「春琴」(サイモン・マクバーニー/演出・構成)

◎最後に付け加わった衝撃シーン 「陰翳礼讃」の世界はどこにもない
今井克佳(東洋学園大学准教授)

「春琴」公演チラシ「春琴」には二度、足を運んだ。一度目はプレビュー2日目。初日は開演時間が一時間遅れたと後に聞いたが、この日は10分程度の遅れで始まった。

サイモン・マクバーニーの「コンプリシテ」と世田谷パブリックシアターの共同製作作品としては、2003年と2005年の「エレファント・バニッシュ」(村上春樹「象の消滅」他が原作)に続く2作目であるが、構想自体は、第1作目より古く、10年越しの企画なのだそうだ。前作が現代日本の電光のあふれる都市東京の感性を作品化していたのに対し、今回は谷崎潤一郎の「春琴抄」「陰翳礼讃」を用いて、古い日本の「陰翳」を美とした感性を、「春琴抄」のストーリーとともに舞台化している。

1回目の観劇の印象は次のようなものであった。

めくるめく光の明滅とマルチメディアと俳優の身体を駆使したイメージに満ちあふれていた「エレファント・バニッシュ」に比べて、「闇」の世界観を扱うのだから当たり前であるが、かなりおとなしい演出であり、その点での驚きは少なかった。少女時代の春琴を人形で表現した文楽の手法から来る演出も、その他いくつかのアイディアも、決してオリジナリティーの高いものばかりではない。これはどこかで(たとえば来日した別の外国演劇で、あるいは国内の小劇場で)見たことがあるのではないか、と考えてしまった。

映像の使用法も、ただ一葉のみ遺されたとされる春琴の写真や「春琴伝」の文字面を、舞台背景に大きく映し出すことが多く、オリエンタリズム臭さを感じさせ、むしろうるさく思われることもあった。

にも関わらず、淡々とした語り口のままの二時間弱、舞台に観客の目を釘付けにし、集中させてしまう力はいったいどこから来るのだろう。一度目の観劇の後に考えたことはまずそれだった。

たとえば、それは白熱電灯の時代や蝋燭の時代の、夜の室内の光と陰影を強く実感させる照明のあり方にあるのかもしれない。また、たとえば俳優が闇の中に正座した姿を、その役の墓に見立て、傍らの松の枝を、やはり俳優の持った木の棒の重なりで表現する、谷崎が春琴と佐助の墓を訪ねるシーンなどは、しみじみと心に沁みいる気がした。アイディアは似たものがあったとしても、圧倒的にセンスがよく、想像力をかき立てるのである。

それは、やはり10年間という長い時間をかけて、サイモンとスタッフ、そして日本の俳優たちが、谷崎潤一郎のテキストと対峙し、作品化しようと格闘してきたことの現れなのではないか、と今は推測している。テキストへの接近度、理解度の深さが圧倒的に深いとともに、舞台にはそれを表現する比喩的手法が満ちているのだ。

また、「春琴」の上手さは、現代的な感性から、谷崎の時代の感性へ、さらに谷崎が古き良き日本の感性とした「陰翳礼讃」の時代へと、何種類も語りを重ねて、観客の感性を誘導していく、その周到さにあるのではないかとも思う。

冒頭、舞台上に一列に現れた素の俳優たちのなかで、後に年老いた佐助を演じるヨシ笈田がおもむろに、現在自分が75歳であり、自分の生まれた年に「春琴抄」が書かれたこと、そして当時の自分の父や人々の暮らしの記憶を語り出す。この語りから、背景の黒い壁が後ろに引き初め、昭和初期の空間が広がりだし、笈田は笈田の父の服装になり、さらに年老いた佐助へと変貌していく。この佐助の語りが作品の語りの一つとなる。

その後、いったん時間は現代に戻り、立石涼子演じる声優が、ラジオドラマか何かの収録のために、京都の録音スタジオらしきところ(なぜかこのスタジオは陰翳礼讃の世界のように暗闇に満ちているのだが)に現れ、「春琴抄」朗読の録音を始める。立石の元には不倫相手らしき男性から携帯に連絡が入り、その会話により、観客は劇のほぼ中盤で、現代の時間に引き戻され、ちょっとした心理的なブレイクを味わうことができる。

これら二つの語りに加えて作家谷崎潤一郎(瑞木健太郎)も舞台に現れ、物語の推移を見つめたり介入したりする。

こうした何重にも重ねられた語りによって、現代日本とは文化的にも価値観としてもかけ離れた「春琴抄」の世界を、演出家は現代日本と接続させているのである。現在老人である人の父の時代の作品、そして、現代人の性愛ともどこかつながりがあるのかもしれない倒錯した愛の世界。観客にそう感じさせることによって、マクバーニーはこれがわれわれの父祖の時代の物語であることを、皮肉にも改めて思い出させてくれる。

立石の電話での会話は、最初に観た回では、物語を切断してしまい興ざめな気がしたのだが、二度目の観劇(2月29日)には、内容がマイナーチェンジして、受けもよくなり春琴と佐助の特殊な愛の関係と現代人の愛とを接続させる意味を果たすように変わっていたように思う。この日のポストトークで立石は、自分のセリフを演出家と相談して何度も練り直している、と語っていた。

俳優の力もこの作品にさらなる魅力を与えていた。春琴の声を演じ、最終部では春琴その人になる深津絵里の、その声の表現力の見事さ。若き日の佐助を演じるチョウソンハの抑制されながらも無邪気さのある演技。ヨシ笈田の味のある存在感、そして前述の立石涼子の語り口の安定した柔らかさなどが特に心に残る。

しかし二度目の観劇で最も驚いたことは、最終部にシーンが一つ付け加えられていたことだ。立石涼子のスタジオからの退場の後、背景を覆っていた黒い壁があがっていき、明るい光のなかに、登場人物たちの後ろ姿が逆光のシルエットになり消えていく。再び黒い壁が下りてくるが、そこには劇中で春琴が教えていた三味線が一竿おかれている。三味線は大音響とともにつぶされ、割れてこなごなになってしまう。

現代日本人を周到に古き時代の感性に導いたマクバーニーだが、最後の最後で、そんな世界はもうどこにもない、と旧い日本的感性と現代日本の断絶をショッキングに形象化して見せた。この最終シーンは、装置などの遅れから、二度目の観劇の一日前に初めて組み入れられたとのこと。このシーンによって、作品の完成度は飛躍的に向上し、ひきしまった幕切れとなったといえる。

世界初演である今回の「春琴」は、やはりプレビューから正規の公演期間を通しても、手直しされ、完成度を少しずつ高めていったのだといえる。二度目の観劇はまだ中盤で、その後数日公演期間は残っていたが、マクバーニーは別件で帰国したとのことで、ほぼ最後のシーンが出来上がった時点で今回の完成型となったのではないだろうか。

具体的な公演計画は決まっていないようだが、「エレファント・バニッシュ」同様、日本やロンドンはじめ世界各地でのさらに練られた形の再演を期待したい。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド 第86号、2008年3月19日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
今井克佳(いまい・かつよし)
1961年生まれ、埼玉県出身、東京都在住。東洋学園大学准教授。専攻は日本近代文学。演劇レビューブログ「Something So Right」主宰。
・wonderland 寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/imai-katsuyoshi/

>>上演記録


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください