パラドックス定数「インテレクチュアル・マスターベーション」

◎「わくわくした。以上」から踏み出して「一抹の淋しさ」を考える
川口典成(劇団地上3mm主宰)

「インテレクチュアル・マスターベーション」公演チラシパラドックス定数は、私が上演を楽しみにしている、小劇場界では数少ない劇団のひとつである。数年前に渋谷のスペースエッジという場所で上演された、薬害に関する公開講座を扱った話を観劇して以降、ほぼすべての公演に足を運んでいる。このパラドックス定数という劇団の演劇が、他の劇団の追随を許さぬほどに舞台芸術として洗練されており、硬質な台詞によって役者の魅力を最大限に引き出しているということは特筆すべきことであろう。毎度毎度、期待しながら劇場に向かう。劇団員の役者を、また見たくなってしまう。そういうひとつの中毒である。この劇団の「レビュー」を執筆するに当たって、はじめ、私は以下のようにこの文章を書き始めたのだった。

舞台上の登場人物、役者が魅力的である。舞台上で交わされる会話に手に汗にぎり、みずからの感覚が興奮しているのを感じる。
舞台に集う人々は、真剣に語り合い、誠実に目の前の人間と戯れる。
素舞台の劇場空間は、役者たちの発する言葉とその肉体によって満たされていく。

目の前にいる役者に魅了され、ただ時間が過ぎていく。
至福の演劇体験である。

とはいえ、しかし、「書き始めた」というのは正確ではない。「レビュー」といった形で、パラドックス定数についてある程度の客観性をもって書ける文章は、以上のものが限界であった、ということなのだ。つまるところ、

わくわくした。以上。

しかし、これではレビューではない。エッセイですらない。しかしながら私が書けることは、「わくわく」したということ以外にないのである。それ以外のことを書いても、嘘だ。主人公であった大杉栄の人生についてまとめてみても、この演劇がどのような演技態で行われたのかについて言及してみても、仕方がない。いや、そうではない。題材について、演技態について、そのような事柄に考察の発端を求めることは、このパラドックス定数という劇団と私との関係性を考える上では、あまり意味のないことなのだ。だから、「インテレクチュアル・マスターベーション」という芝居を見たときに感じた「わくわく」そのものについて書いてみたい。

おそらく、一番はじめのシーンから書き始めるのがよいだろう。そこからすでに「わくわく」したのである。なぜか。それは、この話が「友情」の話である、と知ったからである。そしてその「友情」の在り方・描かれ方が、いわゆる定型の友情でありながら、定型のドラマツルギーが陥る、惰性としての友情から遠く離れていたからである。つまり、「友情」といっても、それは喧嘩をして仲直りして万歳。殴りあったら腹の底から語りあったら友情が深まった、というようなことではない。もちろん、それらも含まれはする。が、ドラマツルギーという形での友情ではない。

舞台上にひとりの男が現れる。おもむろに屈伸運動を始める。そこに、もうひとりの男が現れる。これらの二人は体格が見るからに違う。屈伸運動をしている男を、もうひとりの男は眺める。そして、同じように屈伸を始める。体格の違う二人が、である。屈伸を始めるのだが、まったく同じ動きをしているわけではない。むしろすこしずれている。しかし、ある関係性のなか、ずれている。その身体感覚のなか、なにかを理解しあう。二人は微笑する。そして会話を始める。

「・・よう。」
「おう。」

もうこの時点で、この二言で「わくわく」なのである。そして「友情」の話であり、「友情」の在り方が素晴らしく描かれることは間違いないと確信する(ここでなぜ「確信」したのかについて書くべき言葉をいまは持たない。ひとついえば、この場面によってノスタルジックに「友情」に関する自分の思い出を再確認したのではなく、むしろ自分の思い出の中にそれを発見させられたのである。そうか、あれが友情だと)。

この始まりで、舞台上での人間関係の肌理に触れさせられた自分は、観客として、あとはただ彼らの共同体の一員のような気分となり舞台上での出来事を眺めれば良い。とても心地よく、とても素晴らしい人間たちがそこには描かれる。興奮する。「わくわく」する。

