劇団サーカス劇場「カラス」

◎「友達」を探し求める物語 ガード下に漂う甘いにおい
小畑明日香(学生)

「カラス」公演チラシバイクが上手でうなる音から幕開き、ガードレールの隙間を自転車とバイクが走り抜けて歌。♪時は三十世紀トーキョー♪とのことだが歌ってる大女は長いざんばら髪にポシェット下げて要するに舞台は荒廃した未来、である。が、アングライメージの意匠をちりばめつつも「カラス」はにおいがはっきりちがった、字義通りの意味でそのことを書きたい。

サーカス劇場「カラス」には血のにおいがなかった。
直前に梅が丘BOXで、燐光群の「屋根裏」を見ていた。冒頭が劇的だった。不定形な台形の「屋根裏」内部で二人の男が膝つき合わせている。二人ともこの「屋根裏」を最初に持っていた男の話をしている。「ずっとここから出てこなくなって、そのうちペットボトルにおしっこするようになって、においが外まで漏れて。」「全部拭き取ったみたいだけどわかるんです、これ血のにおいでしょう?」

あざやかな台詞だ、が、アングラ演劇にかぎらず日本の表象文化は「血のにおい」が大好きだ、とも同時に思う。「屋根裏」は、「屋根裏」の中で死んだ弟と「屋根裏」を作った奴を探す兄が出会う話だった。兄弟という血縁関係、ひきこもるのに最適な小さい空間、その空間のルーツをさがす筋立て、燐光群のこの代表作は典型的な、血を辿る物語である。「屋根裏」が白っぽい木材の箱だったのに対してサーカス劇場「カラス」はガード下が舞台だ。だが物語の随所で大麻を想起させる「草のタバコ」を吸う場面があり、どぶ臭いどころか場内の空気は甘い。探しているのはルーツではない。「友達」である。

「カラス」は、大女ことカラスおばさんと、大切なものを失くした男が登場する、友達を探し求める人達の物語である。町中のカラスに餌付けしているカラスおばさんが、泥棒学校に入学しようとガード下に来た「カラス」というあだ名の女の子を、自分の待っていたカラスだと勘違いする。一方で、その女の子が盗みのターゲットにしようとした男は、すでに大切なものを失くしており、友達の情報が全部記録された「あれ」を失ったから俺は世界中の人間と友達になれる、と言い放つと周りの人間を次々と「友達」にしてそれを口実に自分への奉仕を要求する。

男が失くした「あれ」は、「小さな画面で、きまった友達の名前だけが並んでいるもの」で、はっきりとケータイの暗示である。唯一無二のパートナーを求める人達の気持ちを逆手にとって男はあらゆるもの、地位や仕事先や心まで失わせる。また、カラスおばさんは、昔「真の友になろう」と言ってくれたカラスを探すために東京中のカラスに餌をやってみんなから嫌われている。また、「真の友」の化身である女の子が、他の人と友達になるのを許さない。男とカラスおばさんの姿勢は、どちらも「友達」に対する態度としては異様で、実際、相手や相手との関係を二人とも破壊する。それでもケータイを持たない男は自由気ままに生きて幸せかと思いきや、ふと熱がさめて自信なさげになった隙に「友達」の一人に殴り倒され、血まみれの体を壁になすりつけて「血のしみが残っている間俺のことを忘れるな」と絶叫し壁の中に消える。

「カラス」には血の匂いはなかった、ただ血を求める人達がいた、それが不快だ。非常にリアリティがある。だから苦しい。劇評を書かない人はもっと苦しいだろうと思う。

もし、演劇について特に語らない人間だったら、アングラ的な見た目ばかりをことさらに嘲笑するだろう。たとえばブログコミュニティやSNSがここまで広まった社会の底では「未だにミクシィに誘われたことのない人」が押しつぶされている。彼らが表に出てきたのが今回のサーカス劇場の舞台である。「カラス」は甘い、人工的ないい香りだ、その中で今更のように血縁関係の代替物を探している人達のことが私は怖い。雑誌やアニメのキャラのようにフラットな、時々の気分で「いい匂い」を付け替える生活を「友達欲しい」の絶叫は破壊するからだ。男やカラスおばさんの振る舞いは親をふり回す子どものようだが、マイミク切られて逆上する人と考えれば珍しくない。ケータイなくして人間関係を一新したと思ったら誰からもおぼえておいてもらえない不安に襲われる、男の顛末もリアルでグロテスクだ。苦しい。こうゆうネオ現代みたいな舞台設定の話ってもっと軽やかになってもいいんじゃないか?

