◎直接的であることと代行すること
清末浩平
前置きをしている場合ではない。ただちに私が観たものについて述べよう。
小さな劇場は壁も床も剥き出しになっている。舞台側の壁際には、廃物めいたさまざまな道具が無造作に置かれており、その内側に、細いひもでアクティングエリアが仕切られている。「私はハッピーだ」と歌う能天気なダンス曲が流れている。舞台奥には配線を露出したモニターがあり、その画面に、世界の各国で踊る人たちの姿が次々に映される。やがて音楽が消え、モニターも真黒になる。男女1人ずつの俳優が舞台に入って来る。「THE MONUMENT/記念碑」という字幕がモニターに映されて劇が始まる。
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唐十郎の劇について今日何事かが語られるとき、かつて唐の提示した「特権的肉体」を初めとする術語群が用いられることほど、陳腐で心そがれる光景はない。唐の『特権的肉体論』が仰々しいマニュフェストとして読まれざるをえない時代のあったことを否認する必要もあるまいが、しかし、同書の中に並ぶ文章がすべてエッセイにすぎぬことは明白であり、ある状況下に置かれたある書き手の瞬発的な反応以上のものを『特権的肉体論』から読み取ろうとする試みは、すべて否応なく誤読となる。実際、書き手であるところの劇作家も、40年も前に書き捨てた例のエッセイを、もはや一顧だにしていないではないか。
先日、私の先輩で休業中(?)の演出家である西悟志氏と会ったとき、彼が「戯曲でなくても、どんなテキストであっても舞台作品として上演することは可能だ」と言ったのを聞いて驚いた。