◎相手の手法へすばやくスイッチ 交換可能性を高めて匿名化
伊藤亜紗(レビューハウス編集長)
手塚夏子にとって、からだについて追求することと、イベントを開くことは、連続した欲求に駆動されている。彼女は「からだの前提を壊したい」とくりかえす。踊る側も見る側もからだをもっている。からだには履歴があり、普段どんな仕事をしているか、どんな椅子にすわっているか、何に緊張してきたか…に応じて、個々のからだは、それ固有の許容範囲や判断基準、正しさを、文字通り「身に」付けている。前提を壊すことは、身に付いているものを服のように脱ぐ作業である。からだそのものは脱げないが、脱げる部分もあり、つまりそのからだのうちの脱げる部分を「前提」と、手塚はそんなふうに呼んでいるのかもしれない。脱ぐため相対化するために、他者流のからだの動かし方の論理を厳密に知るという積極的な観察を一方でおこない、他方、「作品」をつくろうとしないこと、まとめるより可能性を拡散させること、実験精神といえば聞こえはいいが、無一文のような勇気を彼女は持っている。(特に「作品」をつくろうとしない彼女の勇気は崇高である。それは公演が失敗するリスクのことではなくて、観客にショックや不安、ひどいときには吐き気を与えてしまうかもしれない危険な領域までをも、基本的にはエンターテインメントである公演というものに許容させてよいと信じる孤高さである。)
「『玉勝間』という本の中にあるんですがね。「考える」の「か」は発語です。何も意味がない添えた言葉です。とすれば「考える」は「むかえる」だ、と言うんです。「むかえる」の「む」は「身」です。身はこの身体です、自分の体です。そして「かえる」の古語は「かう」です。「かう」って言葉は交わるって意味でしょ。だから「考える」とは、自分の身が何かと交わるってことなんです。」
久しぶりに人に教えたくないほどのパフォーマンス / パフォーマーに出会った。
5月のクロスレビューは、阿佐ヶ谷スパイダースの新作公演「失われた時間を求めて」を取り上げます。雑誌のインタビューで主宰の長塚圭史自らが「これまでのスパイダースファンが見たら戸惑うだろう」と語っている「不条理劇」(「シアターガイド」6月号)。「今秋から1年間日本を離れる」と話しているので、劇団の新作公演はしばらく見られないようです。作・演出は長塚圭史。出演するのは長塚のほか中山祐一朗、伊達 暁に、奥菜恵が加わります。ベニサン・ピットで5月8日から27日までのロングランでした。チケットは即日完売といいますから人気ぶりが分かります。しばしその「不条理」な舞台の多様な映り方をお確かめください。(掲載は到着順)
1980年代以降日本の社会は資本主義の消費文化に全面的に支配されるようになったわけだが、実は消費社会が一番抑圧、管理しているのが身体である。
最近の「エンタの神様」(日本テレビ系列のお笑い番組)はすごい。何がか、というとつまらなさにおいてすごいのである。「爆笑の60分!笑いが止まらない」と冒頭にキャプションがあらわれるのとは対照的に、圧倒的に笑えない60分。以前からそうだったともいえるが、このところ笑えない程度が極まっているように見える。お笑いブーム末期という現状を象徴的に映像化しようと目指しているのか?と勘ぐりたくなるほどに、次々と登場する芸人は、どこかでかつて見たような(そしてもはや誰もがすでに消費してしまった)ネタと形式をなぞってゆくばかりで、ネタの個性はキャラ設定以外ほぼない。笑いのマニエリスム(マンネリズム)。笑えない笑いを笑う。いや、視聴者はもう通常の意味では笑っていないだろう。それでも番組は堂々と続行している。それは大いなる謎だ。その謎において「エンタの神様」は、いま見るに値する番組である(少なくともぼくのなかで)。