三条会「ロミオとジュリエット」

◎知的刺激は受けたけど、泣かせてほしかったロミオさま
(鼎談)水牛健太郎+杵渕里果+芦沢みどり

三条会「ロミオとジュリエット」公演チラシジュリエット芝居-どんな上演だったか

芦沢みどり:ワンダーランド鼎談第2弾は、下北沢のザ・スズナリで上演された三条会の『ロミオとジュリエット』。三条会は知的なたくらみと遊び心に満ちた演出と、俳優それぞれに個性があって魅力的であることが定評になっています。さて、今回はどういう『ロミオとジュリエット』だったか。公演チラシには「むかしむかしロミオとジュリエットという人がいました。2人とも恋をしました。2人とも死にました。もしかしたら1人だったのかもしれません」というナゾめいた言葉が置かれています。公演パンフレットの方では、「今回の台本は、ジュリエットが登場している場面だけを抜粋して構成しました」と言っている。原作のうち、ヴェローナの広場や街路での立ち回り(喧嘩)、乳母の長セリフ、マキューシオの長セリフ、修道士ロレンスの長セリフなどがばっさりとカットされています。登場人物は八人。ロミオとジュリエット、あとはキャピュレット、キャピュレット夫人、乳母、パリス、ロレンス修道士、ティボルトですね。キャストは全員ジュリエットを演じるシーンもあります。


水牛健太郎:マキューシオは出て来なかったんだ。殺されるところはどうなっていたんでしたっけ?
芦沢:殺される場面はなくて、伝達です。こうこうだったよ、というように。
水牛:乳母がジュリエットを兼ねているといっても、単独でジュリエットのセリフをしゃべる場面はなかったように思います。乳母はパソコンのキーを叩いて、ジュリエットのセリフをスクリーンに映していたでしょう。そういう意味でジュリエットを兼ねていたのかな。あるいは声を合わせてジュリエットのセリフを言うシーンがあったかな。
芦沢:あったかもしれません。それでジュリエットの場面だけで構成するといっても、それを全部使ったわけではなく、全体の7割ちかくカットされていた感じです。もう一度公演パンフに戻ると、そこにはこうも書かれている。「僕の友人のロミオが自殺しました。(中略)私のお乳をあげたジュリエットが自殺しました…」
水牛:「私のお乳をあげた」というのは乳母の立場でしょうね。「僕の友人のロミオ」と言ってるのは、誰の立場なんだろうか。
芦沢:一番単純に考えるとマキューシオかな。ところでこの、カットの仕方なんですが。これは「子供のためのロミオとジュリエット」といった本のカットの仕方とすごく似ていて…。
杵渕里果:えっ、似てますか?
芦沢みどりさん芦沢:ええ、カットの仕方がね。もちろん子供の話とはぜんぜん違いますよ。だって全員がジュリエットになったりするわけだから。でも、こういうカットの仕方をすると、話としては成り立つんだなと。『ロミオとジュリエット』って、要するに若い二人が出会って、恋をして、結婚して、死んでゆく。それが2、3日のうちに起きるんですよね。ドラマがぎゅっと圧縮されている。その部分はジュリエットの出てくる場面だけで構成してもなくならないということなんだなと。
杵渕:なくならないというか、繰り返すじゃないですか。
水牛:「ようこそ。みなさん」(キャピュレットのセリフ)
杵渕:そのパーティーの開始の口上へと繰り返し回帰しながら、徐々に物語を進めているけど、『ロミオとジュリエット』の物語のあらましをぜんぜん知らない人、中学生とかが見たら、なにがなんだか分からないと思いますよ。わたしたちは『ロミオとジュリエット』の物語を覚えているから、分からなるんじゃないのかな。
水牛:実はそこが『ロミオとジュリエット』のひとつの肝で。原作では、最初に口上で話の筋を言っちゃうんですよね。要するに敵同士の名門があって、その子らが恋人で、悲惨な死を遂げて、親の争いを終わらせると。現代の観客はというと、ほとんどの舞台でこのプロローグは上演されないんだけど、劇場へ来ている時点でほとんど筋を知っているわけだから、それはシェイクスピアが最初に計画した通りの上演になっているわけですよ。要するにこれから若い二人が出会って不幸な死を遂げるということまでは、知っている状態で見ることが最初から予定されている。

