バナナ学園純情乙女組「翔べ翔べ翔べ!!!!!バナ学シェイクスピア輪姦学校(仮仮仮)」

◎いわゆるバナナ事件について
  水牛健太郎

公演チラシ
公演チラシ

 バナナ学園純情乙女組(以下「バナナ学園」)の公演『翔べ翔べ翔べ!!!!!バナ学シェイクスピア輪姦学校(仮仮仮)』において、5月27日(日)にトラブルがあった。ツイッターに友人を通して公表された被害者のメールによると「舞台上にいきなりあげられて、知らない男に胸をわしづかみにされて、下半身すり付けられてガンガンされて、それを他のお客様に見せつけて笑われてパフォーマンスにされたことは本当に辛かったです。相手も段ボール被ってて誰かわからないし、土下座してもらいたい」ということである。要するに、バナナ学園のパフォーマンスに巻き込まれた女性観客が、深刻な不快感と怒りの念を抱き、間接的ながら、抗議の意向を表明したということだ。

 バナナ学園のサイトは6月2日付で「不快な想いをさせてしまったお客様ご本人と5月31日時点でお会いし、事の真相をご説明した上でご不快な想いをさせてしまった事に対してお詫び致しました」としている。このように当事者間では一応の決着を見たものの、注目を集める公演で起きた今回の事件(以下「バナナ事件」とする)は、大きな波紋を広げ、ツイッターやブログなどで様々な意見が交わされた。本稿ではバナナ事件について、創造的行為と社会規範の緊張関係という観点から論じてみたい。

創造的行為の価値と社会規範の関係

 まず大前提として、創造的行為の価値と社会規範は基本的に一致するものではないし、一方で必ず矛盾するものでもなく、いわば互いに無関係な別々のコードであることを確認したい。

 たとえば創造的行為の価値を考える場合に、創作者が犯罪者であるかどうかということは評価の上で問題にならない。かつて四人を射殺し死刑判決を受けた男性(永山則夫)が、執行までの長い拘束期間の間に文筆活動を行っていた。作品の評価は決して高くなかったが、それでも文学賞を受けたこともある。もし質の高い作品を書いたならば、相応に遇されていたであろうことは確かだ。

 また自衛隊市ヶ谷駐屯地で総監を拘束するなどの事件を起こした三島由紀夫は、本人こそ死んでしまったので刑に服することはなかったが、彼の組織「楯の会」の参加メンバー三人は懲役四年の実刑が言い渡されている。つまり主犯である三島自身「犯罪者」であることは紛れもない事実だ。三島文学は事件のイメージを抜きにして語れない面はあるが、その高い評価は、事件とは切り離した部分でも十分に成立している。

 外国に目を移せば、マルキ・ド・サド、カラバッジョ、ジャン・ジュネといった人たちがいる。カラバッジョの絵の高い評価は彼が殺人者であることとは関係がない。ジュネの場合には『泥棒日記』といった作品もあり、自らの犯罪傾向と芸術性に関連を持たせようとした人だが、文才があれほど際立ったものでなければ、ただの一犯罪者として生涯を終わっただろう。

 要するに、社会規範と創造的行為の評価には基本的に関係がない。二つは別々の価値なのであり、創作行為が社会規範に沿っているからよいと言えない代わりに、創造的な行為は必ず犯罪的なものだとか、社会規範を侵犯しているものだとも言えない。そういう言い方をする思想家もいることは知っているが、実際には社会規範を犯している作品など、どの分野でもごく一部である。

 ある特殊な社会状況の下では、作品が真に意味のあるものになるためには、社会規範との関係に必然的に踏み込まざるを得ないこともあるだろう。たとえばその社会において深刻な人権抑圧が日常化していたり、ある種の革命的状況にあったりする場合である。旧ソ連においては、ワシーリー・グロスマン、ミハイル・ブルガーコフ、ボリス・パステルナーク、アレクサンドル・ソルジェニツィンなどの作家が、共産党体制との緊張関係の中で小説を書き続けた。こうした緊張から逃れるためには体制を賛美する御用作家になる必要があったが、ソ連崩壊後の今となっては、御用作家たちの作品は価値のないものとみなされている。

