シルヴィ・ギエム&アクラム・カーン・カンパニー「聖なる怪物たち」

◎身体と言葉によって語る、美しき2人の「怪物」
中野三希子

「聖なる怪物たち」公演ダンスにおいて、舞台上で言葉を用いることは難しい。ダンサーは、言葉ではなく身体を表現の媒体として選んだ者たちだからだ。まして、相手は世紀のバレリーナ/ダンサーと言われるシルヴィ・ギエムである。誰もが最高の「身体による表現」を期待するであろうダンサーに、「言葉」を語らせること。この壁をアクラム・カーンは見事に打ち破り、言葉と身体とが密接に絡み合う素晴らしい舞台を見せてくれた。

『聖なる怪物たち(原題:Sacred Monsters)』は2006年9月、ロンドンの Sadler’s Wells 劇場初演。振付はカーンのみならず、ギエムのソロをクラウド・ゲイト舞踊団の林懐民が、カーンのソロをインドの伝統舞踊カタックの第一人者であるガウリ・シャルマ・トリパティが担当している。舞台で生演奏をするバンドメンバーも複数の国を跨ぐ。弦楽器とパーカッション、そしてヴォーカルを中心として、東南アジアの民族音楽のような、北欧の民謡のような、不思議で心地のいい音楽を奏でていた。

幕が開くと、白が基調のシンプルな舞台。 中央のみを切り取ったように空けた壁が、上下から舞台をゆるやかなカーブで覆う。閉ざされた孤高の洞窟か、観客席までを一緒にくるむような柔らかな空間か、という印象だ。

しばらくの静寂。動きが始まるまでの緊張感の後、女性の歌い手が舞台を静かに歩きながら歌い始める。そして、鎖状につながれた鈴に囚われていたギエムとカーンが、ゆっくりと鎖を脱ぎ落とし、身体を解放してゆく。舞台は、全体を通して台詞と踊りを交互に繰り返す形で進む。まずは各々のソロだ。

最初にカーンが、幼い頃のギエムのことを語る。クラシック・バレエという厳格な世界で、彼女にどのような選択肢があったのか。彼女はルール通りにバレエを生きることを拒否し、「自分で答えを見つけ出すこと(注1)」を選んだ、という。彼女のソロは、見つけたその「答え」を示すものであった。伝統に縛られた世界をとうに抜け出した彼女は、鋭く脚を上げて舞台を横切る。武術のような気迫さえ感じられる動きだ。かと思えば、一点に定まり、顔の前に高く脚を上げる。高く上げた片足を徐々におろしながら腰の後ろに回す(敢えてバレエ用語でいえば「アチチュード」の姿勢を取る)のだが、その一連の流れの危ういまでのボディのバランスを、微動だにしない上半身がしっかりと支えている。しかも、これをルルベ(爪先立ち)でやってみせるのだ。しかしだからこそ、そのままフッと次の動きに進む流れが美しい。全身にとてつもない張力が生じている分、次の動きの鋭さが増して全体が力強くなる。ギエムの身体の強靭さを、冒頭からこれでもかというほど目の当たりにした。

同じく、カタックという伝統の世界の中に居たカーンのソロ。最初はたしかめるように床を踏みしめ、だんだんとスピードを増して、下手奥から上手前方へと向かってくる。足裏で床を激しく叩くリズム、それに重なる鈴のリズム。エネルギーを放出するようなギエムのソロとは対照的に、エネルギーを身体に内包し、息を吐く間もないほどにステップを踏み続ける。彼の身体が、リズムそのものなのだ。そして最後は糸が切れたあやつり人形のようにだらりと前に倒れる。ゆっくりと座り込み、脚に巻いていた鈴を外すためにズボンをまくるカーン。グングルと呼ばれる、カタックで用いられるこの鈴を、くるくると外して床に置き、再び語り始める。

彼はインドの神クリシュナを演じる際に生じた自己の中での問いを、ユーモアを交えながら語る。しかしここでグングルを外すのは、彼がカタックの伝統から抜け出たサインだ。この後カーンはギエムと出会い、2人の対話とデュオでの踊りが始まるのである。

2人は向き合い、つないだ手をゆるやかに波打たせる。エネルギーの流れが両者の身体の間で完全に1つになっているかのような、なめらかな動きだ。クリシュナは人間味にあふれた神であり、しばしば「弧を描く動き(注2)」によって表現されるという。ユーモアに満ち、人間味に溢れるカーンと、髪が長く、美しいギエムが作り出す曲線。カーンは「怪物になる」ことで自己の内面にあるクリシュナを表現しようとした。そしてここでは、彼が選べなかったと自身で語る「美しいイメージ」をギエムが支え、同時に、彼の内面にあるクリシュナの本質を補完し合うように、2人が一体となってクリシュナを描いていた。

後半のデュオではギエムがカーンの腰に脚を回し、それのみで身体を支えて、2人が鏡のように上下対照のユニゾンをみせる。下半身の動きを封じ、ほぼ腕の動きのみで踊られるシーンだ。しなやかに左右へ伸ばされる2人の腕の動きの、静けさと厳かさ。作品中、emerveille というフランス語を説明するギエムに対して、カーンは「わからないよ」と答えて観客の笑いを誘う。しかし彼は当然その感覚を知っているのだ。このシーンでギエムと共に彼が見せたものが、まさに emerveille-「何かが本当に美しい時、その美しさを認識できること」を伝えるものだったのだから。

それから再び彼らの動きは加速していき、互いに動きを仕掛け合うようにして作品が進む。時に挑戦的な、時にはチャーミングな、言葉と身体による対話が続いていく。テンポを増す音楽に合わせて2人の笑顔がほころび、跳び跳ねて面白がる子供のような無邪気な表情を見せながら、暗転し、終幕となった。

あれほどにギエムが言葉を語る作品は恐らく初めてだろう。そして、あれほどにただただ楽しそうに踊る彼女の姿も初めて観る。いい意味で弛緩し、壁を少し取り払った、生のギエムだ。しかし彼女が作品中で語る思いは、個人的なものでは全くない。創作過程としてまず行ったというインタビューを経てカーンがそれを共有し、作品に仕上げたのだ。

初演時のプログラムにある Dr Sunil Kothari(注3)のコラムによれば、カタックとはパフォーマーそのものを指す言葉でもあるという。katha とは「物語」を意味し、その語り手が kathak である。kathak はダンサーであるのみならず、語り手でもあるのだ(注4)。アクラム・カーンは、語り、踊るという多面性を持った古典ダンスであるカタックに開かれた可能性を、見事にコンテンポラリー・ダンスの世界に引き込んでみせた。アーティストというもの、コンテンポラリー・ダンスというものが孕んでいる、思考と試行、そして苦悩が、2人の言葉と動きによって舞台上に見えてくる。語られた言葉が、知らず知らず、踊りを裏づけするものとして読めてくる。背景が見えるから、踊りに込められ、言葉にされない彼らの思いを、何倍もよく感じることができるのだ。

ギエムはイタリア語を覚えるために手にしたチャーリー・ブラウンの絵本についても語る。縄跳びをしていて、満面の笑みを浮かべていたのに突然「むなしくなったの」と泣き始めるサリーに、自分も同じように感じることがある、という。好きなこと、楽しいことに没頭していていいのだろうか、と。そしてギエムが考えたのは「間違いではないのだから、ネガティブではない」という答えだ。彼女のような大スターでさえ、むなしさを感じることがある。しかしそのむなしさに対する「ネガティブではないのなら、ポジティブ。そうなんだわ!」という彼女の言葉は、我々にその繊細な内面を見せるだけでなく、勇気を与えてくれたようにさえ感じた。最後のシーンで縄跳びをしているように飛び跳ねながら顔を見合わせて笑い合うギエムとカーンの姿は、このサリーのエピソードを思い出させる。たとえ「むなしさ」が襲ってくることがあっても、彼らは舞台に立つ喜びというものを、この上なく楽しんでいるのだ。

「聖なる怪物」と呼ばれ、パーフェクトであることを期待されるスターの内面を、観客達は知る由も無い。だがこの作品を通して、ギエムとカーンの、アーティストとしての、そして私たちと同じ人間としての感情を、我々観客は垣間見ることが出来たのである。

2005年にギエムがモーリス・ベジャールの『ボレロ』の日本での上演を封印する際のインタビューで彼女は、「観客に他の作品を発見する機会を与えることが芸術家の義務だと考えています。(中略)日本の観客はマッツ・エックやアクラム・カーンの作品などももっと頻繁に観るべきだと思います(注5)」と語った。それからの4年の間にカーンは別の公演で二度の来日をし、いずれも素晴らしい作品を見せたが、日本ではまだ十分な認知を得ていなかったのではないだろうか。しかし今回は、絶大な数のファンを集めるギエムの力によって、アクラム・カーンというコレオグラファーの魅力が改めて、より多くの日本の観客に知らしめられた。今後また彼の作品が日本で紹介され、多くの観客を集めることを、心から楽しみにしたい。
(初出:マガジン・ワンダーランド第173号、2010年1月13日発行[まぐまぐ!, melma!]。購読は登録ページから)

(注1)以下「 」にて引用した台詞は全て、日本舞台芸術振興会主催『聖なる怪物たち』2009年公演パンフレットより。
(注2) 同公演パンフレット、ギィ・クールズのコラムより。(原文:“…prefers to be represented with circular movements. ”
(注3)カタックを含め、インド古典舞踊の権威。本文で触れたコラムはSadler’s Wells “Sacred Monsters” 2006年公演パンフレットより、“Kathak, an open-ended classical Indian dance form”
(注4)原文:“In short, he is a versatile storyteller and a dancer/musician.”
(注5)日本舞台芸術振興会主催「シルヴィ・ギエム最後の『ボレロ』」2005年公演パンフレットより、「シルヴィ・ギエム スペシャル・インタビュー」

【筆者略歴】
中野三希子(なかの・さきこ)
1984年生まれ。東京大学文学部思想文化学科美学芸術学専修課程卒業。第15、16回日本ダンス評論賞佳作入賞。クラシック・バレエを中心に劇場通いを始めるが、在学中の1年間の渡英以後は、コンテンポラリー・ダンス、演劇等、他ジャンルの舞台にも魅かれてやまない。

【上演記録】
シルヴィ・ギエム&アクラム・カーン・カンパニー『聖なる怪物たち
芸術監督・振付:アクラム・カーン
ダンサー:アクラム・カーン、シルヴィ・ギエム
振付(ギエムのソロ):林懐民
振付(カーンのソロ):ガウリ・シャルマ・トリパティ
音楽:フィリップ・シェパード
照明:ミッキ・クントゥ
装置:針生康
衣裳:伊藤景
構成:ガイ・クールズ
演奏:アリーズ・スルイター(ヴァイオリン)、コールド・リンケ(パーカッション)、ファヘーム・マザール(ヴォーカル)、ジュリエット・ダエプセッテ(ヴォーカル)、ラウラ・アンスティ(チェロ)

東京公演:東京文化会館(2009年12月18日-20日)
上演時間:75分(休憩なし)
S席14,000円、A席12,000円、B席9,000円、C席6,000円、D席4,000円、E席3,000円 エコノミー席2,000円、学生1,500円
ビデオ映像:「聖なる怪物たち」から

[大阪公演]12月21日(月)梅田芸術劇場
[松江公演]12月23日(水・祝)島根県民会館
[新潟公演]12月26日(土)新潟県民会館

主催:財団法人日本舞台芸術振興会

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