「かもめ・・・プレイ」(エンリケ・ディアス演出)

◎作品と現実との距離を融解 『かもめ』を逸脱、ときに深く読み込む
 高橋宏幸(演劇批評)

 チェーホフの『かもめ』が、『ハムレット』を下敷きにして作られていることはよく言われている。『ハムレット』の台詞が引用される行などは直截的で目につくが、他にも母アルカージナとその息子トレープレフが親子の愛情と苛立ちを爆発させるさまは、ハムレットとガートルードの関係を引き移しているといえるし、母を奪い取って王となったクローディアスは、同じように母の愛人である作家トリゴーリンの位置と重なる。もちろん、人物の対比関係を挙げれば他にもまだまだ共通点はある。また、構造として『かもめ』も『ハムレット』のように、劇中劇として舞台の上演が挿入されて、演劇そのものの形式を問題にする。それはメタシアターとして、作品および演劇という形式性を自己言及する視点を、あらかじめ作品に組み込んだ機能を有しているといえるだろう。

 今回、ブラジルから来日した演出家エンリケ・ディアスの舞台『かもめ・・・プレイ』は、『かもめ』を上演しようとする7人の俳優たちの稽古場の風景を「プレイ」、「遊び」として作品を構成する。『かもめ』というメタシアター的な作品に、さらにそれを上演しようとする人たちの風景を描くことで、メタレベルを一段引き上げて作品を外から見る視点を確保している。ただし、この方法と作品が生み出した帰結は、単純なメタシアターの括りに還元することはできない。

 舞台の始まりは、白い床と七脚の並んだ椅子のみのシンプルなものだ。そして今回の野外劇場で上演されることによって、それこそ『かもめ』の劇中劇の舞台を観客に想起させる。原作を知らなくとも、交わす台詞のなかに、劇中劇の舞台が実際の湖と地平線が視界に開けるように設えられた開放感のあるものということが話される。そして『かもめ』というメタシアターの、さらに作品を他者化する視点として、冒頭にこの作品の謎ともいえる問題点から主人公のトレープレフが最後に死ぬことまでが、うっかりと話されてしまう。その笑いのなかで話された『かもめ』の結末は、もはや物語を追って作品を見ることができないことを観客に知らせる。

 もちろん、『かもめ』の最後を冒頭に話してしまったからといって、底流に流れているのは演劇の不可能性や物語そのものの終焉を声高に叫ぶような現象ではない。また、ジャンル論として、演劇というマイノリティのメディアが、さらに縮小して消えさろうとしているといったシニカルなものでもない。それは終わりから始まるしかないとか、終焉を巡る磁場とでもいえるような場所を斜めから見る。ここには、あくまで『かもめ』を遊ぼうとすることが、シニカルに陥らず、ましてやシニカルを否定することを担保に作品を作るといったようなことを軽やかにかわしている。

 たとえば、この舞台の基調となる『かもめ』を上演しようとする稽古場では、それこそ『かもめ』で遊んでいる姿が綴られている。いわゆる俳優が、リアリズム的に稽古場の役者たちを演じることはない。白い床にこぼした液体を湖に見立てて、指で二人が歩く姿を表現しながら愛を語ろうとするトレープレフとニーナ、劇中劇としてトレープレフが20万年後の世界を新形式の舞台として上演しようとしている最中に出てくる宇宙飛行士のヘルメット、孤独の象徴として実際にラジコンヘリコプターを飛ばしてみること、殺したかもめに見立てられたカリフラワー、拳銃の代わりのヘアドライヤーなど、全てを挙げることはできないが、様々なものが物語の流れのなかで舞台の上に並んでいく。その痕跡の構図は、まるで一枚の白いカンバスに画を描いていくかのように配置される。

 そして、『かもめ』の物語に沿って稽古場の進行は展開されるにもかかわらず、稽古で『かもめ』を上演しているときと稽古場での会話は、徐々に浸食しあって入れ込まれた原作との明確な境界は消失する。その『かもめ』という作品の枠に揺さぶりをかける振幅は、筋は同じであっても話される台詞と行為が、ときにエスカレートして『かもめ』を完全に逸脱して、ときにさらに『かもめ』を深く読み込む。『かもめ』で演劇論について言及される箇所は、いまであればどのような演劇論として語るのが相応しいかという文脈の延長線上に話される。また、トレープレフが上演した新形式の舞台の台詞が何度も要所要所で反復されることによって、この劇中劇こそが作品そのものを批評的に包み込むような役割を果たす。それは確かに原作を解体して、再構築する。

 その意味でもこの作品は、日本の小劇場で80年代に流行した入れ子構造を多用したメタシアター的な手法の作品とは、はるかに離れた位置にある。80年代の小劇場も構造への技法に着目したものの、批評性と現実という外部にどこまで揺さぶりをかけることが可能であったのかは疑問だ。それは今から見れば日本の80年代の喧噪と狂騒のなかで、かき消された作品へのメタ言語を獲得しない、単なる入れ子構造の舞台で終わってしまった観がある。もはや現代の古典ともいえるエイベルの『メタシアター』は、作品そのものを自己言及する意識の発生を捉えて、メタシアターと名付けたといっていい。しかし、それもまたどれほど自己言及的であれ、作品という形式の確固たる軸がまだあった、といえるのではないか。