初演との違い

芦沢:三条会がなぜ千葉でやっているかということについて、「インタービューランド」(注1)で演出の関美能留さんが、千葉でやれば演劇を見たこともない人も来るんじゃないかというようなことを言っている。それで、南房総市で上演された三条会の『ロミオとジュリエット』(注2)を杵渕さんは見てるんですよね。
杵渕:三条会は千葉だけど、たまに東京にきたとき一度はみとけって言う人がいて、ホームページみたら南房総市のハーブ園、観劇込みの日帰りバスツアー、チケットと交通費で六千円、こ、これはトクな旅行だ、と思って行ってきました。
芦沢:南房総市の上演は、今回の上演とは違うと以前おっしゃってたけど、どこが違うのかな。
杵渕:それは、初めて『ロミオとジュリエット』を見る人でも話について行けるような、順番通りの丁寧な作品でありながら、中村岳人さんとサカキさん(榊原毅)が二人とも坊主(スキンヘッド)だったんですよね。二人の坊主がいる芝居ってのは、話に聞いていて。確かにふざけたことも言うんだけれども、女性陣は朗々とセリフをしゃべって。若いようなふざけ振りと、すごくオーソドックスで古典的な風合いの両方を出して、保守的な人でも新しい空気を読みながらついて行けるような『ロミオとジュリエット』だったんじゃないかな。
芦沢:キャストはやはり八人でやってるんですよね。今回みたいに全員がジュリエットのセリフをしゃべるような上演ではなかったんですか?
杵渕:どうだったんだろう。
水牛:つまりそこは、印象に残ってないってことですよね。
杵渕:まあ、字幕は使ってましたけど。役がコロコロ入れ替わるというよりは、整然とした印象でしたね。
芦沢:舞台写真を見ると、なんかコスチュームプレイっぽいし。それで、八人でやって分かったのかな。
杵渕:違和感のない舞台でした。ただ、あまりベタな芝居ではないですね。ロミオとジュリエットの役者が二人で愛を語らうとかっていうのではなく、もう少し語りの感じ。お互い語りを見せ合いましょう、語りを聞きましょうというような感じはしましたけどね。
水牛健太郎さん水牛:シェイクスピアの世界を再現しようというのならBBCみたいにやればいいわけだし、あるいはアイドルのかっこいいイケメンの若い男の子と、若い女の子を輝かせるという目的で企画ものとしてやるのだったらいいけれども、そうでない限り、あのバルコニー下のラブシーンとか原作に忠実に再現されているのって、今ないですよね。やはりちょっと気恥ずかしいし、セリフは長いし、時間かかるし。だから、おそらく、三条会みたいにした方がむしろ、ふつうの演劇ファンはすんなりみることができるんですよね。年齢だって実際は十代なんてありえないわけですから。若いと言っても25とか30とかの俳優が必死になってやるというのは、みててちょっとつらいと思いますよ。
杵渕:シェイクスピアのセリフって、くどいというか文語調というか、古色蒼然としてきれいじゃないですか。だから全部ベタっと役者が喋ってしまうと、なんか語感が破壊される。三条会のは、役者もしゃべるけど、喋らないで字幕になる部分があって、セリフを読む楽しみが出てくるのがすごくいいんですよ。
芦沢:前回もジュリエット役はク・ナウカの寺内亜矢子さんでしたが、今回はティボルトの牧野隆二さんとキャストの中にク・ナウカが二人入っていて、ジュリエットのセリフが字幕で出たり、ティボルトが死んでからジュリエット役になる場面があって、そこで人形ぶりみたいなことをやるんですよね。あれ、すごくおもしろかったんだけど、二人をそういうふうに使ってましたね。だからク・ナウカのやり方を踏襲するというよりむしろパロディーとして使っていて、素直にはやらないんだ、関さんは、と思っておかしかったです。

