◎「世界演劇」の終わり
高橋宏幸
「日本」的な場所に生息する演劇を批判するために、「世界」という言葉を対置することは、はたして批判として有効なのだろうか。確かに、2000年代あたりに美術批評から生まれた日本の「悪い場所」という言葉と、それを批判する言説は、わかりやすさもあいまって、演劇へも転用された。
演劇の「悪い場所」とは、概して若いある一世代の共通的な感覚のもとで作られた、日本の中でしか流通しないとされた演劇作品を指していたのだろう。実際、共感を求める情緒共同体としての若者の演劇の形成は、日本の演劇、とくに「小劇場」という本来の理念が過ぎ去った後の「小劇場演劇」の特徴とされた。常に上書き的に更新される、狭い範囲の一世代の演じ手と観客のみで成り立つ演劇。それを批判する手段として、より大きな枠組みとして「世界」という言葉を使うことは、ある時点までは、批判のための有効なツールだっただろう。「世界」で、この作品は受け入れられるのか、と。
だが、今となってみれば「世界演劇」というものは、少し考えればわかるように、どこを指しているのか、まったくわからない。それは、ありもしない場所を用いることによって、絶対的な強者として批判できるツールであって、そこで使われる「世界」は幻想の場所に等しい。
いや、より正確に言うならば、そこで用いられた「世界」への認識は、冷戦の余韻がまだ続いていた90年代だからこそ、描けた世界ではないか。少なくとも、9・11以後、グローバリゼーションが、アメリカという「帝国」の変名として世界を覆った後において、それでも「世界」という言葉を使うことは、欧米の資本主義のなかを流通する作品たち、アーツ・マーケットに単に荷担していることになるのではないか。そうすると、その言葉は今もってオリエンタリズムと同様に対置するオクシデンタリズムのように、「世界」に自己の欲望を投影していることになる。
また、今ではどのような形であれ、演劇人たちも日本以外の場所で上演したり、なんらかの形でそれぞれの地域の演劇に触れあったりする機会は、かつてに比べれば圧倒的に増えている (たとえその大半の結果が、当人たちの自己宣伝による現地での評判がよかったという言葉だけ、もしくは予算があるゆえに、むりやりに輸出される「クール・ジャパン」的な商品であったとしても)。そう考えると、彼らは日本以外の世界のどこかとは接していると言えるのだ。
実際、世界のどこかの地域にふれればふれるほど、「世界」などという曖昧な言葉は使えなくなる。なぜならば、それは、ニューヨークであれ、ベルリンであれ、東京であれ、当たり前だが、それぞれ一つの場所を越えるものではない。グローバリティに覆われた、ローカルな場所が現れているだけだ。それを「世界」と呼んでしまうことは、西洋なるものに美の規範を求めている、もしくはそれらの史観にとらわれている。少なくとも、それは、グローバル・ヒストリーに無自覚に与みしたものたちだ。(そして、そういう人に限って、リベラルやデモクラティックであることを自認している)
エレベーター・リペア・サーヴィス
例として、ニューヨークから考えてみたい。ニューヨークは確かに圧倒的に、さまざまな民族や人種がマンハッタンとその周辺地域に密集する、世界の縮図を代表する場所とはいえる。しかし、そこで行われている演劇を表象する言葉は、あくまでニューヨークという特殊な地域の演劇であって、アメリカの演劇とはとてもいえない。数として、市場の規模として、演劇が上演されるマーケットとしては、世界有数の場所ではある。しかし、それは「世界」ではないし、むろん、「世界演劇」とは全く異なった場だ。
では、現在のニューヨークの演劇は、どのような中にあるのか。もちろん、それこそ世界中のどの場所でもおそらく同じだろうが、明確にある一つの傾向として現象を捉えることは難しい。それこそが、かつての「世界」の消失を意味しているといっていい。だが、たとえ大きな物語としての傾向は分かりづらくとも、いくつもの小さなポリティクスの流れが、アートの実践と結びつきながら、グローバリティへの抵抗として現れているのではないか。
仮説的に、ここでは二つほどの劇団を挙げてみる。
まず、一つ目はエレベーター・リペア・サーヴィスという劇団だ。いまもっとも重要、もしくは面白い劇団を三つほど挙げてほしいとニューヨークの演劇人に頼めば、おそらくこの劇団の名前は必ず入るはずだ。
