Asia meets Asia「Unbearable Dreams 8 Somewhere」

◎アジアという「もの」
 高橋宏幸

チラシ アジア・ミーツ・アジア(Asia Meets Asia)という、アジアとアジアが出会うとは何か、という問いを、舞台を通して行っている団体がある。1997年に始まって以来、それは継続的に、アジアのさまざまな地域の、そのなかでもとくにインディペンデントで、体制に迎合せず、ポリティカルなイシューを作品に取り混んでいる、といくつも言葉を足すことができる集団の作品を招聘して、フェスティバルを開催していた。
 もしくは、それらの劇団のパフォーマーたちを集めて、コラボレーション作品を作っている。そして、いくつかのアジアの地域を、その作品でツアーする。ただ、ここ最近は、かつてに比べれば規模自体は小さくなり、日本の演劇ギョーカイのなかで見てしまえば、マイナーな流れとなっている。
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エレベーター・リペア・サーヴィス「アーギュエンド」、ネイチャー・シアター・オブ・オクラホマ「ライフ・アンド・タイムス」ほか

◎「世界演劇」の終わり
 高橋宏幸

 「日本」的な場所に生息する演劇を批判するために、「世界」という言葉を対置することは、はたして批判として有効なのだろうか。確かに、2000年代あたりに美術批評から生まれた日本の「悪い場所」という言葉と、それを批判する言説は、わかりやすさもあいまって、演劇へも転用された。

 演劇の「悪い場所」とは、概して若いある一世代の共通的な感覚のもとで作られた、日本の中でしか流通しないとされた演劇作品を指していたのだろう。実際、共感を求める情緒共同体としての若者の演劇の形成は、日本の演劇、とくに「小劇場」という本来の理念が過ぎ去った後の「小劇場演劇」の特徴とされた。常に上書き的に更新される、狭い範囲の一世代の演じ手と観客のみで成り立つ演劇。それを批判する手段として、より大きな枠組みとして「世界」という言葉を使うことは、ある時点までは、批判のための有効なツールだっただろう。「世界」で、この作品は受け入れられるのか、と。
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Port B 「光のないII」
ミュンヘン・カンマーシュピーレ「レヒニッツ (皆殺しの天使)」(F/T12イェリネク三作連続上演から)

◎イェリネクからなにが見えたのか
  高橋宏幸

Port B 「光のないII」プログラム表紙
「光のないII」プログラム表紙

 おそらく、エルフリーデ・イェリネクという作家への一般的なイメージは、難解の一言に尽きているのではないか。少なくとも、演劇という分野で、日本で上演される際はそう思われていただろう。しかし、そのわりに今までリーディングだけでなく、上演もされている。小説だけでなく、戯曲も出版されている。それは、良く言えば、テクストのわからなさや難解さゆえに、上演に果敢に挑もうとする人がいたということだ。悪く言えば、スノッブゆえに小難しい作品の演出をしたがっているものがいる、そんなふうに思われてきたふしがある。
 今回、「フェスティバル/トーキョー」で、いくつも上演されたイェリネクの作品からは、そんな難解さなどという一言に還すことができない作品がいくつもあった。むろん、分かりやすく演出されたということではない。主催公演では三作品、公募プログラムでも一作品と、イェリネク作品が、これだけ一挙に上演されると、まるで難しさの飽和点から、一挙にシンプルな現実の問題へと、イェリネクの言葉を召喚したような結果が生まれた。
 むろん、個々の作品が目指したことは、その一点に帰そうとするものではない。しかし、上演されたなかでも、優れていると思われた作品には、現実への闘争のために、いかにイェリネクの言葉が重要となっていたのかが必然的に現れた。
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ミュンヘン・カンマーシュピーレ「レヒニッツ (皆殺しの天使)」(F/T12イェリネク三作連続上演から)” の
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青年団「ソウル市民 五部作」