若くて純情なだけのキャラクター

杵渕:最初の方、ジュリエットが振り返ったときに、スクリーンにハートマークが出るじゃないですか。
芦沢:あれ、かわいかったね、胸キュンみたいで。
杵渕:でも、本当はどういう意味だったのかな。それからロミオ(橋口久男)も変ですよ。ズボンの上に、ジュリエットと同じスカートを重ねていて半分女装の状態。で、お茶碗を片手に持ち続ける。あれ巡礼?物乞いですか? その風体で、ヘヘヘと笑い続けるから、見るからに変な人。ジュリエットと乳母が褒めそやせば褒めそやすほど、異化されてしまう変人さ加減。
芦沢:それって、原作もそうじゃない? ロミオの方はジュリエットの美しさに一目ぼれするんだけど、ジュリエットはロミオの言葉以外のどこに惚れたんだろうって気がする。
水牛:ロミオだって若いイケメンだったんでしょう? 映画ではレオナルド・ディカプリオがやってたりするわけだから。それが正しい配役だと思いますよ。だってこの二人ははっきり言うと、人格がないわけですよね。若くてきれいでありさえすればいい。ぱっと出会って、燃え上がって、死ぬだけが仕事。だからなんか表現する必要はまったくない。きれいな花に見えればいいんだと思う。
杵渕里果さん杵渕:えー。見えないよ、ロミオが花なんて。それどころか特にロミオがヒドイ! ジュリエットはかわいかったけど、このロミオって、ズボンの上からジュリエットとおそろいのスカートを羽織ってる。演出の関さんは、ロミオが美しく見えるのを最初から投げたとしか思えない。内面的な美しささえ伺えないくらいに変人でしょう。なんでチラシに「2人とも恋をしました。2人とも死にました。もしかしたら1人だったのかもしれません」なんて書くのかなぁ。私はこのコピーが分からないです。
水牛:ああ、なるほど。直観的な話をすれば、さっき私が言った意味で言うと、ロミオとジュリエットって実は同じなんですよね。どっちも人格はないから。若くて純情だってだけのキャラクターだから、頭からっぽのアイドルとかを配役するのが一番正しいと思うんですよね。この二人って人格的な深みが生じる必要、まったくないから。花としてきれいだってことが重要だから。ほんとに極端な話、14、5歳でも構わない。でもセリフ覚え切らないかな。
芦沢:いや、むしろ覚えられますよ。俳優って年齢と記憶覚えは反比例するから。
杵渕:でも、オリビア・ハッセーが映画でやったジュリエット(1968年)を見た英国人は、見るにはよいがセリフは聞くに堪えない、という感想を持つのだと読んだことがある。若い役者はセリフは入るけど、発声の技量はないんじゃないかな。
水牛:私が言ったのは、存在として見ると、ってこと。私は、二人は若くて花のようなイメージがしたんですよね。で、ロミオにああいう人を持ってきたっていうのは、おもしろいと思う。
杵渕:おもしろいというか、人がいなかったんじゃない(笑)。っていうか、男優できれいって難しいじゃないですか、ふつうに。誰もが納得するかわいい女の子を連れてくるのと比べたら、誰もが納得するかわいいきれいな男の子を連れてくるのって、すごく難しい。ティボルトの方がまだマシだったでしょう、今回は。
芦沢:なんかトラボルタみたいな衣裳だったけど。
杵渕:でなければサカキさんにロミオをやってほしいくらいでした。
芦沢:でも、怖いよ。キャピュレット役だって十分怖いもの。
杵渕:サカキさんは巨漢の坊主頭で、異形すぎてロミオは無理かも。いっそ、サカキさんがジュリエットで、母親役の大川潤子をロミオって見たくない? 千葉の上演も、ジュリエットの母と乳母が大川潤子で父親がサカキで、でもあの二人にロミジュリそのものをやってほしい。三条会で一番うつくしい声の俳優だと思うし。
水牛:低くてね。
芦沢:ロミオは誰だった?
杵渕:ロミオは中村さんかな。確信持ないです。
芦沢:中村さんが裸でパンツ一枚の舞台写真があったけど。

