Asia meets Asia「Unbearable Dreams 8 Somewhere」

◎アジアという「もの」
 高橋宏幸

チラシ アジア・ミーツ・アジア(Asia Meets Asia)という、アジアとアジアが出会うとは何か、という問いを、舞台を通して行っている団体がある。1997年に始まって以来、それは継続的に、アジアのさまざまな地域の、そのなかでもとくにインディペンデントで、体制に迎合せず、ポリティカルなイシューを作品に取り混んでいる、といくつも言葉を足すことができる集団の作品を招聘して、フェスティバルを開催していた。
 もしくは、それらの劇団のパフォーマーたちを集めて、コラボレーション作品を作っている。そして、いくつかのアジアの地域を、その作品でツアーする。ただ、ここ最近は、かつてに比べれば規模自体は小さくなり、日本の演劇ギョーカイのなかで見てしまえば、マイナーな流れとなっている。

 だが、その試みは圧倒的に重要な位置を占めている。アジアという地域のなかで活動すること、作品という形態にすること、そしてその根底に、なぜそのようなことをするのか、という行動に伴う思想とでもいうべきものがあるからだ。

 かつての日本の演劇においても、作家や集団が作品を作り、それとともに移動して公演をすることは、当たり前だが、その動機を支える思想に裏付けられたものだった。移動とは運動と同義だったのだ。海外で作品を上演すること、もしくは海外からの作品を招聘することは、たんに海外で公演してみたい、もしくは予算がおりたから招聘することとは違う。アジア・ミーツ・アジアが、いわゆる作品を招聘するフェスティバルから、コラボレーション作品をつくり、それをもってアジアの地域をツアーして活動をするようになったのも、いわゆる「フェスティバル」との差を提示している。

 実際、アジア・ミーツ・アジアの公演を観るたびに、否が応でもいくつものことを考えさせられる。

 たとえば、「アジア」とはなにか。
 「アジア」なるものは、西洋からの視点、オリエンタリズムによってあらわれたものだ。だから、「アジア」というものを考えるとき、それはあると同時にない。実体的につかもうとすると、民族的にも、地理的にも、概念的にも、その定義は曖昧さのなかにあって、決定不能なものへと変化していく。かといって、それはない、と片づけてしまうこともできない。西洋からの視点は、同時にアジアから西洋へと向けられた視点、オクシデンタリズムも作ったからだ。それは相互で補完的な関係を結んでいる。

 そして、いったん向けられたアジアへの視線は、アジアのなかにおいても、複数の、ときに引き裂かれた他者として、互いの存在を認識させた。歴史的に見てしまえば、アジアという言葉は、ときには批判のための有効なツールとして、西洋を異化させる。しかし、内側に目を向ければ、二重の構造を抱えた。歴史的には、アジアの連帯が叫ばれるときは、近代化の中では西洋列強からの植民地の解放を外に向けては謳ったが、内側に向けては、差別と暴力をふるう。

 経済的な下部構造をベースに、一時的に地勢図は変わりを見せても、西洋があるから、今もってアジアが見いだされるという構造は、1990年代のポストコロニアルやオリエンタリズムという理論の普及以後も変わっていない。いや、グローバリズムが反面で生み出したローカリティは、ナショナリズムに吸収される形でより明確に陰鬱な状況を伴って現れている。ヘゲモニー闘争の舞台の中心は、近代以前の東アジアの大国と周辺という図式に変わり、その秩序と安定は、現代ならばアメリカという帝国を通して保たれる。その意味では、やはり「アジア」なるもののイメージは、アジア内において作られるのではなく、グローバリティの中心にいる場所、現在ならばアメリカによって、生み出されている。

 今回、上演された『Unbearable Dreams8 Somewhere』という作品も、そのような概念、内なるアジアの二重性や、進行するアジアの事態といった問題が描かれていると同時に、半面で観る側からのイメージの暴力として、舞台の表象から、それらを強く読み取ろうとしていることに気づかされる。
 舞台の現れは、そのようなどちらか一方からの、一面的な見方をかわす。パフォーマーたちを地域でみると、釜山、上海、香港、インドのバンガロール、フィリピンのバギオなど、そして日本在住者を集めて構成される。彼ら自身も共同で演出をして構成しているのだが、中心的な演出の役割は、劇団DA・Mを主宰し、アジア・ミーツ・アジアの代表でもある大橋宏だ。

 これだけの地域から人を集めて舞台を作ると、一言でアジアという多様性の豊潤さ、などと言ってしまいそうになるが、舞台は必ずしもそうならない。むしろ、舞台の現れとしては、アジアという括りのなかで、その差異とはなにかを考えるための同質性も現れる。「アジア」という視点でこの舞台を観た場合、想像する分かりやすいアジアのフレームは消えていく。
 当たり前だが、国籍の差は見たところで分からない。肌の色や骨格、雰囲気、たたずまい、身体の身振りの差は、分かる人は分かるが、そこから見えてくるものは、微妙な差異だ。それは、むしろアジアという幻影をこちらが投影しているからこそ、想像してしまうものだ。ダンサーでもあるパフォーマーなどの動きの差は、地域の差に還元できるものではなく、ダンスの技能をもつ身体性の差だ。

 実際、この舞台で行われることは至ってシンプルな行為の集積であり、物語はない。中心にあるのは、舞台に置かれた数々の石たちを媒介に、たくさんのパフォーマーがそれに接触するなかで生まれる、石から人へ、人から人へとつながっていく結節点を描くものだ。しかも、なかば即興的な要素を含んでいる分、細部は毎回変わって作られる。