「肌理」と書いたのであるが、まさに「肌理」なのである。
かれら、登場人物たちの交わしている言葉に含まれる情感。それらが手に取るようにわかる、ということである。ひとつの言葉、ひとつの行動、なにかしらの癖、それらひとつひとつが持つ関係性の上での意味や思いが、触覚に訴えてくる。

明治の話である。政治の、共産党の話である。革命の話である。なぜわかるのか。それは、この芝居のなかではそれらは、その話題自体の特殊な本質から描かれはしないからである。明治について、あるいは明治の政治について知らずとも、登場人物たちが議論している様が理解できればよい。ひとりがある事柄について真剣に語る。あるものが反対する。その議論の在り方自体をひっくり返すものがある。どの議論でも、今も、昔も、同じことだ。だから、登場人物たちの関係性が理解できれば、ともに興奮できる。

たとえば幸徳秋水と大杉栄の次のような会話。

大杉 自我を持った奴らがいる。
秋水 随分、飛んだね。縛る縛られるは何処いったんだ。
大杉 自我は力だ。力のある奴が俺の周りには大勢いて全力で俺にぶつかって来てくれる。俺はそれを束縛と感じた。だけど同時に幸福も感じた。
秋水 何故。
大杉 ・・・。
秋水 それは君にも自我があるからだ。

大杉、奇声。秋水、笑う。

あるいは、

秋水 権力を持つと人間は腐る。高潔な魂を持った権力者なんて聞いたこともない。ならば否定しろ。国家も天皇制も権力と名のつく物はすべて否定すればいい。

短い間。

大杉 昔、本で読んだことがある。
秋水 (大杉を見る)
大杉 ミハエル・バクーニンの“アナキズム”だ。
秋水 僕が読ませたんだよ?
大杉 覚えてる。
秋水 君にいちばん効くと思ってね。
大杉 短い人生がますます短くなるぞ。
秋水 その分もっと愉しくなるよ。

二人、笑う。

ここで話されている自我、バクーニンなどというキーワードについて深く知っている必要はない。ここで求められるのは、幸徳秋水と大杉栄が師匠と弟子の関係である、ということである。あとはリアクションの連鎖を楽しめば良い。師匠の言葉に反論する弟子がいる。師匠がその反論をまったく別の視点から問い返す。弟子は不愉快である。師匠がもうひとこと付け加えてやる。狂喜乱舞する弟子。その弟子をからかいながらも、暖かく見守る師匠。……。そのさまを見て、目の前の人間がおこなっていることに、リアクションの連鎖に共鳴し、同期し、「わくわく」する。ますます登場人物たちを好きになってゆく。彼らの関係性の肌理にますます触れたように思い、また触れたく願う。「わくわく」。

これが、パラドックス定数の「インテレクチュアル・マスターベーション」という作品の「わくわく」感であった。単純に書ける。登場人物とともに笑い、ともに泣き、ともに喜び、ともに苦しみ、……、そうして生きていることを実感する。充実した人生の断片を生きられる。そういうことだ。そうして最初の感想に行き着く。-わくわくした。以上。

だが、もう少し、続けてみよう。「わくわく」しながら劇場をあとにした私は、実のところ、一抹の淋しさを感じていたのだ。頭のなかには、いまだに登場人物たちの声や表情があらゆる情感を伴って響いている。まだまだ彼らに触れていたかった。「ああいう風に生きられたら」などと思ってしまう始末である。それほど素晴らしい上演であったのだ。にも関わらず(だからこそ、かもしれないが)、ある淋しさを感じていたのだ。祭りのあとに誰もが感じる、空虚感というものであろうか。いや、どうも、違う。この違和感の由来を捕まえてみることにする。