キャピュレット家の愛と真実

芦沢:話は戻りますけれど、なぜ全員がジュリエットのセリフをしゃべるかです。
水牛:それが、分からないんですよねえ。
芦沢:登場人物の全員が、親にしろ、乳母にしろ、ジュリエットに関心があるというか、かかわりを持っていて、彼女のことを気にはしているんですよね。だから、そういう人たちがジュリエットのセリフをしゃべるということには、あまり違和感なかったですね。ということは、これ、ジュリエットの芝居なんじゃないかなあ。このチラシにしろパンフレットにしろ、デザインがなんか洋菓子屋さんの包装紙みたいじゃない。ピンク色で。
杵渕:女性の横顔のシルエットで。
芦沢:だから、これ、ジュリエットの芝居だ、と思ったんじゃないかな。
杵渕:だとすると、ロミオが要らないじゃないですか。ジュリエットだけで。「ジュリエットとジュリエット」。
芦沢:うん、だからこの『ロミオとジュリエット』はロミオ、アンド、ジュリエットでもなく、またロミオ、イコール、ジュリエットでもなくて、ジュリエットの中にロミオが入っちゃってるみたいな。
水牛:それは、まるきり演出の通りにみたということでしょ。
芦沢:それって、だめ?
水牛:別にいいけど。
芦沢:よく社会学で図形を使うじゃないですか。円の中にもう一つ円があってみたいな。ジュリエットの中にロミオが入っちゃってるような、そんな感じがしましたよ。
水牛:今回は榊原さんと大川さんを父母役にしたということで、ジュリエットとの三人のシーンが一番盛り上がるというか、そこから決まったんでしょうね。
芦沢:水牛さんも杵渕さんも、三人が手をつないで円陣をつくるシーンが気に入っているようですね。ジュリエットがロレンスから薬をもらって飲む直前です。
水牛:あのシーンを見たときに、『ロミオとジュリエット』ってのは、関係性が本当にきちっとしているんだなあというのが分かりましたね。ああいうジュリエットにしても母にしても、お互いがお互いのことを思っていて、もう真心以外なにもないのに、ああいうふうにならざるを得ないっていう悲しさというか。夫婦は娘の幸せのことを考えているわけだし。もちろん考え方の角度は違うけれど、やっぱりキャピュレットにしてみればジュリエットは自分にとって宝物で、娘が立派な伯爵に嫁ぐことが幸せだと…。
杵渕:そうかなあ。キャピュレットの家は、子供を乳母に育てさせる階級で、母親より乳母の方がよっぽどジュリエットに今でいう母親っぽさがあって、実の親たちの愛情というかジュリエットへの配慮って、今わたしたちが思っている親の愛と、ぜんぜん違うと思いません?
水牛:それは違うんだけど、この時代のこの人たちにとっては、これが親の愛情だったと思いますよ。
杵渕:愛情っていうのかなあ。
水牛:だってキャピュレットはジュリエットが死んで(薬で仮死状態になった場面)、自分も死ぬと言っているわけだから。娘が伯爵夫人になることによって、自分の栄達とか栄誉ってこともあるんだけど、名誉とか栄誉は、現代人よりもはるかに重い意味を人生の中に占めているわけだから、それと愛情は両立するというか融合していると思うんですよね。
芦沢:杵渕さんがこのシーンで涙を流したというのは、どういうこと?
杵渕:感涙ですよー。ジュリエットって父親はもちろん、母親にも聞く耳持たれないじゃないですか。その上、頼りにしてた乳母からも見放される。14、5歳の少女なのに自分一人しか信用できない状況に陥って、一人で考えはじめる。親を言いくるめ、乳母を言いくるめ、大人を騙しながらロミオのところに向かう。そういう場面で、今回の三条会は、ジュリエットに父母役の俳優と手をつながせた。家族三人の円陣をつくらせた。ジュリエットというのは、現実には信用できない親だけど、その両親の記憶を集めて立ち上がってオトナになっていくんだな、不憫だな、って感じで泣けた。
芦沢:両親の記憶?
杵渕:記憶そのもというか、内面の親かも。ジュリエットが、コロスとして頼みにして手をつなぐのは、ロミオの役者でも、従兄のティボルト役者でもいいのに、両親の役者たちだった。ジュリエットは、現実の親と別の次元での親を、象徴的な親みたいのを見つけて、自分のコロスにした、っていう感じがしたなあ。
芦沢:なるほどね。それはまた深い読みですね。

