◎待ったなしで台詞が飛んでくる 「間」は徹底して削がれて
小畑明日香(慶応大生)
あーおもしろかった。圧倒されるんじゃなく、笑いたいとこで笑えて、終始伸び伸びとした気分で見られた。こういう演目があるから芝居はやめられない。
小劇場レビューマガジン
◎待ったなしで台詞が飛んでくる 「間」は徹底して削がれて
小畑明日香(慶応大生)
あーおもしろかった。圧倒されるんじゃなく、笑いたいとこで笑えて、終始伸び伸びとした気分で見られた。こういう演目があるから芝居はやめられない。
◎最後に付け加わった衝撃シーン 「陰翳礼讃」の世界はどこにもない
今井克佳(東洋学園大学准教授)
「春琴」には二度、足を運んだ。一度目はプレビュー2日目。初日は開演時間が一時間遅れたと後に聞いたが、この日は10分程度の遅れで始まった。
◎身体と言葉‐陰翳のポリフォニー
芦沢みどり(戯曲翻訳家)
谷崎潤一郎は『春琴抄』の冒頭を、<私>が大阪市下寺町にある春琴の墓を訪ねて行く場面で始めている。『鵙屋春琴伝』という架空の原テクストを設定した谷崎は、たまたま入手した小冊子の内容を紹介するという形でこのあと春琴と佐助の物語を展開させて行く。したがって冒頭部分は、墓参りをしている<私>(たぶん谷崎)が物語の作者ではなく解説者であることを読者に印象づけるためのプロローグなのである。さらにこの小冊子は春琴の弟子であり事実上の夫であった佐助が晩年に、そばに仕えた鴫沢てるに話して書き取らせたものであることまでほのめかしている。なぜ谷崎は物語を語るのにこのような複雑な構造にしたのか? それについて岩波文庫版『春琴抄』の解説者である佐伯彰一は、「谷崎流の語りの戦略」だと言っている。一人語りでは当然、語られる知識の内容が限定せざるを得ない。これはその視野の狭さを解消して語りにさまざまな声を取り込むための仕掛けなのだという。つまり作者、解説者、物語の語り手という複数の声を投入して一人語りを多彩なものにする装置というわけだ。
◎足の裏とリアリティの複数性
伊藤亜紗(ダンス批評)
神村恵カンパニーの作品について何度か書く機会をいただいているが、今回の『どん底』については、神村自身の体について書きたいと思う。というのも、5人の女性ダンサーによって踊られた今回の作品は、並んだ時にひとり神村だけ頭一つ分背が高いという見た目の際だち以上に、カンパニーで活動を始めて以降の神村が、抑制してきた、ないし挿入的な役割しか与えてこなかった、地面を蹴るような激しい動きに、積極的な役割が与えられていたからである。つまり、神村の体がどうしようもなく抱え込んでいたある種の動きが、素直かつ忠実な仕方で解放されており、5人のダンサーが、それぞれの体なりの仕方で、その動きの論理を遂行しているように見えたからである。
◎3つの仕掛けは東京地方公演を福岡にいる気分にさせてくれた
大和田龍夫(大学講師)
2005年の再演となったこの芝居には、普通の芝居に慣れた者には意表をつく3つの仕掛けが待ち受けていたのである。
◎新鮮な風は勢いがあって冷たい 破壊力抜群の再演舞台
小畑明日香
西日本福井県の、原発事故を一応下敷きにしている。一応、だ。だって鹿殺しだから。
前回見た『SALOMEEEEEEE!!!』でも強く感じたことだが鹿殺しの話は神話っぽい。
日本の戦後とギリシャ悲劇がちゃんぽんになった世界観で、登場人物の名前も手伝ってどことなく寓話っぽい。
◎「死」をテーマにした連作コント集 持ち味出した水野美紀と河原雅彦
大和田建夫(大学講師)
テレビから舞台へその活躍の場を変えてきた水野美紀が脚本家と演劇ユニットを立ち上げたという不思議な舞台を見る機会に恵まれた。テレビタレントが様々なサイドビジネスをする例はあれども、テレビタレントがお金を儲けると副業としてレストラン経営などをする人が多いそうで、それをとあるタレントは、そんなノウハウも経験もないことに手を出すくらいなら、映画監督をやった方がまだ似たジャンルのことをやっているのだから、許されてもいいのではないか?というようなことを言っていたのを思い出した。
◎頭が下がる演出力 錯綜した長丁場を長い暗転なしで走り通す
岡野宏文(ライター&エディター)
私はパニック症候群である。
劇場や映画館、エレベーターなどの閉じられた空間で、人があふれてくると故なくして甚大な恐怖に襲われ、いても立ってもいられなくなる哀れな人類なのである。群集の中で、ときどき鏡に囲まれた蝦蟇ガエルの気持ちになる。たらーりたらりと汗をかきつつ、このまま気が遠くなって死んでしまうのではないか…理不尽な恐怖と戦い続けているのだ。
◎暗い話でありながらも暖かみ 母娘相克の構図転換の先に
今井克佳(東洋学園大学准教授)
救いようのないストーリーなのに、なぜか見終わった後、しんみりと切なく、登場した二人の女性がどこかいとおしかった。
「ウィー・トーマス」にしろ「ピローマン」にしろ、マーティン・マクドナーの作品にはどこかそういうところがあるように思える。あるいはそれは、マクドナー作品を連続して演出してきた長塚圭史の手腕なのだろうか。
◎「熱の伝播」から「出会う奇蹟」へ アーチスト集団が仕掛ける「破壊」
伊藤亜紗(ダンス批評)

ヴィトンのバックをひっさげ、すらりとのびた長い脚で仁王立ちする金髪ギャル・エリイ。顎をツンとかたむけてポーズを決めているようでも、細い体とはにかんだ笑顔のせいでどこかあどけなさを残すアムロ・プリクラ世代の彼女だが、Chim↑Pomは、そんなエリイを紅一点のミューズ的存在とする男5人女1人の計6人から成るアーティスト集団である。「アーティスト集団」という活動形態が美術の分野ではそもそもめずらしいといえるが、その数が「6」もいるというこの半端な多さこそ、Chim↑Pomの作品を面白くする仕掛けであるようにみえる。