 プロト・シアターの無機質な空間で、主に蛍光灯で照らされた、なにも組まれていないコンクリートがさらけ出された舞台。パフォーマーたちが、無数の置かれた石を移動させたり、置いたり、さまざまな行為を繰り返す。たとえば、石を差し出す、拾う、掲げる、運ぶ、転がす、遊ぶ、投げる、跳ねる、などなど。もしくは、引っ張ったり、石そのものの物質性を見せたり、石を持つことで身体にかかる負荷を示したりする。多くのパフォーマーたちが、それらのシンプルな動作やしぐさを、ただただ繰り返す。
 たしかに多言語であるがゆえに、名前を呼んだり、会話が行われたり、いくつもの言語が現れるときもあるが、それもシンプルなものだ。多言語性といっても、言葉の意味というよりも、まるで記号の物質性のように映り、石と同じように無機的なものとなる。だから、行為もまた意味ではなく動作として映され、言葉もときに音となる。

【写真は「Unbearable Dreams 8 Somewhere」公演から。撮影=中村和夫 提供=アジア・ミーツ・アジア 禁無断転載】
【写真は「Unbearable Dreams 8 Somewhere」公演から。撮影=中村和夫 提供=アジア・ミーツ・アジア 禁無断転載】

 むろん、数々のシーンは印象的に作られて、それは観客に自由に読み解かせるメタファーともなる。パフォーマーたちが集団にかたまり、一群の群れとなって、たゆたうように歩くシーンがある。前にいたものがいつのまにか移動して後ろへと交代して、前面から中へと入ったりする。それは、確かにアジアという集団性がそこにあるように感じる。石に向かってつばを吐くシーンなども、アジアの内側にある暴力性を感じさせる。その意味で、ほかにも数多あるシーンは、いくつものイメージを与える。

【写真は「Unbearable Dreams 8 Somewhere」公演から。撮影=中村和夫 提供=アジア・ミーツ・アジア 禁無断転載】

 かつて、二〇〇五年に観た『Unbearable Dream』の別のバージョンにおけるワークショップかと思うような即興作品に比べたら、はるかに精緻に作られて、作品として成立している。
 だが、この作品の重要さとは、あらゆるイメージを半面で作りながら、半面で壊しているところにある。それぞれの観客がもつ、アジアなるものの一面的なイメージは、絶えず想像させられるが、それのみでまとめられることを拒絶する。

 それこそが、アジアはあるが、同時にないということである。いわば、アジアとは「もの」として求められるものであり、決して満たされるものではない。それは、イメージとして確かになにかを剰余として喚起させる。だが、そのような過剰なイメージそのものが、同時に批判されるべきものでもある。石につばを吐き、言葉として何を言っているのか分からないが罵るようなシーンに、なぜ「アジア」なるものが孕んだ暴力を人は思うのか。「アジア」という言葉のバイアスは、そこに必要異常のものをイメージさせるが、実際のパフォーマンスとしては、そこに単なる行為しかないのだ。いわば、その両義的な批判性を成立させているのが、この舞台なのだ。

 だから、実際的に各地域のパフォーマーたちの、身体という「もの」を提示して、「アジア」は、あると同時にないと語っているのだ。いわば、「もの」である、と。むろん、それは現在の過剰なまでに、ナショナリスティックにアジアを見る状況に対しては、批判性をもっている。
 アジア・ミーツ・アジアという企画自体が、十年を超えた歴史の中で変遷しているのだろう。アジアを発見する、もしくは啓蒙する時代を過ぎて、いまや過剰なるイメージをも批判する、「もの」としてのアジア。これは、自由に使われてしまった「アジア」という言葉を奪還し、そして現在の状況に対する批評的な舞台だ。

【筆者略歴】
高橋宏幸(たかはし・ひろゆき)
 1978年岐阜県生まれ。演劇批評。桐朋学園芸術短期大学・日本女子大学非常勤講師。「図書新聞」、「テアトロ」、「日経新聞」などで連載。評論に「プレ・アンダーグラウンド演劇と60年安保」(『批評研究 vol1』)、「原爆演劇と原発演劇」(『述5』)、「マイノリティの歪な位置—つかこうへい」(『文藝別冊』)など多数。2013年度は、Asian Cultural Council(ACC)の助成をうけ、ニューヨーク大学客員研究員。
ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/takahashi-hiroyuki/

【上演記録】
Asia meets Asia「Unbearable Dreams8 Somewher
2014年9月4日‐13日(プロト・シアター)

出演
湯時康Tom Sze Hong、朱秀文Chu Sau Man、莫穎詩Vinci Mok、吴梦Wu Meng、于玲娜Yu Ling Na、Hwang, Ji Sun、Baek, Dea-Hyeon、Angelo Aurelio、Alec Asgari、中島彰宏Akihiro Nagajima、原田拓巳Takumi Harada、小椎尾久美子Kumiko Kojio、花崎攝SetsuHanasaki、

スタッフ
舞台構成・テキスト協力:美術 吉川聡一・山崎久美子・Zhao Chuan
舞台監督 :大澤竜太
照明:阿狩家
衣装協力 :シモムラカズコ
映像協力:IKUMI
宣伝美術:原田隆司/村上宏
記録写真:中村和夫
記録ヴィデオ :たきしまひろよし〔PLASTIC RAINS〕

助成:芸術文化振興基金 Japan Arts Council
共催 :プロト・シアター
主催・制作:特定非営利活動法人アジア・ミーツ・アジア
制作統括 大橋宏

チケット
当日:\3300
前売り:\3000
学生割引:\2000

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