特に、呉一郎を演じた土岐泰章と名和四郎を演じた熊野晋也の演技の傑出が、本稿の筆者に上記のような印象を与えた。第一幕の後半、それまで「シュリンガーラ・ティリカ」と「ウォッス」という一言ずつしかしゃべれなかった名和四郎が、弓を引き絞りながら堰を切ったように言葉を話し、「この弓が円を描いている間、母を陰から出してください」と訴える。火矢を弓につがえたこの場面の熊野は、一言めをしゃべり始めた瞬間から、瞠目すべき強度で舞台の空間と時間を一変させた。まるでそれに張り合うかのように、次の場面で土岐の演ずる呉一郎は、「腐臭に於て、その無用さに於て、その死の夢の見方に於て、このダントンはあんたより格が上だ」という長台詞を瀬良皿子に語り、「千夜一夜の一夜先へ完璧な円を描いて飛んでゆこう」という革命的ロマン主義の昂揚を体現する。このひとつながりの場面は、上演の中で最も感動的なシークエンスであった。あまりに軽率だろうがあえていえば、表面的に「政治的正しさ」に抵触する部分があったとしても、土岐や熊野の演ずる人物たちが最終的に差別に加担するとは思えない、という印象が観客に与えられ、その印象が『海の牙』の上演を支えている。
そして第二幕の大詰め。瀬良皿子をめぐって奇妙な三角関係にあった呉一郎と名和四郎は、差別と暴力から瀬良を救うため、連帯する。瀬良を囲む男たちの手をジャック・ナイフで切ろうとする(その場面を再現する)呉一郎が、取調室での証言という形式を借りて「証明します。誰か筆記して下さい」と言う場面に、劇団唐ゼミ☆の演出家の中野敦之は、名和四郎が呉の証言を筆記する、というト書きにない演出を加えている。愛する者を救うためにテロとしか呼びようのない行為に走る呉、その呉の証言を涙を流しながら筆記する名和四郎。
このときの土岐と熊野の演技がどれほど素晴らしかったかを、言葉で説明するよりも、いまはこのような記述にとどめたい。
さて、『海の牙』を書いたときの唐十郎の混乱というものを、本稿は想定したわけだが、その混乱は劇を通して伝染するものであるらしく、本稿自体もはしたなく混乱した文章になってしまった。本稿の筆者は、どうやらまだ『海の牙』という作品に対して、適切な距離をとれていないようだ。『海の牙』という作品に「政治的正しさ」をはじめとするもろもろの適切さが欠如していたのと似て、本稿からも、本稿の筆者が想定する批評としての適切さが脱け落ちてしまっている。さいわい、6月にまたこの作品の上演を観ることができる。そのときにこそ、多少なりとも体裁の整った批評を、とも思われながら、しかし、いまのこの混乱に率直であらんという衝動は抑えがたく、結果、2011年の5月に本稿は書かれた。
(初出:マガジン・ワンダーランド第244号、2011年6月8日発行。無料購読は登録ページから)
【筆者略歴】
清末浩平(きよすえ・こうへい)
1980年、大分県に生まれる。東京大学文学部言語文化学科日本語日本文学専修課程卒業。同大学院国文学修士課程修了。2001年より劇団サーカス劇場で代表をつとめ、脚本・演出を担当。現在、劇団ピーチャム・カンパニーに参加。劇団webサイト上のブログ「letters」(http://letterskk.blog111.fc2.com/)。個人の論文掲載用ブログ「documents」(http://42286268.at.webry.info/)。
【上演記録】
劇団唐ゼミ☆第19回公演『海の牙』プレ公演
横浜国大教育8号館裏 特設青テント(2011年4月27日、28日)
作・監修=唐十郎
演出=中野敦之
出演=椎野裕美子、禿恵、安達俊信、土岐泰章、水野香苗、重村大介、熊野晋也、高次琴乃、川上真奈美、イリヤ、西村知泰、上田康文、金川美咲、金泰佑
舞台監督=安達俊信
照明=齋藤亮介
音響=高次琴乃
作曲=サトウユウスケ、他
衣装=砂田和美
美術協力=車田幸道
宣伝美術=K.徳鎮
制作=劇団唐ゼミ☆
入場料 一般1000円/新入生500円
【テキスト】唐十郎全作品集第三巻(冬樹社、1979年)