 そして、この『かもめ・・・プレイ』の場合、『かもめ』を批評的に読むことによって、原作との境界はもちろん、作品自体を見ている観客の認識の境界も浸食する。それは、先に挙げた、この作品が『かもめ』から逸脱していく部分にある。

 概して物語は観客に没入を要求する。それは特にこのチェーホフの『かもめ』という括弧つきだが「リアリズム」の戯曲は、そのような作品と受け取られている。しかし、この『かもめ・・・プレイ』の遊ばれ方は、物語に還元されることを拒む。数々の「もの」が、稽古場の風景という物語に観客が投げ込まれることから、一線を画そうとするからだ。

 どれだけヘアドライヤーの拳銃をもって、ヘルメットをかぶってトレープレフが自殺をするシーンを繰り返したところで、見ているものは感情移入することは難しい。むしろ、感情移入を拒む要素としてある。だが、逆にその「もの」は舞台の枠をこえて、現実的な「もの」を露呈する効果を与えている。そこでメタシアターとしての構造を越えて、作品という枠自体を振り払った現実を観客に与えているのだ。いわば、なんらかの表象としてある「もの」を認識するフレームは、この「遊び」方によって異化を求められる。

 ラストシーンのトレープレフの自殺のシーンを示すのは、白い床の中央にトマトを置いて、それを踏み潰して、赤い汁が四方に流れるからだ。彼が亡くなった凄惨さと感傷が混じり合うはずだった空間は、しかし、観客を現実の枠に即座に引き戻す。それはいままでの「遊び」の一環と同じように、物語のなかで、どれほど意味が付けられようと、やはりトマトに変わりはない。物語によって付けられた意味性は、やはり現実の「もの」としての姿を現す。

 そこにおいてメタシアターの意識性、自己言及をする視点は、現実との視差となって確固たる作品の位置を壊す。いわば、『かもめ』のなかに劇中劇があり、さらに『かもめ』自体を上演しようとする稽古場というメタレベルの言語が、幾重にも重ねられたメタシアターという殻から抜け出て、作品と現実との距離を融解させるのである。

 ここにおいて、「リアリズム」という覆い隠された表象に亀裂を入れるものとしての、本来の意味が現れる瞬間がある。それはもし、いまがなんらかの危機的な状況にあるとしたならば、現実を露呈させる装置が作動しているといえるのではないだろうか。
(初出:「マガジン・ワンダーランド」第101号、2008年8月20日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
 高橋宏幸(たかはし・ひろゆき)
 1978年岐阜県生まれ。演劇批評。近・現代演劇研究。『シアターアーツ』編集代表。近畿大学国際人文科学研究所研究員。『図書新聞』『シアターアーツ』などで演劇批評を連載。
・wonderland 掲載劇評一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/takahashi-hiroyuki/

【上演記録】
かもめ…プレイ」(ブラジル)
静岡県舞台芸術公園 野外劇場「有度」(2008年6月7日-8日)
http://www.spac.or.jp/08_spring/seagull.html

原作 アントン・チェーホフ
演出 エンリケ・ディアス(ブラジル)
出演 エンリケ・ディアス、エミリオ・デ・メロ、アレッサンドラ・ネグリーニ、フェリッペ・ロッシャ、ロレーナ・ダ・シルヴァ、イザベル・テイシェイラ、ティエリー・トレムルー

舞台監督:マルコス・レスケーベス
照明:レアンドロ・バレット
音響:リカルド・ドス・サントス
ツアー制作:エンリケ・マリアーノ
舞台美術:アフォンソ・トステス
照明デザイン:マネコ・クィンデレ
衣裳デザイン:セロ・シルヴァ
音楽:ルーカス・マルシエ、ロドリゴ・マルシャル(Arp.X Studio)
所作指導:クリスティーナ・モウラ
字幕作成:堤裕策
通訳:白鳥吉夫 横山マルコス
企画:エミリオ・デ・メロ、エンリケ・ディアス、マリアナ・リマ
制作:エミリオ・デ・メロ、エンリケ・ディアス
プロモーション:メイド・イン・プロダクション(サンドリーヌ・ブシュタル)
共同制作:タン・ディマージュ2007 マルヌ=ラ=ヴァレ国立舞台「フェルム・デュ・ビュイッソン」
制作会社:セントロ・デ・エンプレーンディメントス・アルティスティコス・バルカ
制作支援:コレイオス、エレトロブラス、フナルテ/ペトロブラス
主催:SPAC

チケット 一般\4000、同伴\7000、大学生・専門学校生\2000、高校生以下\1000
劇場前広場でブラジル料理の屋台出店。

アフタートーク 6月8日終演後 エンリケ・ディアス(演出家)、岡田利規(演劇作家・作家、チェルフィッチュ主宰)、宮城聰(SPAC芸術総監督)


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