◎差別を描くとはどういうことなのか
高橋宏幸
平田オリザの代表作の一つ、『ソウル市民』が5部作となって上演された。『ソウル市民』、『ソウル市民1919』、『ソウル市民 昭和望郷編』、『ソウル市民1939 恋愛二重奏』と4作目までが、30年以上にわたる日本が朝鮮を統治した時代を10年ごとに描いている。5作目は、タイトルが『サンパウロ市民』とあるように、戦時期を背景に、サンパウロへと移民した日系人の一家を舞台にしている。
場所や時代は違っても、基本的にすべての作品に共通するのは、ある日本の一家の何気ない日常生活のなかに潜む、差別意識を浮かび上がらせることである。それが4作目までは朝鮮人であり、5作目は先住民への差別意識となる。
【写真は、「ソウル市民 昭和望郷編」(上)「サンパウロ市民」(下) の舞台から。
撮影=青木司 提供=青年団 禁無断転載】
その一家は商店を経営していて、一見すると進歩主義的、自由主義的な気風を持つ、おそらくアッパーミドルクラスぐらいに属する市民だ。だから、一族のほかに書生や女中、そこに出入りするさまざまな人たちが居間を行き交い、何気ない会話をしていく。そのなかで、当時の状況や、彼ら市民層の意識のもちようが、ほのかに浮かび上がってくる。彼らの善意として話す言葉のなかにも、明らかな朝鮮人への差別意識が垣間見えるのだ。
わかりやすいところでは、たとえば1作目の『ソウル市民』では、朝鮮人や朝鮮語で文学はできるのか、という会話のやりとりで、リベラルな立場での善意としての発言に「朝鮮人だって、立派に文学はできるはずなのよね」という台詞がある。『ソウル市民1919』では、五四運動の頃を背景に、民族自決の概念から「朝鮮人は朝鮮のことを朝鮮人で決めるってことですか」「でも、それ、できないから一緒になったんじゃないですか」という台詞がある。他の作品でも、そのような他者性を欠如した差別的な発言が、何気なく語る会話のなかに入れ込まれる。
差別意識が、内面化され常態化した姿となって、より醜さを伴って観客の前には現れるのだ。
だが、それだけならば、これ以上、評を書く必要はない。この作品が、狭義の日本現代演劇史において重要な位置を占めるのは、先行世代とは違う形で内なる差別というものを描くことを試みたからだ。ただ、平田の演劇の方法論とそこから導き出された作品は、特にアングラ世代の差別に対する描き方とは、まったく違ったものとなった。だからこそ、それは彼らにとって受け入れがたいものとなったのではないか。
たとえば、戯曲というレベルにおいて。
『ソウル市民』では、差別を物語の中に解消するのではなく、情景として描写する。それは、平田が提唱した「現代口語演劇」という方法の一端であり、方法論自体が持つ、形式化の作業といっていい。確かに、かつて「現代口語演劇」という理論化は、普遍的な演劇論と見せつつ、最終的にはあくまで私の演劇論へと回収することによって、毀誉褒貶と論争を生み出す磁場となった。しかし、それは今から見れば、果たしてどれだけ生産的な議論であったかは疑わしい。
アングラ演劇の差別に対する描き方である、虐げられた下層のものが上層へと昇華するスペクタクル・ロマンとしての物語は、物語そのものが物語のために差別を欲してしまうというパラドキシカルな構造をもっている。実際、彼ら自身が、河原乞食として振る舞ったことは、自分たちがマイノリティになることであって、実際のマイノリティもある程度包摂していたとはいえ、その描き方は、あくまで、ある時代の、ある一地点に留まるべきものではなかったのではないか。
それに対して、平田がとった、日常会話に悪意としてではなく、善意として潜む差別意識をあぶりだし、いわゆるコロニアルの日常的な風景の醜悪さを描くことは、物語に回収されない、差別の描写として機能している。少なくとも、そこには、抒情や惰性的な物語へと還元されないために、戯曲でなにを描写するべきかという意識的な視点がある。それらを考えても、かつての現代口語演劇をめぐる批判は、あくまで表面的な議論に終始してしまったのではないか。
