<クロスレビュー 第4回> チェルフィッチュ「フリータイム」
チェルフィッチュの2年ぶりの新作「フリータイム」が東京・六本木のライブハウスSuper Deluxeで開かれました(3月5日-18日)。昨年参加したブリュッセルの芸術祭「クンステンフェスティバルデザール」で注目され、ブリュッセルをはじめウイーン、パリの芸術祭との共同制作で新作が実現。今年は20都市での海外公演も決まるなど、チェルフィッチュの活動は演劇の先端を切り開くパフォーマンスとして高く評価されています。
そこで3月のワンダーランド・クロスレビューはこの「フリータイム」公演を取り上げました。ファミレスに毎朝立ち寄る派遣OLの30分とは-。(★印の5段階評価と300字コメント。掲載は到着順)
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▽木村覚(美学・ダンス批評)
★★★★
労働時間に枠取られる苦痛、ファミレスでのマニュアル対応への戸惑い、思いこみの呪縛……些細だけどチクチクとして終わらないイラダチの累積が、いつものように8割独白で語られる。視線は正確。過度に外側に内側にこだわりすぎる「ぼくたち」の描出には、リアリティ以上に 岡田らしさを感じる。けどそれは必要条件、むしろ音楽家にとっての譜面のように岡田の台詞を解釈=演奏する役者たちのパフォーマンスこそ、ぼくには見物だった。とくに音響ともクロスして演劇がまさに「演奏」となる瞬間など。帯状の舞台を挟んだ対面型の客席は、鏡のように機能し、役者とその奥の観客の身体と(自分の身体と)が地続きであることを反省させた。
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▽伊藤亜紗(レビューハウス)
★★☆(星2.5)
舞台装置が具体的な空間を指示していたせいで、視点のすりかわりが説明的になり、いつもそこにスリルを感じていた客としては、普段よりおとなしい作品におもえた。役者間の対話が比較的少なく、その代わりに、ある役者の台詞を別の役者が反復するときの、逐語度が異様に高まっていた。結果、過剰に自己言及的にみえ、じゃあその「自己」って何かと考えると脚本なのである。印刷されたワープロの文字を一語一句読んでいる人のように、役者がマシーン化してみえる。ATMとか信号機とかがしゃべっている感じ。「に対して、の…」等々の助詞の執拗な言い換えも、「舌ったらず」「だらだら」の口語文というよりは、言い回しの厳密さにこだわる慎重な哲学書みたいだった。
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▽芦沢みどり(戯曲翻訳)
★★★★
岡田利規とチェルフィッチュの海外進出は、美術の村上隆やアパレルのユニクロを彷彿とさせる。共通点? 「チープは美しい」という戦略だろうか。今回は派遣社員の女性が出勤前の30分をファミレスで過ごすという話。それは誰からも拘束されない大切な自由時間なのだ。内心<若者よ大志を抱け>と思いながら観ているうちに、「30分で大丈夫」というセリフを聞いて胸が熱くなる。そうか、「生きて行かなければ」なのだ。同じシークエンスが微妙に切り取り方を変えて繰り返され、人物も途中から誰が誰だか分からなくなる作劇法は、劇にフーガを聴くような効果を与えていた。今回映像は使われなかったが、イメージの残像が映像のように脳裏に映った。
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▽水牛健太郎(評論家)
★★
30分間の自由の中に無限の自由を見ようとするのは、哲学めいてはいるけれど、単に会社にとって都合がいい労働者だとも言える。チェルフィッチュを見てこういう感想を言うと馬鹿に見えるだろうけど、そこに無言の抑圧があるようにも思うのだ。