バットを振り回して「金よこすか野球するか」と言う男が登場する。バット男は日雇い労働者で一緒に野球をする友達がいない。友達になってやるからバットよこせ、と脅された挙句そのバットで殴られるが、殴られた痛みだけを支えにして友達のために働く。「働く」と言っても強盗だ、最初は日雇いの仕事を捨てて友達と金銭を奪うために始めたバット男の強盗は友達のための労働にされてしまう。

ひょっとしてこれって21世紀トーキョーの社会派プロレタリア演劇なんじゃないだろうか。泥棒学校は専門学校らしく、怪人二十面相三世以下ルパン、五右衛門、ねずみ小僧は、名だたる血統の泥棒なのに、学校を潰されると職がない。そうだ、唐組でもテラヤマでもアングラでもいいけど荒唐無稽な物語の持つ世界の広がりが「カラス」にはないんだ。見た目はたしかに小劇場演劇ブームを髣髴とさせるけど、SF的な舞台設定なのに破天荒なエネルギーがない。だって泥棒学校の人達ってさ、普通に稼業に励んでたらいきなり職場を引っかきまわされたあげく、なんか伝説の泥棒とやらが来て勝手に学校はつぶれちゃうし職はなくなっちゃうしで最後、傷ついて去ってくだけなんだよ。だけどそれだと幕が下りると同時に三十世紀トーキョーそのものも消えちゃう、そしてルーツや血縁関係がない分そうしたものによりかかりたい欲望が後にべっとり。

作り手の問題意識を受けて砂噛むまでの余裕はないんだわ、なんでならわたくしすでに心の内にカラスおばさんやらを抱えて、舞台そのままの現代社会で「友達欲しい」と叫ばないように生きてるのですから。救済が欲しいわけでもない。人物が劇中の世界観や暗喩を盛り付ける器になってしまっている感じがいやだ、だって言いたいこと言うために登場させた人物なら「友達欲しい」の叫びなんてちょっと内向的なシュプレヒコールじゃん。「友達が欲しい!」「そうだ、友達が欲しい!」みたいな。

「カラス」は現代の病理を鋭く描いた作品だと思う。だけど、論文の材料になるために作っちゃあいねえべ。場面としては暗いけど、バット男が友達をバットで殴り殺すシーンに個人的には一番浄化を感じた。ガードレールに金属バットががっつんがっつんぶち当たって沈黙、「俺を逮捕してくれ。もう考えたくないんだ」とバット男が呟いて泥棒たちに連行される場面、いや、本当にめちゃめちゃ暗いです、救済の場面などではないのだけれど、血の跡を残して壁の中に潜っちまった男よりも、暗い留置場に一人でいるだろうバット男のほうにリアリティを感じる。彼となら「友達」になれるような気すらする、終演後にも自分の物語を持つバット男は三十世紀トーキョーを引きずって、「カラス」の登場人物の中で唯一、暗喩以外の何かを持っているように見えるからだ。

「友達が欲しい」叫びを私は知っている、その思いの中には人工的な匂いのものに対するアレルギー反応がある、しかし人工的な甘い匂いを「いいにおい」だと感じながら生きているのもまた事実なのだ。うそ臭い人はきらいだが、虚構の世界にくるまれないまま真実の叫びと向き合うのも苦痛なんである。
(初出:マガジン・ワンダーランド第135号、2009年4月15日発行。購読無料。手続きは登録ページから)

【筆者略歴】
小畑明日香(おばた・あすか)
慶應義塾大文学部4年。中学時代からの脚本執筆や役者経験を経て現在に至る。「中学校創作脚本集 (2)」(晩成書房)「短編劇集 中学校のクラス劇 (中学校劇作シリーズ)」(青雲書房)などに脚本収録。2007年10月Uフィールド+テアトルフォンテ『孤独な老婦人に気をつけて-砂漠・愛・国境-』(マテイ・ヴィスニユック作)などに出演も。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/takagi-noboru/

【上演記録】
劇団サーカス劇場第16回公演「カラス」
新宿・タイニイアリス(2009年3月5日-15日、3月12日24時~レイトショー)

脚本:清末 浩平(劇団サーカス劇場)
演出:中野 敦之(劇団唐ゼミ☆)

キャスト:
森澤 友一朗(劇団サーカス劇場)
浅倉 洋介(風琴工房)
熾田 リカ
尾崎 宇内
久米 靖馬(クロカミショウネン18)
佐丸 徹(vivit)
神保 良介
平野 剛督
水野 香苗(劇団唐ゼミ☆)
宮崎 敏行
八重柏 泰士
ワダ・タワー(クロカミショウネン18)

スタッフ:
脚本・劇中歌作曲 清末浩平(劇団サーカス劇場)
演出・音響 中野 敦之(劇団唐ゼミ☆)
美術 大泉七奈子
照明デザイン・操作 須賀谷沙木子(clore)
照明操作 桜かおり
舞台監督 宮田公一(Y’s factory)
宣伝美術 だり子(薔薇色乞食)
web 相澤知里
制作 清水建志
プロデューサー 森澤友一郎(劇団サーカス劇場)
チケット:一般前売3000円、一般当日3200円、学生前売2000円、学生当日2200円


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