代表作の一つといわれている『ギャッツ』という作品は、フィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』の小説を、文字通り、そのままに読み上げる形で上演したものだ。これまで何度も『グレート・ギャッツビー』は、映画化されてきた。昨年もレオナルド・ディカプリオ主演でされたばかりだ。だが、それらの映画も、通常は脚本化を経て上映されている。舞台化されるときも同様だろう。物語は同じでも、脚本化されて、登場人物たちの台詞とシーンは構成されて、地の文としての叙述や描写は、映像や演技といった行為の時間に変換される。
だが、この作品は違う。『ギャッツビー』が、一人称の小説として描かれているように、主人公であるキャラウェイが、本を片手に、地の文と自身の話した言葉を台詞として、そのまま読んでいく。むろん、リーディング公演とも違う。あくまで主人公が、読み、演じて、そして別の登場人物の台詞は、別の役者が現れて話す。ときにキャラウェイは入れ替わって、他の役者が演じる/読むが、そこには一人称で描かれた、ある一人の主観的な世界の小説を上演するという、明確な目的がある。実際、戯曲化せずに、ただそのままに読み上げて舞台の機軸が作られることは、観客もキャラウェイと同じ視野から展開される光景を見ているかのような印象を受けるのではないか。
また、演技をしながらキャラウェイは読むのだが、読むという行為があくまで介在する以上、いわゆる演技そのものだけが前面に現れない。少なくとも、感情を表すことが、舞台を形作る上での、演技の第一の目的におかれていない。ときにより演技的に振る舞うシーンもあるが、地の文まで含めて読むという行為が合間に挿入されて、演技に観客が見入るという行為から引き離す。それは、その時点で異化を否が応でも伴っているのだ。
それは舞台の背景にも関係する。『ギャッツビー』の上演をイメージするならば、通常は場面転換があり、ニューヨーク郊外の富豪たちの大邸宅のシーンも必要となるだろう。しかし、基本的に場面転換はない。それは、どこかのうらぶれたオフィスの一室のような場所でずっと行われる。本を一冊読み、演技もある以上、上演時間は6時間をゆうに越えている。
この他にも、そのまま本を一冊読むという形態ではないが、ウィリアム・フォークナーやヘミングウェイなどの作品の上演も、このカンパニーはしている。そのような作品の作られ方は、9・11以後という問題とも関連するのではないか。それは、ドキュメンタリー・シアターというものの形態が、変わってきていることを示している。
今回の作品のように、書かれたことをそのまま読むというのは、ドキュメンタリー・シアターと同義的、もしくは類義的な意味として使われる「ヴァーベィタム・シアター」(Verbatim Theater)という言葉の方が用いられたりする。
ドキュメンタリー映画などでしばしば論議されたであろうことだが、カメラがその場に入り撮影している以上、ありのままの事実としてのドキュメントにはならないということがある。編集作業もある以上、そのままということはありえない。シアターの場合もしかりだ。取材をして事実を描くとしても、それもまた構成されている以上、いわゆるありのままの事実なるものではありえない。むろん、そこで使われるドキュメントという用法は、表象に覆われた/隠された事実を告発、もしくはさらけ出すということで使われている。
ヴァーベィタムとは、逐語的というような意味だが、文字通りより忠実に素材そのままを挙げようとするような試みである。この作品に当てはめるならば、テキストそのものを上演する試みは、まさにそれだろう。ただし、それはときに逐語的になぞるだけでなく、逐語的であるからこそ、ある事柄の表象を解体する作用をもつ。
実際、パブリック・シアターで上演された『アーギュエンド』という作品もまた、ヴァーベィタム・シアターといえる作品だ。一九九一年に実際に、アメリカの最高裁判所で争われた、法廷の論議がベースになっている。法律用語であるタイトル(Arguendo)という言葉は、「議論上の」とか「議論の目的」などという事実をベースに仮定された議論という意味なのだが、その言葉が端的に示すように作品の表れは、ドキュメントではあるが、そこからは演出自体も離れている。いわば、思わずイメージしてしまうような、リアリスティックな演出とはかけ離れている。
