SPAC「天守物語」「野田版 真夏の夜の夢」

◎演劇は祝祭である-宮城聰小論
 中西理

ふじのくに⇔せかい演劇祭 1995年の阪神大震災とオウム事件以来の日本の現代演劇の流れを形成してきたのは平田オリザの現代口語演劇を中心とした「関係性の演劇」(*1) であった。この流れは2000年代に入り、代表的な作家としてポツドールの三浦大輔や五反田団の前田司郎らを生み、チェルフィッチュの岡田利規の超現代口語演劇へと受け継がれた。90年代半ば以降の日本の演劇を振り返るとそんな系譜が見えてくる。そのことはこれまでもいろんなところに折に触れ書いてきたが、実は90年代には「関係性の演劇」と並んで身体表現を重視するもうひとつ重要な現代演劇の潮流があった。それは「身体性の演劇」で代表的な作家がク・ナウカの宮城聰だった。

 「演劇は祝祭でなくてはならない」。都市生活を営む私たちに必要なのは祭りではなく、この世界がいかにあるのかを静かに見つめなおすような時間・空間であると「都市に祝祭はいらない」という著書で持論を展開した平田に対し、宮城は対照的な演劇=祝祭論を提唱(*2)。感情的な反発ではなく理論的な視座において平田の演劇を批判できる数少ない論客でもあった。
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快快「SHIBAHAMA」in OSAKA

◎震災と「SHIBAHAMA」
 中西 理

 2010年初めの柴幸男「わが星」の岸田國士戯曲賞受賞以来、「ポストゼロ年代劇団」の台頭が目覚ましい。なかでも国内外での活発な活動ぶりで柴のままごと、中屋敷法仁率いる柿喰う客などと並んで、主導的な役割を果たしているのが「快快(faifai)」である。「演劇における遊び・ケレン的な要素の重視」などポストゼロ年代演劇に共通する特徴を持ちながらも快快のあり方はきわめてユニークだ。ひとつの特徴は活動内容が演劇のみならず、ダンス、映像、パーティ、イベント等の企画・制作などと多岐に渡っていることだ。つまり、単に演劇を上演する集団、すなわち劇団ではなく、雑多と思われるそのほかの活動も彼らにとっては単なる余技ではなくて演劇制作と同等の価値を持っているのだ。
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ままごと「わが星」

◎「現在にふれるために未来へ疾走せよ」に乗れないのはなぜか?
  ~ままごと『わが星』を批判する~
 西川泰功

「わが星」公演チラシ 第54回岸田國士戯曲賞を受賞した柴幸男作『わが星』が、三鷹市芸術文化センター星のホールで再演されました。特にツイッター上では、この作品の「褒め言葉」が溢れており、ほとんど「奇妙な」と言っていいほどのその盛況に違和感を抱かずにはいられません。ぼくは、この作品が「新しい」とも「今だからこそ」とも「気持ちいい」とも思わなかったのですが、ただ何かしら感動的なものを含んでいることは確かで、そのことについて書いておきたいと思います。そのために、感動的だと思わない要素を、ひとつひとつ捨てていきたい。ここでぼくが捨ててゆく要素に、多くの人が感動しているのだとしたら、そのことを批判したいからです。そして最後に、この作品の真に感動的だと思われることにだけ、ぼくなりの光を当て、しかしその美点をも作品自体が裏切っていることを付け加えたいと思います。
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劇団扉座「新浄瑠璃 朝右衛門」

◎平面世界を立体化する
 中尾祐子

「新浄瑠璃 朝右衛門」公演チラシ 舞台の意義に真正面から立ち向かった大作に出会った。
 原作がすでに小説や漫画などで発表され、一定の評価を得ている物語を舞台化する際、ひとつキーとなるのは「音」という問題だろう。
 この舞台の原作は江戸時代に死罪となった罪人の首を斬る役人を主人公にした名作漫画『首斬り朝』。作家の小池一夫と劇画家でもある小島剛夕の合作による1970年代の代表作だ。舞台の脚本と演出は「スーパー歌舞伎」の脚本でも知られる劇団扉座の主宰、横内謙介が手がけた。
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演戯団コリペ「Floor in Attic 屋根裏の床を掻き毟る男たち」