白い砂に埋まっているかのようなテーブルと椅子、繰り返される同じせりふ、黄緑色の四角い積み木、紙に描かれ続ける円形など、キッチュな意味で「アートっぽい」というところに回収される部分が多すぎる。何かと意味ありげで、隙がない。洗練されているが、豊かな感じはしない。もっと頭悪くてもよさそうなものだが、旗手ともなるとそうもいかないのだろうか。窮屈なことだ。
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▽因幡屋きよ子(因幡屋通信発行人、因幡屋ぶろぐ)
★★
権力に思想統制され、自由な言動ができない国に比べれば日本は自由だ。しかし人を縛る何かはそれぞれあって、ファミリーレストランで過ごす30分に自由を感じ取る女性や、その様子を観察している男性客、ウェイトレスの心象風景に、少し心が痛くなる。息詰る対話を聴きたい、舞台の余韻にたっぷりと浸りたい。チェルフィッチュの舞台は自分の願いをことごとく退ける。情緒や情感、風情や余韻もない。終演後はタッタカ劇場を後にした。しかし舞台から俳優がこちらに向かって、あまり熱心な様子ではないものの、何か伝えたそうにしている。これまでみた舞台よりも今回はその空気を少し強く感じた。そして観劇から数日たって気づいた。登場人物と自分の心が秘かに「対話」していることに。
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▽片山幹生(早稲田大学非常勤講師)
★★★★
徹底した演劇的ミニマリズムによって執拗に反復されるシーンは何とも言えないよどんだ倦怠感に満ちている。しかしこの表現の単調さ自体がすでに語られる物語のすぐれた暗喩となっている。気がつくと私自身も繰返し再現される無機的な日常の中に引き込まれていた。
極めて個人的で特殊に思える現象のディテイルの描写を通して、現代社会のすがたが象徴的に表現されている。現代の都市生活者が抱える曖昧な不安感は、この独創的な演劇的・身体的表現によって、的確なことばを獲得したように思えた。
・wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/katayama-mikio/
▽山田ちよ(演劇ライター)
★★★
ファミレスのテーブルと椅子を上だけ切って並べたような装置は、具体的だが抽象性も感じる。リアルなせりふを言いながら、体の動きは関係ないことをしているのを、この装置が説明しているかのようだ。岡田の特徴とも言えるこの演技スタイルも、他人のことを説明するうち、語り手の主観や感情が紛れ込むせりふも、いつもより洗練されている気がした。自分は自由だと感じられる一人の内面に焦点を当てたことが、影響したのかもしれない。一つの出来事に係わる複数の人の思いを多面的に物語る時の分かりにくさ、現代社会の問題点をえぐるような不快感なども薄く、物足りない気がした。逆に言えば、ごつごつ感や不快感が岡田の魅力だと気付かされた。
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▽高木 登(脚本家)
★★★★
多くのことに感心させられた。方法論。着眼点。美術。いや、感心と言ったら大人しすぎて、わたしは単にいろいろなことが面白かったのだ。開演前、トイレに入ったら下西啓正がふつうに歯を磨いていたのが面白かった。俳優たちがふつうに客席に出入りし、来場した友人知人と旧交をあたためていたのが面白かった。こうした会場の空気があってこそのあのパフォーマンスであるということがわかって面白かった。そして通勤前に三十分、ファミレスでコーヒーを飲むというだけのことから七十五分の芝居が生まれることが面白かった。ここには「発見」のおどろきとよろこびがある。ここでなければ見えないものがある。わたしは、どこにも属さない浮遊する自由な時間を、たしかにこの目で見た。
・wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/takagi-noboru/
▽第二次谷杉(劇作家)
★★★★