その淋しさは何に似ているだろうか。浮かんできた言葉は、「仲間はずれ」ということであった。幸徳や大杉たちはあの舞台の上で、彼らのプレイグラウンドで、いまも、ともに笑い、ともに泣き、ともに喜び、ともに苦しみ、充実した人生を続けているのに、そしてさきほどまで私もそこで、彼らとともに人生を送っていたはずなのに、ぽんっと「仲間はずれ」にされてしまった。そういう感じである。

彼らにもう会えないからなのか。そうではない。彼らと私との間に確かにあったはずの、繋がりが分からなくなってしまったのである。彼らが議論しているさまは、私の現実とも関係があったはずだ。ならば、それを抱えて生きていけるはずだ。それなのに、舞台上の葛藤は、ただ舞台上のものだ、という印象が拭えない。なぜか。それはおそらく、登場人物たちが、やけに「仲がいい」からなのである。「仲がいい」とはどういうことか。もちろん、「友情」の話であったと述べてきた以上、「仲がいい」のは当たり前の話である。だけれども、全てがわかりあった人間同士、あるいは分かり合ったと思っている人間同士の間に生まれるのは、ある人間とある人間の「友情」ではなく、ただ密着した人間への「自己愛」なのではないか。どうにも自分と通約不可能な他者の他者たる部分(うまくいえないが、「他者そのものの冥さ」とでもいおうか)が欠けているのではないか。だからあの舞台上に、現実を生きている「私」が介入する場所がないのではないか。その「仲のよさ」の持つ排他性が役者のうまさによって、絶妙に隠されていたのではないか。

(ただしこのような舞台の排他的に自足した「完結」性は、近年の演劇界に共通した傾向として考えられるべきことかも知れない。参考までに、今年度の岸田戯曲賞での野田秀樹氏による選評を引用しておきたい。「そこで書かれているものは、その作品に登場する人間たちの間だけの人間関係である。/外側と言うものがない。(略)/これは、人間関係という芝居の根幹のようなものを書いていながら、実は、その関係を作っている共同体と言うものに無関心であるからだ。無関心でない場合は、その共同体の造型がただの借り物であったりするからだ。」以上。下線は引用者による。また、この野田による選評は候補作すべてに言及した部分である。)

立ち止まって考えよう。
「舞台に集う人々は、真剣に語り合い、誠実に目の前の人間と戯れる」。それが私の舞台を見た印象である。彼らは交流をしていて、その「真剣」「誠実」な交流のさまに興奮したのだ。しかしながら、「真剣に」「誠実に」とはどういうことだったのか。その言葉のまやかしに騙されていたのではないか。彼らは、また、それに同調した観客としての私も、「真剣に」「誠実に」生きることは素晴らしい、というクリシェに嵌まり込んでいただけではないか。全身で生きている、という自己満足の交流に過ぎなかったのでは。実のところ、舞台上の登場人物たちの葛藤は、用意された葛藤に過ぎないのではないだろうか。

しかし、肝心なことを忘れていた。この作品のタイトルは「インテレクチュアル・マスターベーション」である。「知的なオナニー」あるいは「知性の自己満足」とでもいえようか。このタイトルはとても重要だ。だとすると、彼らの生き様が「自己満足の交流でしかなかったのでは」「同じ人間の脳内対話なのでは」という疑問は、題名どおり「インテレクチュアル・マスターベーション」であったということで納得がいく。しかし、この作品の意図するところはそうではないはずだ。この上演にはひとつの答えが用意されていたはずだと思う。

大杉栄は師匠を失い、ひとり残される。ラストシーンだ。

東京の空の下、一人、大杉栄が立っている。

大杉 俺は、大杉栄だ。
今までずっとあんたという牢獄の中にいた。
俺はようやく自由になった。
そして、一人の無政府主義者として今ここに立っている。
とてつもなく空が広いと感じている。
(略)
この悲しみも絶望も、間違いなく全て俺のものだ。
俺は結局俺自身からは自由になれないという事か。
自分以外の何者にもなれないという、こんなにも素晴らしい不幸があるか。
(略)
反逆と自由を掲げたこの俺が、革命家、大杉栄だ。

