ガレキの太鼓「いないいない」(クロスレビュー挑戦編第8回)

 「『人生の中で一度は経験するかもしれない“異世界”』を舞台とし、そこで湧き起こる人間の感情を積み重ねていく群像劇を上演する」「非現実な舞台の中で行動する『普通の人々』の生(なま)の感情が舞台空間を『社会』へと変貌させ、観客の『生きている感』を改めて呼び起こす」。ガレキの太鼓のホームページには、こんな文章が掲げられています。第5回公演「いないいない」はどんな「生きている感」を紡いだのでしょうか。レビューは5段階評価と400字のコメント。掲載は到着順です。(編集部)

大越勇磨(医療事務)
 ★★
 自分はいる、他者はいる、と本当に言えるのか? 全ては自分の頭の中で作り出した世界であって、私以外の世界全ては想像の産物なのではないか。そんな観念論的な哲学の世界に迷い込んでしまうような不条理劇でした。『ある日、通知が来ると自分の存在を消されてしまう』という世界。何故消されるのかは最後まで明かされることがない。消されまいと、隠れ家に潜んで共同生活する男女。隠れ家の家具の中を各々の部屋として生活している。私には、消される原因には『差別』や『迫害』の影は見えませんでした。何故自分が選ばれたか自覚がないという不条理が観劇後モヤモヤを残します。
 共同生活する仲間達は、一人また一人と声だけの存在になり、姿が消えていく。まるで最初からいなかったかのように。消えたのか死んだのか殺されたのか逃げたのか、もしくはやっぱりいないのか。誰がいて、誰がいないのか。想像すると、頭がグルグル回り続けます。
(6月5日14:00 観劇)

片山幹生(仏文学)
 ★★★
 狭苦しい空間に閉じ込められた登場人物たちが抱える不安、絶望、焦燥、そして諦念のリアルな表現には、3.11の震災後、避難所生活を強いられている被災者たちの現実を思い浮かべずにはいられない。この不条理な状況には、メタ演劇的問いかけが重ねられている。避難所は最初のうちは様々な人間が出会い、対話を行う、勝れて演劇的な場として機能していた。しかし単調で希望の見えない避難生活が長引くにつれ、場の空気は澱み始める。人物たちは次第に自分の寝場所であるタンスや戸棚の中から動かなくなる。さらには何人かの人物の姿が消える。そして最後には舞台上から役者の姿はすべて消え、声だけしか聞こえなくなる。物語の自然な展開のなかで、演劇を成立させる要素を徐々に除去し、演劇が成立するぎりぎりの地点へと向かっていくベケット的風景を描き出す試みは興味深かった。しかし閉塞状況における人間の姿にせよ、「引き算」による演劇への問いかけにせよ、よくできてはいるけれど主題としては目新しさに乏しい。かなり早い時点で結末が予想出来てしまうものであったことも物足りない。もう一ひねりして、観客の予想を裏切り別の局面を提示するような仕掛けが欲しかった。
(6月8日19:30 観劇)

小川 章(自営業)
 ★★★
 誰かに勝手に選別され、理不尽な迫害を加えられることは、今も昔もあらゆる場所にある。放射能汚染の選別と迫害は、今まさに進行中だ。幕が開いてしばらくは、「これはガレキ太鼓版『アンネの日記』ではないか」と思った。しかし物語が進むにつれ、その感覚は薄れていく。それは、隠れていることの緊迫感や、人がそこに生きているという生活(臭)などの「リアルさ」に欠けているからだ。ところが、ラストに皆の身体が消えていく様は、ちょっと鳥肌モノだった。時間とともに「忘れられていく」「なかったことにされていく」という、日本的な風潮や空気感が感じられたからだ。そう考えると「リアル感がない」(感じられない)の様子は、まるで「茹でカエル」のたとえのように、「実感」が伴わないまま、放射能や風評、不安で茹で上がっていく、われわれの「リアルな姿」だったのかもしれない。それがガレキ太鼓が今考える『アンネの日記』ということなのだ。
(6月3日19:30 観劇)