他者を意識したひとり言もやっぱりひとり言なんでしょうか? 勅使河原三郎氏を紹介したTVドキュメンタリーでちょっと怖いものを見てしまった。稽古前に画用紙を鉛筆で真っ黒く塗りつぶしている。稽古前の儀式? コンセントレーションとかの実用的な意味のあるトレーニング法なのかも知れない。ファミレスで30分間、160円のコーヒーを飲みながらノートを黒々と渦巻きで塗りつぶす派遣社員を見て思い出した。
「何もやらない度」がまたパワーアップしている。やらないことがパワーアップというのも変な言い方だが確かにそう思える。やらないからと言って何もない訳ではない。これはもしかしてアガンベンが言うところの「潜勢力」なのか。ぐるぐると渦巻きを書くのもやっぱり独り言なんです。
圧倒的な不自由の中の小さなフリータイム。初日から真っ黒ページが増えていくノート。あのノートが30分用のタイムカードに見えてくる。「あぁ、これはお芝居だった」と私もひとり言を言ってみる。
・wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/dainiji-tanisugi/
▽中西理(演劇舞踊評論)
★★★★★
「フリータイム」は、「三月の5日間」などこれまでの作品では相当に複雑だった戯曲の構造がものすごくシンプルになっている。朝、会社に行く前にファミレスに寄って1杯のコーヒーを飲みながら30分だけ自由な時間(フリータイム)をすごしている女性がいる。その時間は彼女にとってささいなことだけれどもかけがえのない時間なんだよ。それが複数の演者によって繰り返し語られる。こんな風に要約してしまうと「なによ、それ」って感じなのだが、こういう言葉では伝わりにくい「そこはかとない空気感のようなもの」を観客と共有できるかどうかというのがチェルフィッチュ(岡田利規)の方法の核心なのではないかと思われてきた。
・wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/na/nakanishi-osamu/
▽西川泰功(学生)
★★★★★
『フリータイム』は二つの自由の方向を示した。一つは自らを捕えている制度からの解放、もう一つは限られた余暇の中に永遠を見ること。どちらの自由がよいかとは問わず、自由の所在を確かめることで自由を配分する。それは主題について語られることから見えてくるというよりも、主題をどう語るか、その語り方から浮かび上がる。中心の一人の女について複数の人が語る。おのずと中心の女(≒自由について)は蜃気楼のように揺らぎ、語る者の心を鏡のごとく映す。そうしてそれぞれの自由が影絵よろしく浮き立つが、ここではそうした語り方の手続きこそが見せられている。自由の分配を確かめる手つき、この手探り の感覚の集積こそが。
▽田中綾乃(東京女子大学非常勤講師)
★★★
チェルフィッチュの斬新だったスタイルもいまではすっかり定着した。特異な身体表現やモノローグ的かつ伝聞形式のセリフ術も役者の計算された身体を通すと心地よくなるから不思議だ。ただし、スタイルが定式化してくると、やはり物語の中身がどうしても問われてくる。
今回は「フリータイム」というタイトル通り、「自由」を巡る、というか、その周辺の物語。しかし、どうもテーマだけが先行した印象を受ける。せっかくチェルフィッチュ特有の手法があるのだから、その手法とテーマとの積極的な連関が意識されるとよかったのではないか。登場人物の状況や心情を当人や他者が説明することであたかも物語を構築しようとする方法、あるいは、規定された身体の動きからはどうしてもはみ出てしまうものとして「自 由」を位置づけられると、作品理解がより深まったように思える。
・wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/tanaka-ayano/
▽小林重幸(放送エンジニア)
★★★★
上演時間80分余りを費やすが、そこで描かれるのは「一瞬」。時間の静止したある空間を360度全方位から多視点的に描いた結果がこのステージである。