実際、日本現代演劇史という括りでは、アングラの存在とその遺産があまりにも強すぎたために、つかこうへいなどの在日演劇の評価が看過されて、歪な位置となっている。(詳しくは「マイノリティの歪な位置」別冊文藝『つかこうへい』所収を参照)。アングラから派生して80年代演劇の潮流の一つを築く在日の演劇も、同様にスペクタクル・ロマンの演劇をこえたとは言い難い。その意味で、平田の『ソウル市民』は、演劇史のなかでは、前者との差異を伴ったものとして現れた。だから、この作品を、その後90年代に本格的に日本でも流行する、ポストコロニアル理論に先行する作品に位置づけることもできるかもしれない。
しかし、それも在日などの運動史という問題の中で考えるならば、たとえ日本でのポストコロニアル理論の流行に先駆けていても、別に先行的に生まれたわけではない。一般的には、1970年代以後に在日外国人問題をはじめとした、マイノリティ闘争はすでに始まっている。いわゆる1970年の華青闘告発、80年代には指紋押捺拒否運動など、在日外国人問題は可視化された闘争へと姿を変えていく。また、韓国の軍事政権体制への批判的な状況報告と、80年代の民主化運動への支援も始まっている。
それ以前の60年代にも、フランツ・ファノンを経由して、在日問題へと目を向けた鈴木道彦(『越境の時』を参照)や、第三世界論はあり、ナショナリズムの闘争としてあった60年安保に対して、外部の視点を取り込もうとした福田善之の『遠くまで行くんだ』まで、かろうじてつなぐこともできる。
むしろ、その歴史が90年代に後から来た現代思想の流行である、ポストコロニアル理論に代わられることで――「ポスコロ」「カルスタ」と揶揄されるのも前史を忘却した成り立ちとも関係するかもしれないが――理論化を促されるのであって、その端境期に生まれた本作は、なにも取り立てて早いわけではない。いわば、その蓄積として結実したものだ。
そのように歴史的な文脈の中で、今回の上演をどう見るのか。
おぼろげな記憶だが、10数年ほど前にはじめて『ソウル市民』を観たときの衝撃は、間違いなく、戯曲だけではなく演技や演出においても、方法論を経た形式の演劇としてあった。たとえば、身振りの演技として、差別を描くときに、少なくとも俳優の内面から何気ない感情の演技のみを引き出そうとするのではなく、そこで行われる行為を表示するために、形式的ともいえる、時にぎこちなさが伴った演技性や演出の手法があった。確かにそれは静謐な緊張感あふれる空間を作りだし、差別的な言葉が否応もなく観客に響いた。
【写真は、「ソウル市民」公演から。 撮影=青木司 提供=青年団 禁無断転載】
それが、数年前の「ソウル市民」3部作上演では、2作目、3作目になればなるほど、徐々に形式の研ぎ澄まされた感覚で舞台を包んでいたことが薄れていき、単なる内面から家族の一風景を映しだそうとする、それこそ「新劇」のようなリアリズム演劇の作品へと還元されてしまっていたのではないか。
最初の作品から、後になればなるほど駄作となるのは、連作物の常ではある。しかし、作品にかつての形式性を求めなくなって、感情の内省を発露させることは、単なる抒情として差別の悲惨さを、それとなく訴えることに過ぎないのではないか。かつて平田が言っていたヒューマニズムへの批判も、その形式性があるから有効なのだし、『ソウル市民』の重要さは、差別というものの醜悪な姿を、情緒ではなく形式として指し示すことであって、物語へと単に傾斜しないことにあるはずだ。歴史の勉強の側面はどの作品にもあるが、後の作品になればなるほど、物語の度合いが増し、半ばホームドラマと化している。
新作の1つである『サンパウロ市民』では、ソウルから場所がブラジルへと変わっていても、内容はほぼ『ソウル市民』やその他の「ソウル市民」の一部をコラージュすることによって作られている。差別の構造はどの場所においても同一性を保つものとして、日系移民たちの差別をされる側が、する側でもあるという二重の構造を示そうとしたのだろう。だが、そこでもまた形式性は薄れており、構造を示すことができたのかは疑わしい。
