◎身体に降り注ぐ言葉の雨
芦沢みどり
日暮里シアターアーツ/フェスティバル(2.12-3.21)参加作品の『作品No.7』を観て、再び舞台表現における<言葉と身体>について考えさせられた。再び、というのは5年前にこの集団の作品として初めて観た『ハムレットマシーン』によって、舞台表現の根幹である(と思われる)<言葉と身体>の問題を考えるうえで大いに刺戟を受けたからだ。それはハイナー・ミュラーの「ハムレットマシーン」を上演することの意味と正面から向き合った作品だったが、その中で佐々木敦という若い肥満体の俳優が、金属バットを振り回してテレビやテープデッキ、机を次々に叩き壊すシーンがあった。そのナマの破壊力はすさまじく、客席にいて背筋が寒くなるような怖さを覚えたものだが、同時に、彼の身体から発する負のエネルギーが、経済弱者へと追いやられた現代日本の若者層の鬱屈や怒りとダブって見えた。そして破壊シーンは痛ましくも共感できるものに変わっていた。セリフがない分、それは直接的だった。
見えるかい 亀が歩いてる
▽ジュリエット芝居-どんな上演だったか
キャストがすごっ!松たか子、宮沢りえ、橋爪功、大倉孝二、北村有起哉…と聞いただけで卒倒しそう。そこへもってきてダンス集団コンドルズまで加えてしまって、殿、な、なにをなさるおつもりか???と、クエスチョンマーク3ケ付き好奇心で出かけて行きました。もちろん劇場へ。
世田谷・シアタートラムで開かれた「友達」公演(2008年11月11日-24日)は、芝居好きの間で事前にかなり話題になりました。安部公房の代表的な戯曲を、チェルフィッチュ主宰の岡田利規が演出するうえ、小林十市、麿赤兒、若松武史、木野花、今井朋彦ら人気、実力、個性の際だった俳優が登場するからです。不条理劇と岡田演出と個性派俳優陣との組み合わせが注目されたのでしょう。その結果はどうだったのか、ワンダーランドの寄稿者3人が舞台をさまざまな角度から検証しました。(編集部)
谷崎潤一郎は『春琴抄』の冒頭を、<私>が大阪市下寺町にある春琴の墓を訪ねて行く場面で始めている。『鵙屋春琴伝』という架空の原テクストを設定した谷崎は、たまたま入手した小冊子の内容を紹介するという形でこのあと春琴と佐助の物語を展開させて行く。したがって冒頭部分は、墓参りをしている<私>(たぶん谷崎)が物語の作者ではなく解説者であることを読者に印象づけるためのプロローグなのである。さらにこの小冊子は春琴の弟子であり事実上の夫であった佐助が晩年に、そばに仕えた鴫沢てるに話して書き取らせたものであることまでほのめかしている。なぜ谷崎は物語を語るのにこのような複雑な構造にしたのか? それについて岩波文庫版『春琴抄』の解説者である佐伯彰一は、「谷崎流の語りの戦略」だと言っている。一人語りでは当然、語られる知識の内容が限定せざるを得ない。これはその視野の狭さを解消して語りにさまざまな声を取り込むための仕掛けなのだという。つまり作者、解説者、物語の語り手という複数の声を投入して一人語りを多彩なものにする装置というわけだ。
劇団サーカス劇場・・・どこか郷愁を感じさせる蠱惑的な名前に惹かれて、雨の夕方、下高井戸の「不思議地底窟 青の奇蹟」へ出かけて行った。「隕石」は2001年に東京大学のキャンパスで旗揚げされたグループの14回目の公演だが、筆者はこれが初遭遇。