内容は、パブリック・スペースである劇場やバーなどの公衆の面前で、ヌードになった女性のダンサーの主張を巡るものだ。ストリップと言ってしまえばそれまでだが、そこに何らかのメッセージ性が込められていた場合はどうなるのか。もしくは芸術と主張すればどうなるのか。当時二〇代前半であった女性が、それを主張して、最高裁まで争ったのだ。それは「表現の自由」という問題である。だから、インディアナ州法にある公衆の面前でヌードになることを禁止するということと、アメリカ憲法にある「言論の自由」という問題にまで発展して、最高裁で争われた。それは、たしかに普段目にしてしまう何気ない身近な問題が、実は圧倒的に大きな問題となって現れたことを示している。
ただし、それは思わず笑ってしまうようなやりとりに変わっている。実際、裁判所で検察官と弁護人のやりとりは、真面目な発言を繰り返す分、そこにはギャップがある。九〇分程度と上演時間は短いものの、一見したところシリアスさを感じさせることはない。実際に、劇場という公共空間でヌードになることは、どういうことなのか、という問いは、演出にも取り入れられて、シンボリスティックにあえて男性がヌードとなって現れる。それは、単なるリアルとしてのものがおかれるだけでなく、別の次元でのドキュメントの位相が表れている。
これらの作品と劇団のポジションを、どのように見るべきか。それは、9・11以後により強く表れたアメリカのアイデンティティを、アメリカ的なるものを代表する文学、もしくは象徴的な出来事を選び上演することで、問い直す、もしくは解体する試みの一つといえるのではないか。彼らの活動自体はそれ以前から始まっていたとしても、実際に頭角を現したのは、9・11以後といっていいし、一つ一つの作品だけを単発で見れば、直截的にそれらを問うているとはいえないかもしれない。しかし、その軌跡は、ニューヨークという局所的な、もっともリベラルな場所からの問いとして、9・11以後にいやでも再認識させられた、アメリカのナショナリズムとはなにか、もしくは彼らのナショナル・アイデンティティとはなんであるのかを内側から見ている。少なくとも、グローバリゼーションの過渡期をいきる国家への問いを描く試みといっていい。
ネイチャー・シアター・オブ・オクラホマ
確かに2000年代のドキュメンタリー・シアターの代表作としては、モーゼス・カウフマンの『ララミー・プロジェクト』など、日本でも燐光群によって上演されて、紹介された例はある。だが、先に述べたよりヴァーベィタム・シアターのように、新たな傾向として成り立っているものもあれば、もはや変種となったものまである。たとえば、日本でも上演されたネイチャー・シアター・オブ・オクラホマの『ライフ・アンド・タイムス』は、エピソード1〜5まであり、エピソード1は日本でもSPACの「せかい演劇祭」で上演されたことがある。
だが、この作品はエピソード2、エピソード3&4、エピソード4.5、そしてエピソード5で完結する。その作品が、エピソード1からエピソード5まで、フィラデルフィアの演劇祭で一挙に上演された。
内容は劇団員の女性の自叙伝、電話口で演出家に話した彼女の生い立ちからある時期までを、モノローグで構成したものだ。ただし、それは、さまざまな演出的な方法という、かっこつきの「実験」という要素がからまり、一見したところ、ドキュメンタリー・シアターとは全く言えないものになっている。
実際、エピソード1だけでも三時間以上ある作品だが、エピソード2、エピソード3&4、エピソード4.5、そしてエピソード5と、合計の上演時間は一〇時間以上を要した。その作品の現れは、一人のモノローグを、複数人が話をしたり、ミュージカル仕立てのようであったり、もしくはミュージカルを逸脱してエクササイズの動きが取り入れられたり、エピソード3に至ってはミステリー風で、エピソード4.5はアニメーション、そしてエピソード5は、観客が手渡された特殊な本を、劇場内で大音響のピアノ演奏を聴きながら指定された上演時間内で読むという、それぞれの演出の方法は、まったくばらばらと言っていい演出によって上演された。