◎歴史や伝統見る目も
 西村博子

 久しぶりに“演戯”を堪能した。狭く、今にもずり落ちてしまいそうに床も壁も傾いた屋根裏部屋(美術李潤澤)。そこに働くことを拒んで住んでいる、ボス格の男1(金哲永)と、折あらば取って代わろうとする男2(洪旻秀)、強い方にゴマをすり少しでも得しようとする男3(趙承熙)、何かというと殴られいじめられる男4(金鎬尹)。それに、近所のバーの女で、のち床下の木の根から出現してくる、この家を代々護ってきたオモニのような女神(金志炫)に、ジャンジャン麺の出前(千石琦)。一人ひとりが見ていてほんと楽しく、ゲネと二日目と三日目、3回見ても見飽きなかった。リアルを基調とした男4人の真剣な、だからこそ笑えてしまう演技に対して、麺を配達してきた出前・千石琦の、次第に大きくなっていく身振りは、何と言ったらいいだろう、歌舞伎の荒事みたいに様式化されていて、岡持ちにふんぞり返って大仰に読み上げる注文メモなど、まるで、家取り壊しの強制執行言い渡しだった。
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劇団ユニークポイント「通りゃんせ」

◎日韓の交流は「また」と続く
 中尾祐子

「通りゃんせ」公演チラシ
「通りゃんせ」公演チラシ

 5年に及ぶ日韓の演劇交流の集大成となる舞台とあって、未来への希望を託すような前向きな仕上がりとなった。日本人女性と韓国人男性の結婚をめぐる騒動を、在日韓国人を含めた日韓の俳優22人で描き出した群像劇だ。日本の劇団ユニークポイントと韓国の清州市民劇場の共同制作で実現した。
 劇団ユニークポイントは1999年に結成。2005年に韓国のソウルと清州で公演をおこない、これをきっかけに交流が始まったという。昨年は植民地時代をテーマにした『雨の一瞬前』を両国で上演するに至った。

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鵺的「不滅」

◎罪と罰と、ゆるし
中尾祐子

「不滅」公演チラシ
デザイン・詩森ろば(風琴工房)

登場人物は6人。とある山中に建つホテルに偶然集まった。ただし、そのうち5人が罪に触れる経歴を持っている。どれも近年実際に起き、マスコミに取り上げられた事件ばかりだ。この偶然をありえない設定とは笑えないところに、現代社会の歪みがある。

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チェルフィッチュ「ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶」

◎表現の領域、さらに広げる
中西 理

「ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶」公演チラシ「ゼロ年代(2000年代)」の終わりから、「テン年代(2010年代)」の初めにかけて、演劇・コンテンポラリーダンスに顕著な傾向は2つの領域の境界に位置するボーダレスな表現が増えたことだ。最近のwonderlandレビューでも音楽家・ダンス批評家の桜井圭介氏がダンスの側から神村恵カンパニー「385日」を素材(*1)に「演劇なんだかダンスなんだか分かんないよ」的な演劇やダンスの流行現象を取り上げているが、さらに演劇側の例として快快、東京デスロック、ままごとなど「テン年代」と言われる若手劇団の舞台を挙げることもできる。

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シルヴィ・ギエム&アクラム・カーン・カンパニー「聖なる怪物たち」

◎身体と言葉によって語る、美しき2人の「怪物」
中野三希子

「聖なる怪物たち」公演ダンスにおいて、舞台上で言葉を用いることは難しい。ダンサーは、言葉ではなく身体を表現の媒体として選んだ者たちだからだ。まして、相手は世紀のバレリーナ/ダンサーと言われるシルヴィ・ギエムである。誰もが最高の「身体による表現」を期待するであろうダンサーに、「言葉」を語らせること。この壁をアクラム・カーンは見事に打ち破り、言葉と身体とが密接に絡み合う素晴らしい舞台を見せてくれた。

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維新派「ろじ式」(フェスティバル/トーキョー09秋)

◎小劇場演劇としての可能性垣間見せる
中西理

「ろじ式」公演チラシ維新派の新作「ろじ式」(松本雄吉作・演出)を大阪・難波の精華小劇場で見た。維新派はこのところ野外ないし大劇場の空間で「<彼>と旅をする20世紀3部作」と題して、「nostalgia #1」(2007、大阪・ウルトラマーケット、さいたま芸術劇場)、「呼吸機械 #2」(2008、長浜市さいかち浜野外特設舞台)を連続上演してきた。それは南米や東欧の動乱の歴史を取り上げ、20世紀という壮大な時間の流れをモチーフに物語性を強く打ち出したものであった。今回の「ろじ式」は本公演とは位置づけられてはいるものの、その続きというわけではない。

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