東京デスロック「モラトリアム」

◎あまやかな拷問、あざやかな審問
 綾門優季

1
 劇場に入った瞬間、真っ先に脳裏をよぎった、切迫した疑問は、「観客が、ひとりも、存在しない」という、これまで抱いたこともないような焦燥を募らせるものだった。

 もちろん、存在しないわけはなかった。ただ、そう映らなかった。
 そこにいる人間の、だれが俳優で、だれが観客か、区別する意味を、見失ってしまったのだから。

 舞台もなければ客席もない。目の前に広がるのはただただ真っ白な部屋、劇場であることを知らなければ間違いなくそこは部屋、知っていても劇場としての目印を奪われた空間は紛れもなく部屋、どうしようもなくそこは、空白の部屋とでも呼ぶしかない空間だった。

 あの空間を体験していないあなたに、あの空間にしか発生しない独特の特質を伝えるためにはどうすればいいのか。

 そして今、まるで意図されていたかのように、唐突に思い出す。あの空間で大人気だった、だれかの手からだれかの手へと、とめどなく渡っていったあの本のことを。萩尾望都『11人いる!』の古びた文庫本のことを。あの文庫本を怠惰に読み進めているとき、萩尾望都『半神』に収録されている「スロー・ダウン」という短編が、この空間に酷似しているのではないかということに気づいていた。

「スロー・ダウン」。
 視覚、聴覚、触覚を中途半端に遮断された状態で、真っ白な地下室に隔離される感覚剥奪実験に参加するうち、外から研究者たちに完全にモニタリングされていることさえ忘れていった、自我の薄まりつつある主人公は、安らかに目蓋を閉じて、冒頭でこう言い放つ。

 こんな何もない部屋で人間が何もしないでいるとどうなるか
 これはまるでゆっくりと……
 死んでゆくかんじだ

 みんな、安楽死していくように思えた。あの空間に身を置いているとき、意識が散漫になることを防ぐ方法は、わたしの手元には、いや、誰の手元にも、残されていなかった。

2
『モラトリアム』という公演は、そもそも上演される一ヶ月も前から、思わず絶句してしまうほどの上演時間の長さによって、すでに賛否両論を巻き起こしていた。
 13時から21時まで、8時間。休憩なし(トイレ休憩は可)。再入場は不可(途中退場は可)。
 この過酷な設定に縛られた8時間をどう料理するのか、その一点において、様々な推論や憶測や野次や冗談が、わたしの身のまわりで盛んに飛び交っていたのだ。
 しかし、すべての予想はあっけなく裏切られたことを、入場した瞬間、悟った。

「モラトリアム」公演の写真2「モラトリアム」公演の写真1
【写真は、「モラトリアム」公演から。撮影=佐々 瞬 提供=東京デスロック 禁無断転載】

 観客は一人ずつ入場する。劇場の中は、取り払えるものは出来るかぎり取り払ったと思われる、真っ白な狭い空間で、空間の中央にはダンサーが一人直立している。
 わたしが入場したのは五番目だったので、ダンサーとわたし以外に四人の観客が居たわけだけど、最初は、いや、最初から最後まで、誰かを完全な観客として認識することはままならなかった。壁にもたれかかっているひと、床に寝そべっているひと、隅で縮こまっているひと、そういった姿勢のひとたちをこれまで観客と呼んだことはなかったし、実際、ダンサーにしろ、観客にしろ、同じ空間に身を置いていて、一挙手一投足を誰かに監視されているという状況は変わらないわけで、その意味では誰もが平等に、なにげなく監視し、なにげなく監視される存在だった。しかもそこには数台のカメラがあり、いましがた撮られた映像がそのまま、もしくはいくぶん加工された状態で、壁のあちこちに映され続けていた。そのことも、監視する/されるという意識を、ますます加速させることに貢献していたと思う。
 観客に東京デスロックの役者が交じっていることにも、鈍感なわたしは、ずいぶん後に気づくことになった。それほどまでに、お互いの境界線は希薄になっていた。
 これだけの条件をそろえて、さて、何を起こそうというのだろう。その場に居る全員が固唾を飲んで見守っている。見守り続けている。微動だにしない全員を注目し続けている。しかし、期待は疑問に、疑問は不安に変質する。というのも、ダンサーはしばらくしてから、ゆっくりとあたりを這いまわるのだけれど、這いまわり始めてから相当の時間が経過しても、それ以上のことは起きないからだ。
 何も起きない。
 退屈して寝始めて、起きないひとがいる。
 あまりにも何も起きない時間が無為に過ぎてゆく。
 何も起きない時間は無為なのだろうか、という疑問を抱かざるを得ないほど、長い長い時間のなかに、わたしたちは滞在し続けることになる。

