劇団サーカス劇場「カラス」

◎抒情から喜劇へ 新生サーカス劇場の挑戦
芦沢みどり(戯曲翻訳家)

「カラス」公演チラシ見えるかい 亀が歩いてる
時間という名の亀が
少女を惑わすウサギより速く
アキレスの眼にもとまらぬほどに
三〇世紀 東京は森
見てごらん 鉄の木立の上に 一千万のカラスがとまる

これは幕開きと第二幕の途中で歌われる劇中歌だ。この歌詞が劇のすべてを物語っているとは言わないけれど、内容を暗示すると同時に観客を劇世界へ誘い込む呪文のような言葉であることは間違いない。亀が眼にもとまらぬ速さで歩くという撞着したイメージは、人に眩暈を起こさせる。でもそれは時間という亀なのだから、虚構の中では古代だろうと未来だろうと、ひとっ飛びに行ってしまうだろう。歩みののろい亀さんが、アキレスの目の前を通り過ぎて三十世紀の東京へ。気が遠くなるほど膨大な時間はまた、一瞬でもある。多いは少ないで、少ないは多い。あるいは、速いは遅いで、遅いは速い?さあ、お芝居の始まり、始まりいっ!

サーカス劇場の舞台を観るのはこれで三度目になる。唐十郎の圧倒的な影響を受けたという清末浩平が作・演出・出演し、森澤友一朗がプロデュースして出演する二人だけの劇団だった。だった、というのは今回から体制が変わり、清末は劇作に専念して演出を外部から迎えることになったからだが、二人以外の出演者が公演ごとに入れ替わるのは、今後も変わらないようだ。

筆者がこれまでに観たのは第十四回公演の『隕石』とその次の『幽霊船』(天幕公演)だけなので、エラそうなことは言えないが(と言いながら言うわけだけど)、この二作に共通していたのは劇の時間が過去へと向い、その過去は歴史的な事件の記憶と結びついていたことだろうか。そして時間は直線的ではなく、空間は異次元へワープし、歴史的事件をめぐる登場人物も虚実ないまぜで、観客は時空感覚を揺さぶられる。そう、今思い出したけれど、『幽霊船』の歴史的登場人物は、人物と言えるかどうか、放射能の灰を浴びた第五福竜丸だった。二作とも原子爆弾にかかわる話であり、そこには犠牲となった人々への鎮魂の想いが伏流水のように流れていた。非連続な時間の中で、様々な人物が現れては消えるスピード感のある劇の展開。その奥から抒情性が立ちのぼって来る、というのがサーカス劇場の魅力だとわたしは勝手に思い込んでいたのですね。
では新体制になって初めての『カラス』はどうだったか?

舞台は東京のとある繁華街の鉄道ガード下。登場するのは自転車に荷物をくくりつけたホームレス風のおばさん(彼女が劇中歌を歌う)、泥棒学校の先生と生徒たち、大麻煙草の売人二人、刑務所に入りたい労働忌避の若い男、失せものを探して彷徨する青年、気持ちが行き違ってしまったサラリーマンとOLのカップルなどなど。これらの都市住民がある日の夕方、ガード下を通りかかって偶然出会い、出会ったことでさまざまな悲喜劇がスパークし、火花の一つが偶発的な殺人を引き起こす。そしてガード下の薄汚れたコンクリートの壁にまた一つ、血痕のシミを残して夜は更けて行く・・・というのが大雑把な筋書きだ。 この一風変わった都市群像劇から受けた印象は、前二作とはかなり違うものだった。

舞台表現上の大きな違いは、戯曲の喜劇性が前面に押し出されたことだろうか。もともと清末の書くセリフには、古風だけれど感覚的には新しい、つまりリニューアルされたユーモアといったようなものが漂っていた。『カラス』でもそれは健在だったが、セリフは舞台表現としてさらに方向性を持ち、言い換えれば身体化された言葉として機能していたように思う。だから言葉がそこはかとなくおかしい、というよりそれが発せられる状況がおかしくて、大笑いしてしまう。これは喜劇のツボであり、いったんこのツボを押された観客は、もう笑わずにはいられなくなる。

テクストの喜劇性が前面に出たのは、演出を劇団唐ゼミ☆の中野敦之に委ねたからだろうか。中野は唐十郎に師事した気鋭の若手演出家で、これまた唐の圧倒的影響を受けた清末作品を任せるにはうってつけだったのかもしれない。その中野が『シアターアーツ』2009年春号のシンポジウム(注1)で、あなたのように若い人が「唐さんの持つ<陰々滅々>の言語と、どのように格闘しているのでしょう」と問われて、陰々滅々の中にある朗らかさが唐十郎の劇世界の豊かさだと答えている。中野が唐作品の読みをそのまま清末作品の読みに当てはめたと言うつもりはないし、そもそも清末作品の言語は陰々滅々とは縁遠い。だから舞台から受ける印象の違いは演出が変わったからだ、とは言い切れない。でもやはり、これまでにないカラリと乾いた軽みは、演出によるものだろう。

だがもっと注目すべきは(べきは言い過ぎかも)、戯曲そのものだろう。冒頭の劇中歌で「三〇世紀 東京は森」と歌われているので、すわ時間は未来かと思いきや、そうでもない。劇が対峙している時間は明らかに現代だ。というのは・・・たとえば登場人物たち。