それは、先に述べたように、ドキュメントが表象と事実の乖離している状況を、事実を突きつけることによって、相克するような効果を示すならば、この作品はむしろ真逆な方向として、ときにその距離をより離す。パフォーマーの動きや演出の方法は、実際の女性のモノローグの内容とはまったく違い、ドキュメンタリー・シアターなどがもつリアリスティックな要素からはほど遠い。また、その一つ一つの絡まり合った要素、それ自体をまるでパロディのように問い直してもいる。たとえば、ミュージカル仕立てではあるが、それは明らかにオン・ブロードウェイ・ミュージカルの新しい可能性の探求ともいえるが、パロディでもある。また、エピソード1ではオーケストラボックスからの指示によって、その都度パフォーマーのエクササイズ的な動きは瞬時に変えられるのだが、それは、言ってみれば、マース・カニングハムのチャンス・オペレーションのパロディのだろう。
それは、声高に新たなる「実験」を叫ぶものではない。しかし、その面白さに包まれた舞台の表象をめくると、少なくとも舞台を統御している、ある視点なるもの—それはあらゆる演出的方法を入れることや、語り手を複数的にすることによって—を解体する効果をもっている。
女性のモノローグの内容である、ある地点までのライフ・ヒストリーは、どこにでもある話を冗長に語っているだけにしろ、事実で構成されていることは確かだ。それを、忠実に舞台に挙げているということでは、ドキュメント、もしくはヴァーベィタム・シアターというものを提示してはいるのだ。ただし、これだけ舞台の表れが乖離していると、それはさすがにそのまま逐語的な演劇とは呼びづらい。少なくとも、先に述べたエレベーター・リペア・サーヴィスが示した方向性とは違う。いわば変種や亜種となっているが、それは大きな「実験」的な演劇が過ぎ去った後に残る、実験性とはなにかということを考えさせる。
そして、その取るに足らない話の結末は、エピソード5まで行っても、彼女がヴァージンを失って、妊娠してしまうまでであって、それはよくある、ありふれたメロドラマ的な話の一つをこえるものではない。しかし、逆に言えば平均的な女性の個人史ともいえるのだ。それが複数的になぞられて解体されるような要素をもつということは、大きなアメリカなるものが問われていなくとも、ある表象としての一部分、アメリカのライフ・ヒストリーへの幻想は問われているといっていい。
少なくとも、形式としてはドキュメンタリー・シアターの本質を、逆説的に見ながら、実験的な要素が盛り込まれているのだ。もし、この作品が同じような演出方法で演出されて、同一のパフォーマーによって演じられたなら、作品自体、本当に他愛ないものとなっていただろう。
また、作品の上演時間は、作品の外側の時間とも接点を持った。午後から始まった上演は、それぞれのエピソードが終わるたび、バーベキュータイムやデザートタイム、ティータイムとして、食べ物や飲み物が提供された。むろん、その劇場の外側の時間が示したことも、一見すると楽しい時間というだけではある。しかし、それは時間が流れていく感覚を観客に与えるように、作品の外部の時間も借りている。実際、エピソード4.5だけだが、アニメーションなので、タイムズスクエアの巨大なディスプレイでも上映された。その外部との接合性は、やはりこの作品も無数にある小さなポリティクスへと敏感に接続しているとは言えるのではないか。
むろん、批判もある。そこにより政治的な問題がないということもできるからだ。学校の話であれ、ありふれた話であれ、いじめやセクシャル・マイノリティなど、ある年齢まで生きていれば、どこか接点はあったのではないか、ということだ。ただ、ある個人のヒストリーの幻想性を問うことは、表だって直截的に言及するわけでないにしろ、広くアメリカとはなにかが問われているといえる。圧倒的に楽しめる作品に、政治性や実験的な要素が潜むのは、ポピュラー・カルチャーが強いニューヨークならではかもしれない。
いずれにしろ、大文字の「世界」は、小さなポリティクスの群れによって、解体され、問われている。
【筆者略歴】
高橋宏幸(たかはし・ひろゆき)
1978年岐阜県生まれ。演劇批評。桐朋学園芸術短期大学・日本女子大学非常勤講師。「図書新聞」「テアトロ」などで連載。評論に「プレ・アンダーグラウンド演劇と60年安保」(『批評研究 vol1』)、「原爆演劇と原発演劇」(『述5』)、「マイノリティの歪な位置—つかこうへい」(『文藝別冊』)など多数。2012年Asian Cultural Council(ACC)の助成をうけ、ニューヨーク大学客員研究員。