チェルフィッチュ「フリータイム」

◎「希望の根拠」に連帯の契機はあるか?
松澤裕作(東京大学助教)

「フリータイム」公演チラシ岡田利規は政治的な劇作家である。彼は、前作「エンジョイ」を「プロレタリアート演劇」と称して憚らなかったし(注1)、「三月の五日間」が岸田賞を受賞した際も、「世界が平和なら、この作品はアクチュアリティを持ちません。」(注2)と述べていた。そのことと、チェルフィッチュに特有の方法とを、切り離して考えるべきではない。

本作「フリータイム」の主題は、自由、とりわけ内面の自由、である。毎朝出勤前ファミレスで30分を過ごす女性、その女性がその30分の間に確保する内面の自由が、現在的労使関係において持つ意味が、そこでは浮かび上がる。

それでは方法のレベルにおいて、本作は前作までとどのような相違があるか?
チェルフィッチュ特有の、言語と身体の関係が維持される一方で、これまでの、ある人物の行動について、別の人物が報告する、あるいは報告しあううちに人称が融解してゆく、という方法から、ある人物が自らの思念(「妄想」と言い換えてもよい)を記述するうちに人称が融解してゆく、あるいはある人物(たとえば件の女性)の「思念」を、別の人物(たとえばファミレス店員)が「思念」することのうちに人称が融解してゆく、という方法へのシフトが認められる。このような「思念」の記述という行為は、すでに「目的地」において部分的に行われていた(猫の行方についての妻の思念、妻の浮気についての夫の思念)。「フリータイム」においてはそれが全面化したと言うこともできる。

ファミレスで出勤前の30分を過ごす女性は、この30分を1時間に伸ばすことは、あるいは1時間半に伸ばすことは可能であろうかと繰り返し自問自答する。そして、もしかすると自分がファミレスで30分余計に過ごすことによって遅刻することは、実はまったく職場で問題にならないかもしれないという可能性を思念する。思念において、自由は、その現実化の自由をも保留された状態で実在する。しかし、これは「質量転化」的問題である。あるいは30分であれば問題にならないかもしれない。あるいは1時間でも。1日であれば? 3日であれば?

そこに踏み込む以前に、終幕近く、女性は、自分にとって、この30分の自由は、それで十分な自由の確保なのであり、その30分の自由こそが、「希望の根拠」なのだと言う。たしかに、労働時間が量的であるのに対して自由は質的に存在する。自由を現実化する自由が究極的に確保されていることを確認しうるとすれば、その「根拠」の時間的定在は問題ではない。ちょうど、彼女が文章で日記を綴ることを放棄し、ノートにぐるぐると線を書くことでそれに代用しているように。

「フリータイム」公演
【写真は「フリータイム」公演から。撮影=横田徹 提供=precog 禁無断転載】

このような方法上のシフトが生じた理由としては、「表象」をめぐる問いの深化があった、ということのようである。公演パンフレット掲載のインタビューにおいて岡田は、「そもそも『フリータイム』で考えているのは、俳優が何かを演じるとか、その役に同化するということはどういうことなのか、そのある種の不可能性とどう徹底して関わるか、という部分です」と語り、「同化できるかもしれないという幻想と、ハナから断ち切られているというのは、俳優に対してものすごく大きな自由が与えられていて、解放的なことだと感じています。」と述べている。ここで、主題的に扱われている「内面の自由」と、方法的なレベルでの「俳優の自由」とが相即的であることが見て取れる。俳優が、同化すべきある対象を表現するのではなく、同化しようのない思念を語ることによって獲得する自由を通じて、「内面の自由」が提示されるという構造がそこにはある。ファミレスの椅子とテーブルの下部が切り落とされ、舞台から生えているかのような装置も、そうした自由を確保するための枠組みを提供する。

第三者の報告という発話スタイルから「思念」の記述というスタイルへのシフトによって、「三月の五日間」や「目的地」に比して、舞台の印象はずいぶんと静かなものになった。とりわけ、「三月の五日間」の一種の祝祭性からは遠く隔たった印象である。