 しかし、今の日本が、そのような特殊な状態にあると言えるだろうか。様々な答えはありうるが、そのような状態にあると考える人は多くはあるまい。今の日本ではやはり、どのような分野においても、重要な作品であるかどうかと、社会規範に抵触しているかどうかは、直接関係のない問題だと言わざるを得ない。

 社会規範と創造的行為の評価の無関係性をバナナ事件に当てはめて言えば、事件をもってバナナ学園がこれまで行ってきたパフォーマンスの価値を貶めることはすべきではないが、その一方で、今回の事件をもって、だからバナナ学園のパフォーマンスは素晴らしいのだ、という正当化根拠に使うこともすべきではない、ということだ。

 今回の事件は、電車の中での痴漢行為とはもちろん違う。パフォーマンスの場で起きたことであり、いかに身勝手かつ行き過ぎた、見当違いの行為だったとしても、そこに創造的行為としての意図が全くなかったとは言えないからだ。

 一方で、女性として耐えられない屈辱的な体験をしたと感じている被害者やその関係者に対し、バナナ学園のパフォーマンスの創造的価値を理解するよう求めるのは傲慢極まりない。バナナ学園を擁護しようとする人々の間に一部そのような意見が見られたが、狭い演劇コミュニティでしか通用しない閉じられた論理であり、広く理解を得られるものではない。女性がその身体にみだりに触れられないことは当然の要求であり、法律であり、社会規範である。いったんそれに違反したという主張がなされている以上、単に劇場の中にいたというだけで、身体への過剰な接触に同意していたとみなすことには無理がある。

歴史的観点から見たバナナ事件

 演劇の上演と社会規範や法との関係が問題になるのは、バナナ事件が最初ではむろんない。1960~70年代、アングラ劇団が警察や一般市民とのトラブルを多く引き起こしている。扇田昭彦の『日本の現代演劇』によれば、唐十郎の状況劇場は、しばしば街頭劇で警察署に連行され、有名な紅テントも花園神社から追放されたことがある。1969年1月には新宿の中央公園でのテント公演を東京都に拒否されたが納得せず、陽動作戦で都職員の目を引き付けた隙に公園内に紅テントを立ち上げた。怒り狂う機動隊二百人が怒号を上げ、テント越しに観客の腰などを殴りつけるなどする中、三時間の上演を決行し、唐らは逮捕されたという。

 また、寺山修司の天井桟敷が試みた市街劇もしばしば物議をかもした。1975年の『ノック』は杉並区で連続三十時間、同時多発的に三十三か所で上演されたが、そのうちの一か所ではミイラ男に扮した俳優が個人宅を訪問し、(当然のことながら)110番通報され、警察沙汰となったという。

 こうした歴史的な前例は、演劇界における先達が新しい表現を求めて社会的常識や規範に挑戦してきたことを教えてくれる。それでは、バナナ学園の今回の事件をこうした事件の系譜に当てはめて評価すべきなのか。そうは思えない。

 一つには、「表現の自由」ということの意味の問題である。バナナ事件について、日本国憲法に定められた「表現の自由」の観点から擁護する意見が一部見られたが、これは「表現の自由」の意味を誤解している。「表現の自由」に限らず憲法に定められた様々な自由や権利は、基本的に国家と国民の関係に関して述べられているものである。つまり、「表現の自由」とは、国家権力が国民の政府批判などを含む表現を抑圧することを禁止する意味が第一義である。もちろん個人間の関係にも波及はするが、そもそもは、強大な国家権力に対し国民の権利を守るために定められているものなのだ。