プルサーマル・フジコ(BricolaQ主宰)
 ★★☆(2.5)
 震災の影響をほぼ100%感じさせる作品。「通知」を受けた人間はその存在を消される、とゆう噂を信じた人間たちが親や恋人と離れて狭いシェルター的な隠れ家に身を寄せるところから始まる。幾つかのアイデアが散発的にバラ撒かれるものの、伏線として回収しきれずに惜しくも流れた印象で、例えば宛先を失った手紙/祈りとして「外」に流れ着きそうだった北川裕子の日記や、鈴木浩司の「信用ならざる語り手」としての資質には、もっと不条理な世界を呼び込みうるチャンスを感じた。
 劇団名の由来は「世の中でガレキの山のように思われているもので大きな音を鳴らしてやろう!」とあり、その心意気や良し!と思いますが、作・演出の舘そらみは実際に東北でまさにガレキの山を見てしまったらしく、その圧倒的なリアリティに真摯であろうとした結果、その「現実」に足をとられた感もある。決して誰にでもあるわけではない勇気と無鉄砲さがこのチャレンジ精神を生んだことは記憶しておきたいけども、やっぱり閉塞感の「その先」をひらく大きな音をわたしは聴きたいし、フィクションとしての方法や戯曲の展開力によっては、また違う音が聞こえてきそうな気がします。
(6月10日19:30 観劇)

チンツィア・コデン(演劇研究者)
 ★★★☆(3.5)
 外界から逃げ延びて、若者達は地下の狭いスペースに集まってくる。舞台には、彼ら彼女らを受け入れる箪笥、段ボール箱が並んでいる。その中に潜むのだが、動きは次第に最小限になり、胎児のように丸まって日々を過ごしていくばかり。最後には姿が消え、母体の代理になっている家具だけの場面になる。
 地下のスペースで、人生の新たなスタートを待ち続けるが何も始まらない。外界は益々悪化してくると聞いても、この「隠れ族」はパニックを起こさない。ヒステリックになる男(伊藤毅)がいても、みんなの協力的な姿勢も変わらない。
 下手のドアの向こうから物資を届けにくる兄(鈴木浩司)が『戦場のピアニスト』を思い出させる。しかし裏切り者はいない。上手で北川裕子が『アンネの 日記』の亜流のように、日記を読み上げながら残酷な歴史の背景を引っ張ってくる。そして、登場人物は次々に行方不明者(desaparecidos)になる。
 舞台は過去と現在を重ね、多層的な時空間を構築する。だから役者には、時代と空間の交差を具体化してみせることが強く求められているだろう。その中心に凝縮した人間の必然的なニーズが現れ、そして終わる? この芝居は、今を生きようとする観客(われわれ)に、最後にその生きる姿を記憶に残して消える。
(6月6日19:30 観劇)

前田愛実(演劇ライター)
 ★★☆(2.5)
 狭い室内にどんと置かれた戸棚、箪笥、段ボール箱。その中に住みつく若者達。アンネ的隠れ家なのか、シェルターか? 隠れる理由は分からぬまま、物語はこの一室で展開する。ふとした会話や人間関係、心の動き、これらから観客の背景の物語へのイマジネーションを駆り立てるとこは本当に巧い。後半、登場人物が何の前触れもなく次々に消えていく。持ち主はいないが声だけは残る箱の扉が勝手に動く。そこでは不在が強調され、消えた人々に対する喪失感がありありと残る…ハズだった。というのも、まず扉の開閉が忙しないし、仕掛けの紐や棒も最初から丸見えで、抒情性の入る隙がちょっと厳しいのだ。心底惜しい。
 時節がら当然のように原発避難区域の人々を思った。しかし震災前にプランは出来上がっていたそうだ。予定通り上演したのは立派。それに女性作家といえば魂の雄たけびをあげてる人が多い中、ちょっとSF、プチミステリーな作風は珍しい。頑張って下さい。
(6月6日19:30 観劇)

