百景社「A+」

◎他者に開かれた表現へ 未完であることの幸福
矢野靖人 (shelf主宰)

SENTIVAL!プログラム久しぶりに人に教えたくないほどのパフォーマンス / パフォーマーに出会った。
5月17日(土)、豊島区は北池袋にあるアトリエ atelier SENTIO で開催中の演劇フェスティバル、 SENTIVAL! のオープニングを飾る百景社の「授業」と「A+」という二本立て公演を観劇した。百景社の「授業」も良かったのだが、この、鈴木史朗(A.C.O.A.)演出・出演の「A+」が、実に圧巻だった。 圧倒的な快楽がその場にあった。

レイ・ブラッドベリ「霧笛」の引用に始まり、短いテキストシークエンスの繰り返しが特徴的な、ベケットの「ロッカバイ」をモチーフに、「ロッカバイ」の最後のセリフ「人生なんてくそったれよ」に収斂していく、という一人の年老いた女の人生のドラマ。

劇構成としては、これは後から聞いた話なのだが、台詞についてはコラージュ的に、場の中で「ロッカバイ」から偶然出てくるものを舞台上においていくだけのもので、それが、百景社の女優、梅原愛子の舞踏のようなダンスのようなパフォーマンスと、もう一人、声だけの参加となるA.C.O.A.の制作団体・オフィス瓢の菊池ゆきこ氏。パフォーマーとして鈴木史朗自身、そしてなにより鈴木史朗が向き合い、手触りを確かめつつ進める客席(私たち自身!)との交感のなかから、「A+」の舞台空間が即興的に、しかし実にリアルな手触りを持って立ち上がっていく。

ベケットの「ロッカバイ」はどこを抜き出しても同じような印象のテキストで、例えば、

そしてとうとう
ある日のこと
ついにとうとう
長い一日の終わり
彼女は言った
自分に向かってひとりごと
ほかに誰もいやしないもの
あの女(ひと)もうそろそろやめていいころよ
あの女(ひと)もうそろそろやめていいころよ
ほっつき歩くのは
目をかっと見開いて
あっちやこっち
いろんなところ
他人を探して
自分に似た他人を
自分に似た
ほんの少し似た他人を
ほっつき歩いて
目をかっと見開いて
あっちやこっち
いろんなところ
他人を探して
そしてとうとう
長い一日の終わり
自分に向かってひとりごと
ほかに誰もいやしないもの
あの女(ひと)もうそろそろやめていいころよ
あの女(ひと)もうそろそろやめていいころよ
ほっつき歩くのは
・・・
(サミュエル・ベケット著、安藤信也・高橋康也訳「ベスト・オブ・ベケット3 しあわせな日々 / 芝居」白水社より引用)

というような具合。

「ロッカバイ」は執拗に細かな指定が続くト書きが添えられた、後期ベケットの代表作のひとつ。 登場する人物(といっていいのかどうかもあやしい)は「女」と「目」と「声」だけ。「目」も「声」も象徴的な意味でのそれではなく、

「目」
閉じているときと、まばたきしないで見開いているときがある。第一のセクションでは両者はほぼ等しい割合。第二、および第三のセクションでは次第に閉じているときが多くなり、第四のセクションの半ばでついに閉じたままとなる。

「声」
第四のセクションの終わり近く(「自分に向かてひとりごと」のあたり)から、「声」は次第に弱くなる。ゴチック体のセリフは「女」と「声」が同時にしゃべる。一回ごとに「女」の声はやや弱くなる。「女」の「もっと」も一回ごとにやや弱くなる。
(同「ベスト・オブ・ベケット3 しあわせな日々 / 芝居」)

などという指定があるだけで、つまり本当に具体的に「声」と「目」なのだけれど、 この「声」のセリフを鈴木史朗が、舞台上を所在無げに、時に不敵な笑みを浮かべながら、客席を窺いながら、さ迷うよう浮浪者のように歩きまわりながらつぶやく。

「女」の台詞は戯曲上「もっと」だけなのだが、これが時折、客席から投げかけられ繰り返される。

その都度、パフォーマンスを終えてどこかに逃げ、隠れようとしていたかのような鈴木史朗が諦念のような、快楽に満ちたような影のある表情をニヤリと浮かべ舞台上に戻って、パフォーマンスを再開する。

「A+」公演
【写真は「A+」公演から。撮影=中尾栄治 提供=百景社】

少し余談になるが、帰宅して戯曲を読み直したところまるで、モチーフに、というよりほぼ、全編そのままやってたのでは? というくらいの印象を持った。というか、「ロッカバイ」という戯曲の読後感として、「A+」の印象を抜きにして読めないものになってしまっていた。

(敢えて、その文脈で「A+」のパフォーマンスを“解釈”すれば、梅原愛子のパフォーマンスも「ロッカバイ」の登場人物、終始無言で鈴木史朗を窺い続ける「目」だったのかも知れない。)

そしてある日死んだ
いえ
夜だわ
ある夜死んだ
揺り椅子に坐ったまま
よそゆきの黒い服を着て
頭をがっくり前に落として
椅子はゆらりゆらり揺れたまま
揺れつづけたまま
そこでとうとう
長い一日の終わり
下に降りた
急な階段をくだって
とうとう下に降り
日よけをおろしてどっと
どっと崩れるように
古い揺り椅子に
あの二本の腕についに身を沈め
ゆらり
ゆらり
(中略)
日よけをおろしどっと
どっと崩れるように
古い揺り椅子に身を沈め
ゆらり
ゆらり
そして自分にむかってひとりごと
いえ
それはもうすんだこと
揺り椅子
あの二本の腕にやっと
そして揺り椅子に向かってささやいた
ゆらりゆらりこのひとを眠らせてあげて
このひとの目を閉じてあげて
人生なんて糞ったれよ
このひとの目を閉じてあげて
ゆらりゆらりこのひとを眠らせてあげて
ゆらりゆらりこのひとを眠らせてあげて
(同「ベスト・オブ・ベケット3 しあわせな日々 / 芝居」)

思い返すも実に官能的な50分だった。 圧倒的な快楽が、その場にあった。

この快楽はしかし、いったいどこから来るのか。

繰り返しのテキストは観る者から言葉の意味を読み取ることから解放し、発話する主体の背後にある動機を探らせ、あるいは繰り返されることそのもののを体験させるようになる。鈴木史朗の鍛えられた身体から発せられる「語り」は、綿密に意識化された呼吸法に支えられ、ともに呼吸する空間を、客席にもより濃密に感じさせる。

これはひとえに、優れたパフォーマー(俳優)がいたればこそ、の体験なのだろうか。その可能性は大いにある。偶さか同じ日に、同じ客席に劇作家で演出家の友人が居合わせたのだが、彼は鈴木史朗というパフォーマーを見たのが初めてだったこともあり、観終わって振り返り興奮を隠しきれないまま、「こんなものを見せられたら劇作家はいったいどうしたらいいんだ。」と苦笑した。

彼が驚くのも無理はなく、それゆえ僕も今、この体験をどう言葉に起こしていいか分からず思案に苦しんでいるのだが、この体験、「A+」の観劇体験は実に“演劇体験”としか言えない類のもので、作品としての戯曲や、趣向や仕掛けとしての演出などに還元できない-それらの混然とした圧倒的な1コの体験があったのだ。

この体験に、しかし一つだけ演劇的な方法読解の糸ぐちを見つけるとすれば、カギになる言葉は鈴木史朗が自らの作品にしばしば名づける「共生」あるいは、彼が口にする「交感」という言葉があると思う。

鈴木史朗という人はもともと横浜で活動をしていた演劇人なのだが、いろいろな偶然が重なって、今、那須でアトリエを構え、その地で仕事し、生活をしながら、(最近、田作りまで始めたらしい。)舞台表現を行っている。

彼が言うには、那須のような場所で公演をやっていると、普段、彼の客席には、ほとんど顔見知りの、近所のおじちゃん、おばちゃん、子供たちしかいないのだという。

ところが、そんな状況にもかかわらず、何回かに一回、一人か二人だけ、客席にぜんぜん知らない人が必ずいることがある。

そういう人は決して、開演前や終演後にこちらに話しかけて来たりすることがない。しかし、だからといって「つまらなかったのかな、」と思ってると、そういう人に限って、次の回にもまた客席に座っていたりする。ときにはかえって薄気味悪いくらいなのだけれど、そうなると、しかし、その人のためにも、次もやらなきゃ。という気持ちになる。
そういう観客とは、直接言葉を交わすことはほとんどないんだけど、本番の舞台上でだけはお互いにちゃんと交感が出来ている気がして、だからその人のためにこそ、僕は舞台を続けている。

という話を、以前彼から直接聞かせて貰ったことがある。

自分はここに舞台芸術の本質がある気がして、以来ずっとそのことを考えている。

彼の言葉を借りれば、「あくまで未完であること 場の発見 身体の発見であることが A+の上演価値だと」思っているという。また、自分の作品パフォーマンスに対して「作品」という言葉が自分でもどうも馴染まず、舞台上で、自分の感触を客席と一緒に確かめているような感覚なのだという。当然、パフォーマンスは即興の要素を高く持ち、毎回異なる様相を見せる。たとえば共演者の梅原を評して、鈴木史朗は自身のブログにこう書いている、

彼女の体は
いつも
五里霧中に飛び込んでいきます
完成を潔しとしない体なのです
完成してしまうことへの拒絶
未完であることの幸福
それを皮膚感覚で伝えてきます
いい加減な体裁を持ち込んだ瞬間
バネのようにハネラレマス

演じずに演じ
踊らされずに踊る肉体

それが僕には恐ろしいほど魅力的なのです
(http://blog.acoa.jp/ より引用)

ここにある「未完であることの幸福」とは、しかし単に未完であるということだけではなく、明らかに、都度、客席に向かって無防備なまでに開かれていることを指す。

冒頭、「A+」の舞台空間が即興的に、しかし実にリアルな手触りを持って「客席(私たち自身!)との交感のなかから、」立ち上がっていく。と書いたのは、まさにその状態を指しているのだけれど、

僕は演出家なので、舞台上で観客と直接交流することは出来ないのだけど、そして鈴木史朗のパフォーマンスにはそのことに嫉妬心さえ抱かせるのだけれど、僕も、僕が作る作品もそういった、他者に向かって開かれたものでありたい、と心から思う。

A.C.O.A.はこの6月最終週の週末にも、再び上京、上演する。演目は江戸川乱歩の「人間椅子」。今度は「A+」のように即興性の高いものではなく、一つのお話を一つの身体だけを持って「語る」ものだという。

鈴木史朗が「語る」のだから、ただ「話を聞かせる」だけではきっとおさまらないだろう。いや、むしろ、ただ「語る」だけのスタンダードな行為が、果たしてどれほど魅力的で豊かな演劇的行為なのか。それを十全に体感させてくれるに違いない。

期待している。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド 第97号、2008年6月4日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
矢野靖人(やの・やすひと)
shelf演出家・プロデューサー。1975年名古屋市生まれ。代表作に『R.U.R. a second presentation』(作/カレル・チャペック)、『構成・イプセン ― Composition / Ibsen』(作/ヘンリク・イプセン)、『悲劇、断章 ― Fragment / Greek Tragedy』(作/エウリピデス)等。shelfの他に、2006年より横濱・リーディング・コレクション(共催/横浜SAAC、横浜市市民活力推進局)プロデューサー・総合ディレクターも務める。日本演出者協会会員、(財)舞台芸術財団演劇人会議会員。2008年7月に上演予定の『Little Eyolf―ちいさなエイヨルフ』(原作 / ヘンリク・イプセン)は、shelf二年ぶりの東京公演。

【上演記録】
atelier SENTIO特別企画 SENTIVAL!参加作品
百景社の「授業」A+

「A+」
http://www17.plala.or.jp/hyakkeisya/(百景社)
http://sentival.blog43.fc2.com/(SENTIVAL!特設サイト)

日時:
2008年5月16日(金) 21:00~、17日(土) 21:00~
会場:
atelier SENTIO(アトリエセンティオ)
料金:
A+セット 前売り 3,000円/当日 3,500円
A+のみ 前売り 1,200円/当日 1,500円

構成・演出:鈴木史朗(A.C.O.A.)
出演 :鈴木史朗(A.C.O.A.)
梅原愛子(百景社)
舞台美術:森岡美希

主催:atelier SENTIO/百景社

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