真の「自我」を勝ち取るためには、それまでの「交流」から突き放される必要があったのだ。それが師匠幸徳秋水の死という形でもたらされた。それ以前、「インテレクチュアル・マスターベーション」としての「交流(真剣に話すこと)」には、絶望的な「孤独」はなく、真の「自我」もない。だからそれらは、まやかしの「真剣」でしかない。そのまやかしの「真剣」、つまり「インテレクチュアル・マスターベーション」を超え出でるものが、「東京の空の下、一人」立っている大杉栄には圧し掛かっているはずだ。師匠を失ったという、この世から人間がいなくなるという、絶望的な孤独とともに。それでも強靭に「自我」を持って生きることを決意する。そういったシーンであるべきではないのか。しかしながら、上演としてのラストシーンの大杉栄には、いままでの、まやかしともいえる幸福、あるいは、自閉した関係性における幸福(インテレクチュアル・マスターベーション)を打ち破るような強烈さは感じられなかった。

観客は、舞台上の役者をネタに、物語をネタに、あるいは題材である明治期の思想家をネタにオナニーをし、自己満足を得る。その満足を超え出でるところを、「インテレクチュアル・マスターベーション」の先を、きちんと落とし前をつけて欲しかった。そう、上演を「わくわく」しながら観て、一抹の「淋しさ」を感じた私は思うのだ。

パラドックス定数は「個人と社会の相克」をテーマに掲げている。その言葉通り、「個人と社会の相克」に晒されている人物を登場させ、役者をとても魅力的に舞台上に立たせている。だが、これはともすれば、役者を魅力的に見せるために、役者の苦渋している様をかっこ良く描くために、借り物の道具として「個人と社会の相克」を用いている、ということになりかねない。「個人と社会の相克」というドラマを利用して、上演を魅力的にするというのは、「個人と社会の相克」を描いたということにはならないであろう。結局それは、「個人と社会の相克」というドラマであり、「相克」という葛藤そのものではない。私が「インテレクチュアル・マスターベーション」という作品を観たあとに感じた一抹の淋しさは、このことに漠然と気づいてしまったことによってもたらされたのだろう。「個人」と「社会」の間に引き裂かれ、またそこに留まるしかないその様を(ときにはありきたりなドラマツルギーを足場にしながらも、それを踏み越えて)描くことが、「個人と社会の相克」をテーマにする、ということであろう。またそのときにこそ、ドラマツルギーに埋没しない、あるいは、ドラマツルギーという足場に踏みとどまるしかない役者という存在の魅力そのものが十全に発揮されるのかもしれない。パラドックス定数という劇団にこそそのような舞台を上演して欲しいと、心から思う。
(初出:マガジン・ワンダーランド第135号、2009年4月15日発行。購読無料。手続きは登録ページから)

【筆者略歴】
川口典成(かわぐち・のりしげ)
1984年、広島県に生まれる。東京大学文学部宗教学宗教史学専修課程卒業。同大学院宗教学宗教史学修士課程に在籍。劇団地上3mm主宰。脚本・演出を兼業していたが、現在は演出に専念。これまでに安部公房『砂の女』を始め、小説の舞台化を行う。2009年三月には『ファウスト第一部』を上演した。

【上演記録】
パラドックス定数第18項『インテレクチュアル・マスターベーション
下北沢・シアター711(3月27日-4月1日)

作・演出:野木萌葱
出演:
幸徳秋水 今里真
堺 利彦 小野ゆたか
木下尚江 西原誠吾
山川 均 十枝大介
大杉 栄 井内勇希
荒畑寒村 山ノ井史
内山愚童 植村宏司
スタッフ:
照明 伊東泰行
舞台監督 金安浚平
衣裳 渡辺まり
写真 渡辺竜太
販促 副島千尋
制作補 たけいけいこ
制作統括 赤沼かがみ(G-up)
企画製作 パラドックス定数研究所

前売2800円・当日3000円※3月31日(火)PM3:00平日マチネのみ前売・当日共2500円
日時指定・全席自由

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