福田夏樹(演劇ウォッチャー)
 ★★★
 歯向かえぬものにいかに対処するか。われわれが正に直面している問いだ。登場人物は何かから逃げている。何から逃げているかは劇中で明かされない。地下シェルターのような場所に隠れ、そこでただ時をやり過ごす。物資は乏しい。次第にイライラを募らせる。あるいは精神を病む。そして少しずつそこにいたはずの人々が消えていく。残響のような声だけを残して。
  果たしてこの作品は今向けられている問いにぶつけられた作品なのだろうか。そうだとしたら僕は評価しない。理由は単に逃げる以外の答えや希望を提示していないから。逃げることの葛藤と苦悩に共感を呼ぶエヴァンゲリオンの時代は、僕は終わりにしたい。そうではなく、今を、この悲しみを淡々と寓話的に描こうとしたのだろうか。しかし、今この現実がある中で、寓話化することにいかなる意味があるのだろうか。ただの気休めではなかろうか。確かにそれも演劇の価値のひとつかもしれないが。
  さすが青年団リンクというわけで、作品の機微に目立った穴はみられなかったところから星3つ。多様な解釈が可能な不条理劇なだけに、他の方々がどう観られたのか楽しみにしたい。
(6月9日19:30 観劇)

齋藤理一郎(会社員 R-Club-Annex
 ★★★★
 登場人物たちがその部屋に閉じこもる具体的な理由は、よくわかりませんでした。でも、そのことが、部屋に込められた寓意の間口を広げているように思えて。展開していく物語の設定も、あいまいでどこか不条理なのですが、観る側に様々な現実を想起させる。
 日記の日付が読み上げられるたびに、時が進みエピソードが重なっていきます。慢性的な閉塞感や、「部屋から出ることはなくそのまま老いていくような気がする」という想いの中での日常のくりかえしが、姿の消えた人々の残存感に置き換わっていく終盤が圧巻。
 日々のエピソードたちは単発的で細微な具体性もない。でも、その重なりが醸し出す、消えたものへのダルな痛みと切なさには観る側を次第に動けなくするような厚みがあって。気付かぬままに埋もれ失われていくものへの滅失感に深く心を捉えられてしまいました。
(6月3日19:30 観劇)

都留由子(ワンダーランド)
 ★★★☆(3.5)
 外の世界から逃げ出して、アパートの一室に隠れ住む男女。「通知」が来たために身を隠したこと、通知の来た人は迫害されるらしいことはやがて分かるが、どこからの通知なのか、なぜ通知が来たのか、なぜ迫害されるのか、外の世界がどうなっているのかなど、最後まではっきりしない。隠れている人たちは、物入れや、たんすや、ダンボール箱などを自室として、共同生活を送る。ナチスから逃げるアンネ・フランクのようでもあり、また、「通知」というのは放射線被爆を意味するような気もして、きっと会場にいた人の数だけ解釈があるに違いない。前半、わずかに示される手がかりから、何が起きているのかを読み取(ろうとす)るのはとても面白かった。が、状況が安定してくる後半は少々冗長な気がしたのと、せっかく人が消えたのに、たんすの開閉の仕掛けが早くから見えていてやや興ざめ、かつ、そのせいで「空っぽ」の衝撃が弱くなったのが、すごく残念だった。
(6月4日18:30 観劇)

鈴木励滋(舞台芸術批評)
 ★★☆(2.5)
 やりたいことは伝わってくる。一人、また一人と見えなくなっていく仕掛けのなか、ほとんどだれもいなくなって、最後の暗転。灯りが戻ったときに、それぞれの「部屋」から颯爽と人々が出てきた瞬間に安堵というか、感謝のような気持ちが生じたのは、壊れていく/消えていく人々を目の前にして、なんとか生の方へと引き戻したいと念じていた証しだとは思う。
 けれども、そこまで観る者を掴まえ、連れていくには、かなり難があったのではないか。
所詮「ウソ話」に過ぎない作り物に、他人を付き合せるにはセンスや技量云々の前に、地道な作業が要る。「虫づくし」や「鳥づくし」などの「辞典」が、別役実の不条理な世界の存在感を頑なにしたように。
 さらに、嘘のつき方が緻密でないことよりも深刻に感じたのは、人々の描き方が粗雑なところだ。焦燥も憤怒も嫉妬も思慕も怨嗟も欲動も諦念も、ことごとく淡い。登場人物に感情移入できないというのではなく、登場人物同士の関係性が破綻しているようにすらわたしには見えた。決してドロドロしたものを好んでいるわけではないが、このような設定を選んでしまったのに、表層を撫でるだけのものには、なんとも付き合いがたい。
 超絶嘘つきになるか、さらに人間の清濁にまで踏み込む覚悟をするかしないと、舘が表したい世界に他者をいざなうこと能わないのではないかと思う。
(6月12日17:00 観劇)