事件の黒幕?怪しい二人

水牛:そういう芦沢さんはどうなの?
芦沢:いやあ、どうなんでしょうねえ。実は、あの場面ではあまり感動もせず…。むしろ、キャストの中で一番気になったのはロレンス修道士のあの「たるい」身体で。この人って結局、責任取らないというか、かなり無責任な人で、中でも特に「あ、手紙忘れた!」なんてセリフがあって、あれは原作にないセリフなんですよね。衣裳もカエルみたいで。吟遊詩人じゃないけどギターを持って、しかもぜんぜん弾けないし。弾く振りもヘタで。だから大人の無責任をあそこに出しているのかなあと思いましたね。他の身体がすごく強いのに、あそこだけたるいのね。これもかなり考えたキャスティングだという気がしました。

鼎談・三条会「ロミオとジュリエット」から
【芦沢みどりさん(右)と杵渕里果さん 撮影=ワンダーランド©】

水牛:あそこは意図的なシーンだけど、私に言わせればちょっと誤解もあるような気がしているんですよ。確かに、原作を読むと、何なんだこいつら、大事な手紙くらいちゃんと届けろ、って現代人は思う。それを演出意図として(「手紙を忘れた」という形で)強調しているのを「違う!」なんて大声で叫ぶつもりはないんだけど。ただ、この時代には郵便制度なんかないわけだから。手紙を出したらちゃんと届くってのが、実は現代人の発想じゃないですか。手紙を出しても届かないのは、この時代なら容易に考え得ることなんだよね。だから本当は、無責任とかいう範疇のことではないんですよね。
芦沢:ただ、手紙のことだけじゃなくて、自分で結婚させておきながら、そのあとに誰か大人に言えばいいものを、誰にも言わないとか。
杵渕:そんなこと言い出したら、あの毒は何なんだってことになりますよ。
芦沢:それはお芝居を展開させて行くための、一つのツールではありますよ。だから人格うんぬんと言ってもしょうがないんだけど、でも、あのカエルはおもしろかったな。
水牛:あの神父ってフランシスコ会の修道士なんですよね。当時のイギリスにおいてフランシスコ会というのがどう見られていたか、ということも背景にはあると思うんですけど。
芦沢:当時のイギリスは国教会が正式の教会ですか。でもこれはイタリアの話ですけど。
水牛:だって、それはあまり意味ないから。イタリアをリアルに描こうなんて気持ちは最初からない。借りてるだけだから。
芦沢:でも、ロレンスが出てくるってのは、イタリア的だからで。
水牛:このロレンスが最初に出てくるときに、原作では長い独白があるんですよね。自然と人間の合一感みたいなことを言って。つまり、この人はどういう人かってことを強烈にアピールするような。
杵渕:シンデレラや白雪姫の、魔女みたいな存在ですか?
水牛:まあ、そんな感じですよね。花のつぼみには薬もあれば毒もあるみたいな、怪しげな薬を操る人物であるということをにおわせて。ここら辺、フランシスコ会の修道士ってのはこういうもんだー、みたいな考え方が反映されているんだと思うんですね。
芦沢:なるほど。
水牛:今回の演出のポイントになっているのは、乳母と神父だと思うんですよ。考えてみれば必然的なことですが。話としてロミオとジュリエットが死んでしまうことは最初から決まっていることなんで、あとはそれをいかに自然に流してって最後に観客を泣かせるかってことが、いわばシェイクスピアの意図であると。するとその中で運命の曲折というか、運命を曲げてしまうような、この二人を死に追いやって行くようなポイントを握っているのが、この乳母とロレンスですよね。だからこの二人が自然に目立って来ざるを得ないわけで。要するに他の人ってのは、だいたいがキャラ通りの人物なんですよね。
杵渕:二つの家にある程度かかわりのない立場に立てるのが、その二人ですよね。
水牛:そういうことです。だから神父のやったことが、なんか変なんじゃないかとか、ま、極端に無責任なんじゃないかという解釈も施しうるし、乳母に関しても、私は今回の演出は、乳母を一番のポイントにしているなと、実は思ったんですね。今回の演出だと、そもそも最初から、乳母の役の人(立崎真紀子)がジュリエットのセリフをパソコンから打ち出して、スクリーンに映し出すところを観客に見せているわけです。それから、ジュリエットをものすごく煽るようなことをしていて。気持ちが乗りかかっていたときに、やあ、ロミオはすばらしいです、すばらしいですってなことを言う。乗って来る。で、すごく乗って来たときに見捨てちゃうわけですよね。そこのところで、あっと思うような演出になっている。この人、急に言うこと変わるじゃない、何なんだと。で、ジュリエットが死んじゃう(仮死状態になる)。死んじゃうとその両親は、ああ、もう本当に悲しいと、こんなことになってしまうとは、って言うんだけれど、乳母だけが棒読みなんですよね、セリフが。
芦沢:「ああ、悲しい」(棒読み)。
水牛:そして最後の神父の場面では、神父の後ろにいて彼を操っているわけですよね。だからこの芝居は、乳母がすべてを操っていたという解釈でつくっていた気がする。
芦沢:なるほどね。
杵渕:だから一番現代っぽい恰好をして。
水牛:そうそうそう。