3
 唐突に静寂は破られる。
 思えば、この『モラトリアム』という演劇は、退屈を破る突飛な出来事の連鎖と、出来事が収まったあとに訪れる逃れがたい余韻のあいだを、とめどなく往復することによって、眩暈を催すような混乱へと、わたしたちを導いていた。とめどなく翻弄され続ける地獄へと足を踏み入れざるを得なかったのだ。
 開演から大体一時間が経過したころだろうか、ようやく大きな出来事が起こった。床にほぼ隙間なく敷き詰めてあるスポンジのタイルを突然剥がし始め、それを組み合わせて箱のようなものを作成し、その中にわたしたちを閉じ込めようとする、という現象である。この箱の中はほとんど真っ暗闇で、いったん閉じ込められると、ほとんど視界が閉ざされた状態になる。漏れ聞こえてくる音から、なにが起こっているのか、類推するより仕方ない状況に追い込まれる。いや、仕方ないわけではない。全然、そうではない。その箱の重量自体はとても軽く、簡単に中に入れるように、その箱を自分の力で持ち上げてしまえば、簡単に外に出ていける。だが、なぜか、あの箱の中に入れられてしまうと、なかなか外に出ようという気力がわかない。自分でも不思議なのだけれど、開演からしばらく経ったころには、「この流れを壊してはいけない」という、まるでパフォーマーと共犯であるかのような、妙な意識に縛られていたのだ。もっと簡単にいうと、こういうことになる。
 いっしょに、ノッちゃえ。

4
 開演から四時間が経過したころには、難しいことを考えるような気力は完全に損なわれていた。
 けだるい。どうでもいい。たのしい。うごきたくない。どうにでもなれ。
 それが正直な実感だった。
 それに拍車をかけたのは「毛布配り」だったと思われる。
 要するに「寝れば?」ということである。
 この衝撃は絶大だった。
 しかも、おあつらえむきに、壁際にはPSPやらPS2やら『ゴドーを待ちながら』やら『11人いる!』やらがずらりと並んでいる。
 この衝撃も絶大だった。
「ひまつぶし」をさりげなく強要してくる演劇というものをこれまでに経験したことがなかったからだ。
『東京ノート』の一節を朗読しているのを横目にまどろむ彼女。
 PSPに熱中しながら時折ダンサーの動きに目配せする彼。
 舞台そっちのけで、『再/生』のDVDをPS2で再生しながら、鑑賞しながら、へらへら笑っているわたし。
 じわじわと、いちじるしく、カオスと化していく空間を見守るのは、一部始終を目撃するのは、不思議で、得難くて、新鮮な体験だった。

5
 残り時間も一時間を切ったころ、爆音で流れだしたPerfume「GLITTER」の影響は絶大だった。
 これ以上はないぐらいの退屈に身を浸らせていたわたしたちは、待ってましたと言わんばかりに、ひとり、またひとりと踊り始める。
 ひとり、またひとりと手を繋ぎ始める。
 ひとり、またひとりと歌い始める。
 ひとり、またひとりと笑い始める。
 立ち上がっていないひとはひとりもいなくなり、わたしたちは輪になっている。
 わたしはわたしたちと同じ表情を浮かべている。
 わたしはわたしたちから離れたくない。
 わたしはわたしたちの手を強く握る。
 三回繰り返した末に、永遠に続くと思っていたPerfume「GLITTER」がとうとう鳴りやんでしまう。
 別のわたしがこう言い放つ。
「もらとりあむ、なう。」
 わたしも心のなかで唱える。
「もらとりあむ、なう。」
 もらとりあむ、なう。そして、境界という境界は完全に失われる。失ったことにまるで安堵したかのように、わたしたちのほとんどが手を離し、ぐったりと床に倒れ伏す。

6
 おもむろに、壁に時計が表示される。閉演となる九時が迫っているのを、わたしたちは受けとめる。
 静かに眺め、静かに眺め、静かに眺め、九時になる。九時を過ぎる。現実が迫ってくる。
 なにかをあきらめ、なにかを捨て、なにかを得たような顔で、わたしたちは身支度を始める。

 わたしは身支度に出遅れたひとりだ。
 劇場を最後に出た者の中のひとりだ。
 終わったことを受けとめきれなかったわたしは、いまも、モラトリアムの中を、さまよい続けている。

【筆者略歴】
 綾門優季(あやと・ゆうき)
 1991年生まれ、富山県出身。日本大学芸術学部演劇学科在学中。演劇ユニットCui?主宰。

【上演記録】
東京デスロックモラトリアム』(STスポット開館25周年記念事業)
STスポット 横浜(2012年5月19日-20日)

参加アーティスト
・東京デスロック(多田淳之介、夏目慎也、佐山和泉、佐藤誠、間野律子)
・Enric Castaya Orchestra(メンバー非公表)
・大谷能生(音楽家・批評家)
・岩渕貞太(ダンサー・振付家)
・佐々瞬(現代美術家) 他

OPEN & START 13:00  CLOSE 21:00
○両日共13:00-21:00の間は入場可。退場自由。再入場不可(お手洗いでの一時退場による再入場は可)
チケット料金 予約 ¥2000  当日 ¥2500

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