しかし、このようなスタイルのシフトによってもたらされる重大な相違点は、おそらく観客の居場所が異なってくるということではないかと思われる。以前の作品においては、俳優に報告させることによって俳優の身体を現前化させたのみならず、それとの相関関係によって聞き手としての観客も現前化されていた(例えば、客席でかちゃっと音が鳴ると俳優はそちらのほうを振り返っていた)。「三月の五日間」や「目的地」が、「芝居を見る」際の居心地の悪さを感じずに見ることができたのは、報告の聞き手として観客の居場所が与えられていたからである。そこで観客は、この特別な、一度だけの5日間の間に、世界は変えられたかもしれないという希望を、報告者と共有することができた。たとえ、それがまったく根拠のない希望であって、五年後の今日もイラク戦争は続いているとしても。

「フリータイム」においては、俳優が自由を獲得するのと引き換えに、観客は俳優との現実の連帯を喪失してしまう。それを象徴するのが、以前の作品において特徴的だった、開演時の、俳優の「これから××をはじめます」とか、あるいは、終演手前での「これから~っていうのをやって、それで××を終わります」といった発話の占める意味の希薄化である。前二作品においてそれらは観客に一種の高揚を与えていたが、今作品では、終幕の山縣太一の「これで『フリータイム』を終わります」というせりふは、あたかも妄想から覚めたときのような唐突さを感じさせた。それに対応して、「内面の自由」の獲得は、引き換えに、自由の現実化への回路を喪失してしまう。

一度きりの5日間だけではなく、繰り返される30分に「希望の根拠」を求める。そのことには確かにある強度の獲得がある。しかし、確実な「希望の根拠」を手に入れることは、逆に「希望そのもの現実化」からは遠ざかってしまうことではなかったか?
とはいえ、そのおそらくは不可避の問題へと向かう岡田の姿勢は決然たるものである。それは、一歩の前進が同時に一歩の退却であるような過程であるほかないのかもしれない。30分の希望の根拠をもって、岡田はどこへゆくのか?

注1)チェルフィッチュブログ2, 2006年12月6日
注2)同上、2005年2月7日

【筆者略歴】
松澤裕作(まつざわ・ゆうさく)
1976年7月東京都生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程中退。東京大学史料編纂所助教。専門は日本近代史。

【上演記録】
チェルフィッチュ「フリータイム」
http://chelfitsch.net/next_performance/2_2.html
Super Deluxe(六本木)2008年3月5日(水)~18日(火)

作・演出:岡田利規
出演:山縣太一 山崎ルキノ 下西啓正 足立智充 安藤真理 伊東沙保(出演俳優のプロフィール)
舞台美術:トラフ建築設計事務所(鈴野浩一、禿真哉)
音楽:小泉篤宏(サンガツ)
照明:大平智己
音響:牛川紀政
舞台監督:仲條正義
宣伝美術:仲條正義
制作:中村茜 但馬美菜子(プリコグ)
主催:チェルフィッチュ
国際共同制作:KUNSTENFESTIVALDESARTS08, Wiener Festwochen, Festival D’Automne
企画・制作:precog

◎ポストパフォーマンストーク
・3月10日(月) 東浩紀×岡田利規
・3月12日(水) 大谷能生×佐々木敦×岡田利規
・3月13日(木) 飴屋法水×岡田利規

料金:(日時指定 入場整理番号付き自由席)
前売 ¥3,500
当日 ¥4,000
学生前売 ¥3,000(入場時に学生証を提示のこと)
*セット券(フリータイム+特別イベント3/11)¥5800(プリコグWEBのみ取扱い)

■北九州公演
北九州芸術劇場小劇場(4月4日-5日)
料金 一般2000円
学生1500円(当日各500円増し)


「チェルフィッチュ「フリータイム」」への1件のフィードバック

  1. ピンバック: パンセ・ポンセ

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