聞くだに古い物語こそ

水牛健太郎さん水牛:今回の公演に不満があるとすれば、やはり最後は気持ちよく泣かせてほしかったな(笑)。いや、そういうことを期待してはいけないのかもしれないけど、でも、ひねっていても泣けることはあるじゃない。ロミオがあの人であっても。
杵渕:ロミオにも気持ちを入れたかった。ロミオの中に真実味や、若い男の子の葛藤を見てみたかった。ジュリエットに比べると今回のロミオ、スケスケで、ダレ切って見える。
水牛:だから最後に泣けないと、「ロミジュリ」としてはちょっと、みたいな。まあ、そもそもそういう気持ちでつくっていないと言われたら、それまでなんだけど。
杵渕:あと、好きな場面だと、初夜のシーンと、最後の葬列のシーン。初夜のシーンは、暗転して、ロミオが「気持ちイイ~」とかマヌケに叫んで(笑)、そこに『マンガ日本昔ばなし』の「にんげんっていいな」が流れますよね。
水牛:いいな、いいな、人間っていいな(と歌う)。
杵渕:『日本昔話』の曲もそうだけど、俳優陣は、パンパンと手拍子をする。「いいないいな」のサビのところだけ若干照明がつくと、ロミオ以外の俳優が、ジュリエット含めて、しらーっとロミオのスケベを鑑賞してる(笑)。あの妙に白けた感じがよかったなー。パンパン、は、まぁ、スケベのパンパンでもあるけど、それは最後の葬列シーンに流れる「幸せなら手を叩こう、パンパン」の手拍子と、オーバーラップしてくる。死の暗さを、生命の肯定の記憶で攻めていく、すんごいウマイ演出だと思った。でも、だったら、もうちょっとロミオに気持ちを入れられるようにしてよ~、って思うんですよ。あのキャストのロミオはやだー。
水牛:配役か。
杵渕:配役っていうか、最初から衣裳が女装だし。台車に乗って赤い縄を持ったジュリエットに手繰り寄せられるシーンは、おもしろいけど、お笑いでしょう。もうちょっとロミオの精神的な側面も見せてほしいんですよ、三条会なら。
水牛:それはあの俳優であってもってこと?
杵渕:あの俳優であっても。昨年、『近代能楽集』で橋口さんの役者姿を何度か見たけど、今回のロミオよりはマトモな人に見えましたよ。
芦沢:あれ何で台車に乗ってたのかな。糸で引っ張りたかったから?
水牛:引っ張りたかったからでしょ。
芦沢:つまり赤い糸というアイデアが先にあって、それが引っ張られるということか。
杵渕:あれはロミオお立ち台で、不安定でしたね。ロレンスから薬をもらうところでももらえないで。(この演出ではロレンスから薬をもらうのはジュリエット、キャピュレット、キャピュレット夫人で、台車に乗ったロミオも手を出したがもらえなかった)。ロミオを徹底的におかしくしてましたよね。おもしろい人というか。
芦沢:「四季のうた」も歌ってましたね、朗々とというか、ヘタというか。衣裳も変だけど、お鉢みたいのを持っていたのが托鉢僧みたいで。で、本を読んでみたらパーティーの場面でジュリエットに自分は巡礼だって言うのがあって。それが出典かなと思ったりしましたけど。お鉢も変だけど、最初から包丁も持って出てくるロミオだからねえ。
杵渕:とにかくあのロミオをなんとかしてほしいなあ。あれだけが舞台で思い出したくない記憶の一つって気がするんですけど。キュピレットの父役のサカキさんが「ミュージックスタート」と言うと、ナツメロ系の音楽が流れて、「聞くだに古いわ」と釘をさす。流れたのは安室の「CAN YOU CELEBRATE」と…。
芦沢:「日本昔ばなし」「四季のうた」「涙くんさよなら」、初夜のシーンが安室。「幸せなら手を叩こう」が最後の場面で使われてた。
杵渕:でも『ロミオ…』を漠然と覚えてるだけの人だとついて行けないと思う。物語がちょっと進んでは、パーティーシーンに回帰して「ミュージックスタート…聞くだに古いわ」、を繰り返すんだもん。
水牛:それはシモキタの客層をある程度見込んでというか。それはやはり、ああいうひねりがあった方が喜ぶでしょ。
杵渕:そういえば、南房総の『ロミオ…』は、オーソドックスに進行する演出だったけど、こんな悲恋がありました、というナレーションの、モノガタリらしさに重心を置いた終わりかただった。今回のザ・スズナリの『ロミオ…』も、昔の物語だ、聞くだに古い音楽だ、と、反語的に「昔話にすぎない」のを確認しているのかも。実は、聞くだに古い話こそ、今も古びない物語である、と。
水牛:まあ、そうかもしれないですね、それは。それは素直な解釈かもしれない。
芦沢:聞くだに古いって、シェイクスピアのセリフにはないんだけれども、わざと言って反語的に強調していると。

もったいない、おもしろい

水牛:ふつうにやれば必ず泣けるところを泣けないようにした感じはします。配役が誰であれと言うと極端だけど、愛情と、それがすれ違って死んじゃったってところを丁寧に描けば、あとはどんな演出でも泣けると思いますよ、この芝居っていうのは。
杵渕:そうかなあ。
水牛:だって、職人に徹して書かれていますよ。それだけが目的と言っていいくらいに。
芦沢:すると今回の「ロミジュリ」は、知的に刺激は受けたけれど泣けなかったという結論ですかね。
杵渕:別に泣かなくてもいいけど、チラシのコピーの「ロミオとジュリエットという人がいました。二人とも恋をしました。もしかしたら1人だったのかもしれません」という文句と、今回の芝居は違いすぎます。「1人だったのかも」というのは演出のプランで、それを軸に今回の演出が構築されたのかもしれない。でも、それと仕上がった作品に関係性がなさすぎる。好きな場面もいくつか見つかったし、出てきた結果を、お客はただ愛でればいいのかもしれないけど、あのお笑いロミオは、なんとかしてほしいなぁ。
芦沢:というのが結論か。結局、杵渕さんは3人が円陣をつくるところ、それと、初夜と葬列と、じゃあ、最後の場面はいちおう感動したんじゃない?
杵渕:うん、感動はしたんですよ。ただ、ロミオがねえ(笑)。ジュリエットのセリフを全員が分担するなら、ロミオのセリフも何人かに言わせるとか、どれがロミオかジュリエットか、本当に分からなくなるとか…。
芦沢:でも、それじゃ、芝居にならないもん。
杵渕:だけどロミオのセリフ、パリス役なら分担できますよ。今回のパリス役は、舞台に出っぱなしでぶらぶらしてたでしょう。
芦沢:あ、そういえば今回はパリス役の中村岳人さんが少ししか出てこなくて、もったいなかった。あ、もしかしたら、ロミオをあの人がやればよかったのかもしれない。
杵渕:どっちもどっちかなぁ(笑)。でも今回のパリス役の中村さんは、ロミオ橋口さんに比べたらよっぽどふつうな人で、ジュリエット、パリスに行けよって感じ(笑)。
芦沢:中村さんがロミオをやっても、あの恰好をしちゃうと同じかもね。
杵渕:あの恰好、女装のロミオということは、案外、女の子の気持ちが分からなるロミオだったりして(笑)。それにしても、パリスの中村さんはもったいないな。活躍してほしかったな。
芦沢:私がおもしろいと思ったのは、ク・ナウカのあの人形振りですね。馬鹿みたいなところでおもしろがって、スイマセン。
杵渕:ティボルトはク・ナウカ客演だったんですか。ジュリエットがパリスに嫌々面会する場面で、死体になってたティボルト役を、木偶人形みたいに無理矢理立ち上がらせて、パリスと会話させるところですね。三条会って、メチャクチャなセリフのザッピングで、ある役者がある人格を受け持つ、という定式を壊したところに笑いどころを持ってくるのかも。でも、演劇って、シェイクスピア当時の劇団でも今の劇団でも、その芝居に出ている役者はすべて、相手役のセリフはもちろん、他の役のセリフや感情も、けっこう知り尽くしながら繰り返し演じていく。だから、今回の三条会の、「ロミオとジュリエットという人がいました…もしかしたら1人だったのかもしれません」っていうのは、ある意味不自然でもないのかも。でも、あの女装のロミオはないよね~(笑)。「ジュリエットとジュリエットとジュリエット…」くらいジュリエットに気合いがはいってるのに、ロミオがお留守、って感がぬぐえないんですよ。
(2009年3月1日、西東京市・ワンダーランド編集部)