その静止した空間の中心にいる女性は自ら何も語らない。周囲の人間が、彼女と彼女を取り巻く時空を妄想しまくる。その妄想は、彼女の無意識とつながっているのだろう。その帰結として、彼女の属性や表層をバイパスして、彼女の存在そのものを描く演劇がそこに立ち上がっていた。それは即ち、彼女のある瞬間の無意識下の無限の広がりを描くようで、この構造が判明した後は、本当にスリリングな感覚を味わった。
・wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kobayashi-shigeyuki/
▽武田浩介(演芸作家・ライター)
★★★★
ちょっとだけ持つ自分の時間。ささやかで、これ以上でも以下でもなくって。でも、日々のサイクルの中で自ら選んだ、「停滞」。それがフリータイム。コトバ、カラダ、それぞれ解放。「シャキっとしろ」もないし、「“~とか”って言うな」とも言われない。ここまでくると、例えば接客中の店員なんて、逆にキッチリしていた方が楽なんじゃないかって思えてきたりもする。て、そう思ってしまうのも自分の硬直性。そこに絶え間なく揺さぶりをかけてくる90分。
舞台上で繰り広げられる自由なアクトだって、「自由に」という枠の中の、ある種支配下におけるものなのかもなんて考えれば、それもまた窮屈かもしれない。そんな無限ループの一里塚。停まることもあるけれど、ま、引き帰すことはなく、新しい道を進んでいくしかない。
それが、生を送るっていうこと。
▽山関英人(演劇ジャーナリスト)
★★★
前かがみになって、ひたすら、円を描く女性が、終演後も気になった。その手に持つペンの軌跡は、秒針にも見えて、時間の経過が、砂が積もっていく砂時計のように可視化され、その結果、舞台上の机やイスが、半分以上も砂で埋まった状態になってしまったかのように錯視した。
女性は辛そうな姿勢を強いられていて、それは、円を描く行為の連続が、毎日、同じことのくり返しであって、将来像を描けない、辛さのようでもあった。その一方で、出勤前に、毎日、ファミレスに立ち寄り、その日々に充足しながらも、何か満たされない、というのがむしろ実像らしく、そんな心境になるのは、本人に問題があるのか、社会に原因があるのか、人間は時間を公平に与えられながらも、不公平な情況になる仕組みがある/をつくる、そんな、現在(いま)を感じ取った。
・wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ya/yamazeki-hideto/
▽捩子ぴじん(ダンサー)
★★★★
舞台の節々に立ち現れたのは、私という観客個人に、観客という制約の中で行使し得る能動性を意識させた時間であった。私が能動的に観客として立ち会うことを選択した時間は、ノートにボールペンの筆跡が渦を巻き、役者が台詞の合間に床に置かれたペットボトルを手に取り口をつける行為の経過に雪崩れ込んで、挑戦的に横たわった。この時間をやり過ごすことはできなかった。私は私自身の能動性を行使して、その時間を意味でやり過ごすことなく、無為そのままにしておくことにした。私はその無為の記憶を持ち帰り、好きこのんで喉につかえさせ、日々の時間を難なくやり過ごしている。
▽松澤裕作(東京大学助教)
★★★★
ファミレスで出勤前の30分を過ごす女性は、その30分の自由こそが、「希望の根拠」なのだと言う。確かに、自由を現実化する自由が究極的に確保されていることを確認しうるとすれば、その「根拠」の時間的定在は問題ではない。それと相即的に、岡田利規は前作までの第三者の報告という発話スタイルにかえて「思念」の記述という新しいスタイルを導入し、そこに俳優の自由を実現しようとする。しかし、確実な「希望の根拠」を手に入れることは、逆に「希望そのものの現実化」からは遠ざかってしまうことではなかったか? 避けて通れぬその問題へと必然的に歩む岡田の姿勢は実に決然たるものである。「特別な5日間」に代わる30分の「希望の根拠」をもって、岡田はどこへゆくのか?