徳永京子(演劇ジャーナリスト)
 ★★
 人には、経過した時間によって、然るべき時に発する言葉の時制がある。この集団の関係性なら、今さらこんなことは言わないだろう。あるいは、事態が変化したのだから、こうリアクションするだろう──。本作はその時制が完全に無視される。
 “通知”が届いた人は消されるという不条理がまかり通る世界。“通知”の基準や意図は不明。届いた数人がマンションの一室らしき場所に隠れている。「気合いを入れて隠れないと」と言ったそばから、誰だかわからないノックに扉を開ける。「外のことを話すのはやめよう」と言ったすぐあとにあっさり恋の話をする。不満、未練、諦め、緊張、退屈、不和、倦怠がいたずらに散りばめられ、観る者を戸惑わせる。その不合理の意図は?
 作・演出の舘そらみはおそらく「刻々と経過する時間」と「時間が経過に影響されない関係性」を両立させたかったのではないか。だがその志高い試みは、あえなく撃沈したと言わざるを得ない。理由は、大ざっぱな時間感覚と、凡庸なせりふ。時間と言葉、どちらも手強い。ぬけぬけと消滅を描き、夢のような不条理劇を立ち上げようとするなら、不合理は慎重に退治しなければならない。
(6月12日17:00 観劇)

北嶋孝(ワンダーランド)
 ★★★
 閉所の設定で気になるのは、本格ミステリの密室殺人事件なら「侵入」と「脱出」。生活臭のある創作なら「食料の補給」と「排泄の処理」だろう。別に書き込まなくてもいいから、読者、観客に疑問を抱かせないでほしい。虚構の皮が剥がれてしらけないように「頼むぜ、作者」。ところが密室で数人が2年近く暮らすこの舞台に、水やトイレはあっても風呂はない。しかも食料供給役の兄が早々と部屋の住人に加わったあと、肝心の「食」はどうなったのかフォローが足りない。そこでぼくはつまずいた。不条理風味でいいから、いっそ「出」「入り」など全く無視の姿勢を貫いたら潔いのに。
 外界の様子を知ろうともしない登場人物たちが消臭剤を求めるとは、ホントは次々に死んで腐臭を放っているのでは。途中から身体を喪って声だけの存在になるのは、関係を絶たれたら存在が半ば消えるという、ぼくらのありようを逆照射しているのか。そして読み上げられる日記は何だったのか、どこへ行ったのか。震災の避難所生活を仮枠にしながら、さらにリアルの皮を剥いでいくその先をもっと想像したかったのに…。
 「となり町戦争」のように、実感のないまま悪夢の現実が進行する舞台に解きたい謎がたくさん隠れていたはずなのに、ぼくは途中から取り残されてしまった。口惜しい。
(6月6日19:30 観劇)

【上演記録】
青年団リンク ガレキの太鼓第5回公演「いないいない」
アトリエ春風舎(2011年6月3日-12日)
作・演出 舘そらみ
出演:
木崎友紀子(青年団) 梶野春菜 北川裕子 伊藤毅(青年団/643ノゲッツー)鈴木浩司(時間堂) 篠崎友(とくお組) 林竜三(青☆組)他

スタッフ
演出助手:荒幡智佳 久保大輔
舞台監督:加藤唯
舞台美術:濱崎賢二
照明:岩城保 山岡茉友子
照明補佐:山岡茉友子
音響:田中亮大 角田里枝
撮影:村田まゆ
宣伝美術:大木瞳
制作:小林恵理子 さとうゆとり 森口さやか 矢口友朗
特別会員:伊藤毅
総合プロデューサー:平田オリザ

企画制作:青年団/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
主催:(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
協力:青☆組 時間堂 創像工房in front of. とくお組 にしすがも創造舎 にっぽんのげきだん フォセット・コンシェルジュ (有)レトル 643ゲッツー

【チケット】予約:2500円/当日:2800円
<各種割引(要予約)>ペア割 2300円 よろしく割 2300円 平日昼割 2000円 学生割 2300円 高校生以下500円※要学生証

「ガレキの太鼓「いないいない」(クロスレビュー挑戦編第8回)」への2件のフィードバック

  1. ピンバック: コ ニ ー
  2. ピンバック: うえの さよこ/sayoko

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