◎差別を描くとはどういうことなのか
 高橋宏幸

 平田オリザの代表作の一つ、『ソウル市民』が5部作となって上演された。『ソウル市民』、『ソウル市民1919』、『ソウル市民 昭和望郷編』、『ソウル市民1939 恋愛二重奏』と4作目までが、30年以上にわたる日本が朝鮮を統治した時代を10年ごとに描いている。5作目は、タイトルが『サンパウロ市民』とあるように、戦時期を背景に、サンパウロへと移民した日系人の一家を舞台にしている。

 場所や時代は違っても、基本的にすべての作品に共通するのは、ある日本の一家の何気ない日常生活のなかに潜む、差別意識を浮かび上がらせることである。それが4作目までは朝鮮人であり、5作目は先住民への差別意識となる。
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Port-B「個室都市 京都」

◎環境の演劇
 高橋宏幸

 「環境」という言葉が流行している。エコロジーという言葉などは、そこから派生した代表的なものだろう。実際、最近ではエコ・クリティシズムという言葉も輸入されつつあり、批評や作品を作る際のタームの一つになりそうな雰囲気もある。むろん、環境についての現代的な視野は、なにもいまに始まったことではない。日本では公害問題を発端として、60年代以後の学生運動期に於ける自主ゼミなどが挙げられるように、それは演劇の動向がラディカルに問い直された時期と同時代性がある。そこに、リチャード・シェクナーの「環境演劇」という言葉を挙げてもいい。
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精華小劇場「イキシマ breath island」

◎「どこでもないここ」のリアル
高橋宏幸

「イキシマ」公演チラシその舞台空間は、見ている観客にいびつな感覚を与える。ただでさえ低く作られている天井は、舞台の奥にいくほどさらに低くなり、柱や窓も斜めになるなど、遠近法の焦点は微妙にずらされている。客席に座り舞台を見ているものにとっては、閉塞感をともなう。だが、客席の天井まで低くしているわけではないので、見つめる視線のみがその空間には囲われる。 白い壁の両面にいくつも開けられた、小さな明り取りの窓から差し込む光も同じように、まるである狭い空間を外側から覗き込むような働きをしている。それは客席から見つめる視線と同じように、舞台空間を取り巻く視線となっている。見るもののまなざしは捕われたような圧迫感を受けるのに、見るものの身体だけは取り残される奇妙な感覚が残る。

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「かもめ・・・プレイ」(エンリケ・ディアス演出)

◎作品と現実との距離を融解 『かもめ』を逸脱、ときに深く読み込む
 高橋宏幸(演劇批評)

 チェーホフの『かもめ』が、『ハムレット』を下敷きにして作られていることはよく言われている。『ハムレット』の台詞が引用される行などは直截的で目につくが、他にも母アルカージナとその息子トレープレフが親子の愛情と苛立ちを爆発させるさまは、ハムレットとガートルードの関係を引き移しているといえるし、母を奪い取って王となったクローディアスは、同じように母の愛人である作家トリゴーリンの位置と重なる。もちろん、人物の対比関係を挙げれば他にもまだまだ共通点はある。また、構造として『かもめ』も『ハムレット』のように、劇中劇として舞台の上演が挿入されて、演劇そのものの形式を問題にする。それはメタシアターとして、作品および演劇という形式性を自己言及する視点を、あらかじめ作品に組み込んだ機能を有しているといえるだろう。

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hmp「Rio.」

◎独自の作品形式で「問い」を産出 アヴァンギャルドの保守化を超えて
高橋宏幸(演劇批評)

hmp「Rio.」公演チラシ芸術の表現における「実験」や「アヴァンギャルド」など、作品や傾向に付けられる言葉は、何をもっていえるのか。また、それぞれの時代の様式や形式に対して付けられた名称の基底にあるものとは何か。

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MODE「変身」(カフカ原作)

◎多層的深みを孕むふり幅
高橋宏幸(近畿大学国際人文科学研究所研究員)

「変身」公演チラシ作品がそれのみによって完結されないこととして、たとえばプロセスの重視は、美術ならばプロセスアートやコンセプチュアルアートの一端を占める作品などで知られている。その方法を演劇にあてはめるならば、たとえばリーディングやワーク・イン・プログレスなどを経て、それが公演されるまでの軌跡を公開した作品を指すことになるのだろうか。

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