(>>詳細バージョン)
▽広沢梓(学生)
★★★
12月にやっと見ることのできた『三月の5日間』では観客に向かって語られることが、ある程度客観性を持った事実であり、故にそれは「報告」(太田省吾)であった。だが今作では登場人物の勝手な憶測といった個人的な物語だ。誰なのかよく分からない人間が語る奇妙さは相変わらずだが、その内容が他人の推測であると尚更だ。説明的に事実が語られることによって、その出来事から観客は距離を取れるため、反復の多い台詞でも驚くほど程分かりやすかった以前の作品に対して、『フリータイム』では飲み込みにくさを感じた。これがどのように作用しているのかが明確ではなかったが、この飄々とした感じが物語のテーマと相まって心地よくもあった。
▽藤原央登(wonderland執筆メンバー・劇評ブログ「現在形の批評」主宰)
★★
誰かが何かをし、言った事実を、語り手がスライドすることで一般名詞化された集合体を抽出する。今作はそれに、誰かが考えていることを第三者が勝手に想像で追加してその人物像を創り出してゆく。ここにはあるものを巡る一人称のモノローグ世界しかない。
たとえ軽微でも自らが作り出し操作する「自由時間」。毎日を快活に生きるきようとするせめてものクリエィティヴな能動行為が、他者不在となった勝手な言い訳を生み出す素地を生み出す。少しだけ露出したテーブルと椅子の背を堂々と跨ぎ・歩く身体もそれに則っている。テクストと方法がピタリと合致する、この疑いのない絶対の自信に溢れたモノローグ劇のベクトルをこのまま先鋭化して開かれるものがあるのか、疑問に思う。(3 月14日)
・wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ha/fujiwara-hisato/
▽北嶋孝(本誌編集長)
★★★★
ポツドールが凍るような写実に徹し、五反田団が奔放な一筆書き風なら、チェルフィッチュは反復と変奏の細い描線を重ね、とらえどころのない時代相(輪郭や空気感)を「写生」する。執拗な伝聞と引用はその有力な方法だった。しかし今回はしばしば主人公とおぼしきOLの意識へ直に入り込み、ときに自分語りや成り代わりによって妄想の域に達する。出勤前にファミレスで憩う30分が「自由時間」であるかのように-。
床にほぼ埋め込まれたテーブルの上に、全員が素足で上がり込んだり腰を下ろしたり。出来事の地平を「足下」に踏み敷いている。だがファミレス自体は1階が床高の中空で、本体は2階にあると語られる。舞台世界の位置と距離を測るこういう視線が作動している限り、「写生」が陥る手法的洗練という誘惑の罠には嵌らないだろう。
・wonderland執筆一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kitajima-takashi/
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド クロスレビュー特集臨時増刊号、2008年3月21日発行。購読は登録ページから)
【上演記録】
チェルフィッチュ「フリータイム」
http://chelfitsch.net/next_performance/2_2.html
Super Deluxe(六本木)2008年3月5日(水)~18日(火)
作・演出:岡田利規
出演:山縣太一 山崎ルキノ 下西啓正 足立智充 安藤真理 伊東沙保(出演俳優のプロフィール)
舞台美術:トラフ建築設計事務所(鈴野浩一、禿真哉)
音楽:小泉篤宏(サンガツ)
照明:大平智己
音響:牛川紀政
舞台監督:仲條正義
宣伝美術:仲條正義
制作:中村茜 但馬美菜子(プリコグ)
主催:チェルフィッチュ
国際共同制作:KUNSTENFESTIVALDESARTS08, Wiener Festwochen, Festival D’Automne
企画・制作:precog
◎ポストパフォーマンストーク
・3月10日(月) 東浩紀×岡田利規
・3月12日(水) 大谷能生×佐々木敦×岡田利規
・3月13日(木) 飴屋法水×岡田利規
料金:(日時指定 入場整理番号付き自由席)
前売 ¥3,500
当日 ¥4,000
学生前売 ¥3,000(入場時に学生証を提示のこと)
*セット券(フリータイム+特別イベント3/11)¥5800(プリコグWEBのみ取扱い)
■北九州公演
北九州芸術劇場小劇場(4月4日-5日)
料金 一般2000円
学生1500円(当日各500円増し)
水牛健太郎氏のレビューの最後の箇所は、嫌味っぽいし、なにより僕という人格のことを勝手に察したような気になって書いていて、不愉快です。窮屈だなんて決めつけられたら気分悪いですよ。