差別を映し出すということ。それは、平田オリザが「現代口語演劇」で、「伝えたいものは何もない」といっていたことと関連する。だが、そこに踏みとどまってしまっていいのだろうか。「ポスコロ」としての『ソウル市民』は、かつての日本現代演劇史のなかでの意義はあっただろう。だが、さらに言うなら現象としての差別がいかに現れているのかを映すだけではなく、その構造へと足を踏み入れるべきだからこそ、差別を描くことはどういうことなのかが問われるのだ。
そこに留まるならば、差別はいけない、というPCとしての「ポスコロ」どまりだ。形式化とは、抒情や感情に流されるだけではない、差別の構造を映すために有効な手段だろう。そして、さらに付け加えるなら、その構造の問題まで照射することができる方法ではないのか。
少なくとも『ソウル市民』のもった衝撃とは、たとえ正当に評価されていなかったとしても、かつてはそこへと足を踏み入れるかもしれない可能性のなかにあったはずだ。
【筆者略歴】
高橋宏幸(たかはし・ひろゆき)
1978年岐阜県生まれ。演劇批評。日本近・現代演劇研究。日本女子大学、桐朋学園芸術短期大学非常勤講師。『図書新聞』や『テアトロ』で演劇批評を執筆。共著『Theater in Japan』(Theater der Zeit)、論文に「マイノリティの歪な位置」『つかこうへい』(文藝別冊)、「00年代の演劇空間」(『述4-文学10年代』)など。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/category/ta/takahashi-hiroyuki/
【上演記録】
青年団第64回公演「ソウル市民 五部作」
吉祥寺シアター(2011年10月29日-12月4日)
作・演出:平田オリザ
出演:
『ソウル市民』
山内健司、松田弘子、足立 誠、志賀廣太郎、天明留理子、木崎友紀子、兵藤公美、高橋 縁、大塚 洋、福士史麻、古屋隆太、田原礼子、村井まどか、山本雅幸、立蔵葉子、堀 夏子、石松太一、井上みなみ
『ソウル市民1919』
山内健司、松田弘子、根本江理子、天明留理子、秋山建一、木崎友紀子、島田曜蔵、高橋 縁、大塚 洋、能島瑞穂、田原礼子、山本雅幸、河村竜也、小林亮子、佐藤 誠、二反田幸平、村田牧子、鄭 亜美、森岡 望、由かほる
『ソウル市民昭和望郷編』
秋山建一、渡辺香奈、小林 智、福士史麻、工藤倫子、鈴木智香子、石橋亜希子、井上三奈子、大竹 直、河村竜也、後藤麻美、長野 海、二反田幸平、堀 夏子、山本裕子、森内美由紀、キム・ミンソ、木引優子、中村真生、折原アキラ、菊池佳南、菅原直樹、本田けい、水野 拓
『ソウル市民1939恋愛二重奏』
松田弘子、兵藤公美、高橋 縁、大塚 洋、能島瑞穂、古屋隆太、大竹 直、河村竜也、佐藤 誠、キム・ミンソ、海津 忠、木引優子、佐山和泉、鄭 亜美、中村真生、小瀧万梨子、富田真喜、ブライアリー・ロング
『サンパウロ市民』
山内健司、志賀廣太郎、たむらみずほ、天明留理子、小林 智、島田曜蔵、古屋隆太、鈴木智香子、石橋亜希子、井上三奈子、大竹 直、熊谷祐子、髙橋智子、村井まどか、山本雅幸、堀 夏子、村田牧子、齋藤晴香、石松太一、井上みなみ、ブライアリー・ロング
舞台美術:杉山 至
照明:岩城 保
音響:泉田雄太
衣裳:有賀千鶴、正金 彩
演出助手:谷 賢一 舞台監督:中西隆雄
宣伝美術:グリフ(工藤規雄+村上和子) 京(kyo.designworks)
宣伝写真:佐藤孝仁(Beam×10)
宣伝美術スタイリスト:山口友里
制作:青年団制作部
協力:(有)あるく (株)アレス 上里忠司(Location First) 再生工房 Look in Look
[企画制作]青年団/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
[主催]青年団/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
[提携](公財)武蔵野文化事業団
[後援]駐日韓国大使館 韓国文化院
[料金]
日時指定・全席自由席・整理番号付き
前売・予約:一般3,500円 学生・シニア2,500円 高校生以下1,500円
当日券 :一般4,000円 学生・シニア3,000円 高校生以下2,000円
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