失せものを探している青年が失くしたものは記憶だが、彼は記憶喪失症にかかったわけではない。ケータイに(と劇では言っていないが)彼の交友関係のすべてが収まっているので、それを落とすことは彼にとって記憶を失うことと同じなのだ。また強盗をして刑務所に入りたい男の労働忌避は、派遣労働の生活環境に嫌気がさしたからであり、OLの気持ちがサラリーマンの恋人から離れて行くのは、自分と相手の凡庸な人生に、これまた嫌気がさしたからだ。これらの人物はみな、21世紀の都市生活者のプロトタイプだ。

これに対して泥棒学校の先生と生徒たちはといえば、二十面相、ルパン、五右衛門、鼠小僧といった古今東西のセレブ泥棒の末裔だし、ホームレス風のおばさん(役名はカラスおばさん)は両性具有の存在だし、泥棒指南書を書いたカリスマ泥棒のゴウダ氏はどうやらカラスの化身らしいので、こちらはわたしたちと地続きというよりは虚構性が濃厚だ。にもかかわらず、虚構の中の彼らだって現代の都市をあてどなく彷徨う存在であることに変わりなく、つまりは虚実の程度に関係なく登場人物の全員が、エサをあさって都会をウロつくカラスだと言えなくもない。
「見てごらん 鉄の木立の上に 一千万のカラスがとまる」。

そこで思い出すのが、アリストパネスの『鳥』である。訴訟に明け暮れるアテナイに愛想を尽かした男二人が、神話伝説の英雄で今は鳥になっているテレウスを説いて、空中に鳥の都市を建設させるという諷刺劇。鳥の視点から人間世界を揶揄した喜劇であり、ファンタジーでもある。『カラス』も、鳥を媒介として都市群像を描いているわけだから、その意味で批評的ではある。でもね、さすが21世紀ともなると、鳥対人間なんて単純な構図は成立しない。カラスは一応まだ野生動物なんだと思うけど、今やそれすら怪しくなっている。この作品では人間がカラス化しているくらいだ。

劇の最後に、一夜の悲劇を見届けようとするカラス(泥棒志願の若い女)とカラスおばさんが目にするのは、殺された青年が壁の中に消えて行く幻影だ。記憶を失くした男が壁のシミになるという痛ましくてショッキングなシーンだが、ここから立ちのぼって来るのは抒情というというよりむしろ、同時代への沈痛な想い、というか悲鳴に近い。

お先真っ暗の情けない状況を目の前にして無力感にとらわれた時、もう笑ってしまうしかないという方向と、愚直に闘う方向がとりあえずは考えられる。今回の公演はどうやら本も演出も、笑ってしまう方向へ行ったようだ。現実を笑いのめすことも社会批判の一つの方法だし、それがサーカス劇場の新しい挑戦であるなら、試してみる価値はある。

でも、愚直に闘う方向にも捨てがたい魅力がある。中原中也の仏訳者であるイヴ=マリ・アリューが、あるエッセイ(注2)の中で抒情詩について興味深い指摘をしている。それは抒情詩の受容のしかたが日本とフランスではかなり違っていて、歴史的に見てもフランス人は抒情詩を、反抗を予感させるものと捉えており、抒情はセンチメンタルなだけでなく、プロテストでもあるというのだ。

過去の歴史的事件の記憶を掘り起こした清末作品には、このプロテストを含む抒情性があったと思う。今回、それが後退した感じがするのは、少し残念な気もする。
(初出:マガジン・ワンダーランド第135号、2009年4月15日発行。購読無料。手続きは登録ページから)

(注1) シンポジウム「唐十郎の世界」/2008年12月21日、世田谷文化生活情報センター・セミナールーム/『シアターアーツ』2009年春号所収。
(注2) 「中原中也―その政治性」/イヴ=マリ・アリュー(大槻鉄男訳)/『中原中也 群像 日本の作家15』/小学館

【筆者略歴】
芦沢みどり(あしざわ・みどり)
1945年9月中国・天津市生まれ。早稲田大学文学部仏文科卒。1982年から主としてイギリス現代劇の戯曲翻訳を始める。主な舞台「リタの教育」(ウィリー・ラッセル)、「マイシスター・イン・ディス・ハウス」(ウェンディー・ケッセルマン)、「ビューティークイーン・オブ・リーナン」および「ロンサム・ウェスト」(マーティン・マクドナー)、「フェイドラの恋」(サラ・ケイン)ほか。2006年から演劇集団・円所属。
・ワンダーランド寄稿一覧 :http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/ashizawa-midori/

【上演記録】
劇団サーカス劇場第16回公演「カラス」
新宿・タイニイアリス(2009年3月5日-15日、3月12日24時~レイトショー)

脚本:清末 浩平(劇団サーカス劇場)
演出:中野 敦之(劇団唐ゼミ☆)
キャスト:
森澤 友一朗(劇団サーカス劇場)
浅倉 洋介(風琴工房)
熾田 リカ
尾崎 宇内
久米 靖馬(クロカミショウネン18)
佐丸 徹(vivit)
神保 良介
平野 剛督
水野 香苗(劇団唐ゼミ☆)
宮崎 敏行
八重柏 泰士
ワダ・タワー(クロカミショウネン18)

スタッフ:
脚本・劇中歌作曲 清末浩平(劇団サーカス劇場)
演出・音響 中野 敦之(劇団唐ゼミ☆)
美術 大泉七奈子
照明デザイン・操作 須賀谷沙木子(clore)
照明操作 桜かおり
舞台監督 宮田公一(Y’s factory)
宣伝美術 だり子(薔薇色乞食)
web 相澤知里
制作 清水建志
プロデューサー 森澤友一郎(劇団サーカス劇場)
チケット:一般前売3000円、一般当日3200円、学生前売2000円、学生当日2200円


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください