東京デスロック「モラトリアム」

◎あまやかな拷問、あざやかな審問
 綾門優季

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 劇場に入った瞬間、真っ先に脳裏をよぎった、切迫した疑問は、「観客が、ひとりも、存在しない」という、これまで抱いたこともないような焦燥を募らせるものだった。

 もちろん、存在しないわけはなかった。ただ、そう映らなかった。
 そこにいる人間の、だれが俳優で、だれが観客か、区別する意味を、見失ってしまったのだから。

 舞台もなければ客席もない。目の前に広がるのはただただ真っ白な部屋、劇場であることを知らなければ間違いなくそこは部屋、知っていても劇場としての目印を奪われた空間は紛れもなく部屋、どうしようもなくそこは、空白の部屋とでも呼ぶしかない空間だった。
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die pratze「授業」フェスティバル

◎イヨネスコの不条理劇はどう料理されたか?(上)
 芦沢みどり

「授業」フェスティバルのチラシ
「授業」フェスティバルのチラシ

 イヨネスコの『授業』を10団体が連続上演するという催しが、ゴールデンウィークとそれに続く1週間、神楽坂die pratzeであった。「如何に『授業』を料理するか?」という香辛料を利かせたサブタイトル付きのフェスティバルは、2団体を一組にして、それぞれ4回(組によっては2回)『授業』を上演するというメニュー。学校の時間割ふうの公演チラシの表現だと、最初のひと組が01・02限目で4月27日から29日まで。そのあと一日空けて、つまり休み時間があって、次が03・04限目。これが順次繰り返され、最終組の09・10限目は5月11日から13日にあった。このスケジュールは観客にとってもゴールデンウィークに他の予定を入れ易く、結果、筆者は全公演を観てしまった。もっともそれはタイムテーブルのせいばかりではない。10団体のどれもこちらの不勉強で初めて観る団体だったのだが(4団体は地方からの参加、と言いわけしておこう)、ネットで事前に予備知識をインプットする時間の余裕もなく(と、また言いわけ)、いわばまっさらな状態で舞台と向き合うことになったのが、とても新鮮に思えたということもある。
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ドイツ・タンツプラットフォーム2012

◎身体言語の可能性を追求
  岩城京子

ドイツ・タンツプラットフォーム2012
タンツプラットフォーム2012

 旧東ドイツの工業都市ドレスデンの中心地から二両編成の路面電車で北に7キロほど。丘上の温泉宿にでも向かうように山を登り、森をくぐり、果たして大丈夫だろうか、と自分の方向感覚にやや不安がよぎりはじめたころ、ようやく本年のドイツ・タンツプラットフォームの開催本部「ヘレラウ欧州芸術センター・ドレスデン」が建つヘレラウという町に到着する。ちなみにこの町は、かのル・コルビュジェが「ドイツ随一の芸術家により作られた素晴らしき町」と称賛したドイツ史上初の田園都市。巨匠建築家がそう言うのなら、確かに、まあ美しいのかもしれないが、こちらとしてはあまりそんなありがたみはなく、ただなにもないけど緑だけはふんだんにある呑気で小さな町にやってきたなと遠足気分である。そんな小粒な町にて、2月23日から26日にかけて、ドイツダンスの最先端を紹介するイベントは開催された。
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SENTIVAL! 2012 報告 1

◎5年目のミニフェスティバル始まる
梅田 径

はじめに
 板橋駅から徒歩七分、東武東上線の線路脇の小さな路地に「atelier SENTIO」がある。壁面が白い漆喰の壁という劇場で、座席数は三十席ほど。暖色のライトに照らされたときの、壁面の白く淡い暖かさが聖域のように神々しくて、白くて優しい空間と畳敷きの観客席の穏やかな雰囲気。なぜか懐かしいような、頼もしいような、どこかに帰ってきたような錯覚を覚えてしまう。
 atelier SENTIOはそんな優しい魅力のある、僕にとってはほんの少しだけ特別な劇場だ。だからここで行われるフェスティバルには毎年少しだけ不思議な魔力が宿るのかもしれない。
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忘れられない1冊、伝えたい1冊 第2回

◎『道具づくし』(別役実著、大和書房)
 大泉尚子

「道具づくし」(大和書房)表紙
「道具づくし」(大和書房)表紙

 大きな声じゃあ言えないが、演劇やダンスに本は要らないと思って久しい。やっぱり舞台は「やる」か「見る」しかないっしょ。不勉強の言い訳でもあるけど。とはいえ「犬も歩けば」で、出会うものはある。

 さて、劇作家が自らの作品を読み上げる「芸劇+トーク―異世代劇作家リーディング『自作自演』」はどの回も面白かった。なかでも印象深かったのが、第3回に登場された別役実さん。
 直前に腰を痛められたとか、脇を支えられ、やや覚束ない足取りで登壇。心なしか、朗読の声も力がないようで「大丈夫かしら…」と思いきや―。
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ジエン社公演「アドバタイズドタイラント」

◎言葉と音楽の立体交差点で
 梅田 径

「アドバタイズドタイラント」公演チラシ
公演チラシ

 観劇を愛する人なら誰でも、ひいきの劇団がひとつやふたつあるはずだ。とはいっても、その劇団の旗揚げから観続けているというのは稀なケースに入るだろう。名も知らぬ劇団の旗揚げを観に行くには動機がいるだろうし、その劇団がずっと見続けたくなるようになるほど魅力的でなければならない。

 僕が旗揚げからすべての公演を見ている劇団はまだジエン社しかない。僕がジエン社を見続けているのは、単純にジエン社や作者本介のファンである、ということだけではなくてもう少し屈折した理由がある。早稲田大学で凡庸な学生としてすごしていた僕はジエン社を、その前身である自作自演団ハッキネンと重ねてしまうのだ。そもそも「ハッキネンの劇団」という肩書がなければジエン社を観に行くこともなかっただろう。
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「クロストーク150分 最前線の演劇知」(前・後期)

◎熱く語った150分!×8
 伊藤昌男

「クロストーク150分 最前線の演劇知」(後期)チラシ 昨年の4月、東日本大震災の1か月後に始まった徳永京子プロデュース『クロストーク150分 最前線の演劇知』。前期と後期を合わせ、最前線で活躍する8人の劇作家・演出家の話を聞いた。
 それぞれが、確固とした信念と実績に裏打ちされた貴重な話をされ、演劇界に対する思い入れも当然ながら真剣なものであつた。トークは毎回一人のゲストに対し、演劇ジャーナリストの徳永京子さんがインタビユーするという形式で行われた。
徳永京子プロデュース『クロストーク150分 最前線の演劇知』
・前期(2011年4月~2011年7月)岩松 了、長塚圭史、ケラリーノ・サンドロヴィッチ、野田秀樹
・後期(2011年12月~2012年2月)宮沢章夫、松尾スズキ、鵜山 仁、いのうえひでのり
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北九州芸術劇場プロデュース 「テトラポット」

◎再生と歴史、縮尺のマジック
 落雅季子

「テトラポット」公演チラシ
「テトラポット」公演チラシ

 柴幸男の作品はいつも、距離が縮尺によって変化するということを教えてくれる。人の生死、家族の暮らし、物質世界の理を等価に並べながら時間軸と空間を瞬間的に伸縮させ、時に圧倒的な情感を構築する彼の世界は、1センチの至近距離が地図の上では1万キロメートルにもなり得るダイナミズムを孕んでいる。

 そんな彼にとって二年ぶりの新作『テトラポット』は、北九州芸術劇場プロデュースの、あうるすぽっとタイアップ公演シリーズで、現地で活動する俳優らと共に二か月かけて作りあげた作品となる。柴が北九州で創作を行うのは初めてではなく、2010年11月、同劇場のドラマリーディングの企画にて自身の『わが星』を上演しており、そのときから続投している俳優も多く見られた。ここ数年、舞台作品におけるアーティスト・イン・レジデンスは関東以外の地方にも着実に根付き、大きなうねりを形成している。中でも北九州芸術劇場は独自のシリーズ企画を複数持ち、実力、話題性ともに十分な劇作家を選んで共に作品づくりに努める、志の高い公共劇場である。
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震災特別報告

震災が起きたのは2011年3月11日。ワンダーランドは直後から「東日本大震災 (小劇場中心)演劇関連情報」という緊急コーナーを立ち上げ、情報交流の場を設けました。そして1年。なにが起きたのか、いま起きているのか-。震災の前も後も、高校生とともに表現活動・演劇活動に変わらず取り組んできた福島県立いわき総合高校のいしいみちこさんに、この1年を振り返りつつ、現状を報告してもらいました。(編集部)

◎一年目
 いしい みちこ

 今日は3月9日、福島県立高等学校II期選抜試験の2日目だ。
 昨年の今日も入試の2日目だった。昨年とピッタリ同じ日程。だからあの日の丸1年後の明後日も、同じように合否判定会議をして同じように入試業務をするだろう。
 昨年と同じように見えながら確実に違ってしまっている今日。
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地点×KAAT「トカトントンと」

◎トカトントンとドカドカドン
 岡野宏文

「トカトントンと」公演チラシ
「トカトントンと」公演チラシ

 虎は死んで皮を残す、人は死んで名を残す、などということを世間では太平楽な顔をして嘯いたりするわけだが、これは嘘だ。
 といったって、せいぜい犬ばかりを飼ったことがあるくらいで内澤旬子女史のごとくかわいがって育てた豚の子をみずからの手でつぶして食するなんて芸当のできる動物好きでなし、虎のことは分からぬのだ。人である。人が死んで残すのは言葉である。もっといえば人は死して言葉だけしか残さぬ動物なのである。
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