(注1)「演劇にはまだやれることがいっぱいある」(三条会・関 美能留インタビュー 聞き手:松本和也 インタビューランド 第2回 )
(注2)2007年3月24日、南房総市シェイクスピア・カントリー・パーク シアターホール(ローズマリー公園)で上演された三条会の『ロミオとジュリエット』。
(初出:マガジン・ワンダーランド第132号、2009年3月25日発行。購読無料。手続きは登録ページから)

【出席者略歴】
水牛健太郎(みずうし・けんたろう)
1967年12月静岡県清水市(現静岡市)生まれ。高校卒業まで福井県で育つ。大学卒業後、新聞社勤務、米国留学(経済学修士号取得)を経て、2005年、村上春樹論が第48回群像新人文学賞評論部門優秀作となり、文芸評論家としてデビュー。演劇評論は2007年から。そのほか村上龍主宰の「ジャパン・メール・メディア(JMM)」などで経済評論も手がけている。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ma/mizuushi-kentaro/
杵渕里果(きねふち・りか)
1974年東京生まれ。演劇交友フリーぺーパー『テオロス』より、演劇批評を書き始める。ほか『シアターアーツ』にも掲載あり。保険のテレアポ。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kinefuchi-rika/
芦沢みどり(あしざわ・みどり)
1945年9月中国・天津市生まれ。早稲田大学文学部仏文科卒。1982年から主としてイギリス現代劇の戯曲翻訳を始める。主な舞台「リタの教育」(ウィリー・ラッセル)、「マイシスター・イン・ディス・ハウス」(ウェンディー・ケッセルマン)、「ビューティークイーン・オブ・リーナン」および「ロンサム・ウェスト」(マーティン・マクドナー)、「フェイドラの恋」(サラ・ケイン)ほか。2006年から演劇集団・円所属。
・ワンダーランド寄稿一覧 :http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/ashizawa-midori/

【上演記録】
三条会『ロミオとジュリエット』<第19回下北沢演劇祭参加>
下北沢 ザ・スズナリ(2009年2月18日-22日)

原作:W・シェイクスピア
演出:関美能留
出演:大川潤子 榊原毅 立崎真紀子 橋口久男 中村岳人 渡部友一郎 寺内亜矢子 牧野隆二
料金:前売3,300円 当日3,500円 学生2,500円
制作:久我晴子

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