 『日本の演劇』に登場する例で言えば、やはり状況劇場などの警察との関係が最もよくあてはまるだろう。公園の使用規則や社会秩序など様々な理由で警察が踏み込んでくる時、それに対し抵抗することは「表現の自由」の趣旨にかなう。もっとも、『ノック』の例で、ミイラ男に突然訪問された家の人の立場になってみれば、恐怖そのものであったに違いなく、110番通報するのも当然だ。このように、実際にはなかなか単純ではないが、基本的には「表現の自由」とは、武器一つ持たない国民が強大な権力と対等に戦うためのものだ。だからバナナ事件のように、劇場内の空気を支配する劇団が、その強い立場をいいことに女性観客の権利を侵害すること(あえて分かりやすい言葉を使えば「弱いものいじめ」そのもの)を「表現の自由」などというのは、全く勘違いもはなはだしいと言わなければならない。

バナナ学園のパフォーマンス

 今から振り返ってみれば、バナナ学園のパフォーマンスが今回の事件を引き起こすに至った経緯には、必然的なものがあると思われる。身も蓋もない後知恵ではあるけれども、そのことを考えてみたい。

 バナナ学園の観客巻き込み型のパフォーマンスは、出演者と観客が劇場の「あちら」と「こちら」に分かれて上演の間触れ合うこともないという通常の上演形態に対するアンチテーゼであった。観客に水をかけ、プラカードや小道具を持たせ、さらには膝の上に乗るなどして意図的に境界を侵犯し、大音響の音楽や多人数でのダンス、膨大な情報量、めまぐるしい展開によって観客を眩惑する。こうして観客から日常的な感覚を奪い取り、やがては舞台上に連れて行き一緒に叫ばせる。それは出演者と観客の壁を超えて一体感を醸しだす仕組みである。

 状況劇場や天井桟敷をはじめとする先達の実験的な試みを見れば、バナナ学園の上演形態が決して異常なものだとか、あり得ないものだとは言えないことがよくわかる。今回の事件を機にそうした判断を下すことは、観客と舞台を完全に分離した「ふつうの」上演形態を当然視することであり、舞台芸術が本来持ちうる舞台と観客の関係の多様な可能性をただ単一の形に押し込めることにしかならない。

 ところが、バナナ学園のパフォーマンスには思わぬ落とし穴があった。その魅力のかなりの部分が感覚的な刺激の上に築かれたものだったため、同レベルの刺激だと観客が慣れてしまうことだ。私はバナナ学園のパフォーマンスを二回見た。最初は素晴らしく面白かった。しかしその時既に、何度も見るものではないという気がした。数か月後、もう一度見た時には面白さは半減していた。私は特別あきっぽいのだが、他の観客でも何度も見ているうちには面白さが相当薄れたのではないかと思われる。

 こうした観客の慣れに対し、バナナ学園の側ではパフォーマンスの刺激を強めていく方法を取ったと思われるふしがある。特に今回の公演はより過激化しているという噂がツイッター上でも流れていた。演劇コミュニティにも過激なパフォーマンスへの期待があったのは紛れもない事実だ。一方でバナナ学園の名前は売れ、いわゆる「コアな」層以外にも、客層が広がっていたのも確かだろう。それもやはり「過激なパフォーマンス」に興味をそそられて見に来るという面があったはずだ。劇団である以上、お客は増やしたい。こうして観客の慣れへの対応、演劇コミュニティの期待、劇団の名前を売りたいという事情など、様々な要因からパフォーマンスを刺激的なものにする方向に歯止めがかからなくなっていったのではないか。一方で一見のお客も増え、今回のようなトラブルの可能性はどんどん高まっていったのである。

 私が初めてバナナ学園のパフォーマンスを見た昨年夏の段階では、観客の同意取り付けに手間暇をかけているという感じが強かった。幾重にも同意と理解を求めた上での乱暴狼藉だった。一番前の席に座ったところ、派手に水がかかったが、それは最初から何度も周知されているし、カッパだって貸し出されているので問題はない。それ以外に女性パフォーマーが膝に乗って胸を押し付けてきたり、何かを持たされたり、投げさせられたりといったことがあった。ただその場合には、ど派手な化粧をしたパフォーマーから小声で「よろしくお願いします」「ありがとうございました」といった丁寧なあいさつがあった。大胆なパフォーマンスを成立させるための細心の計算や気遣いを感じ、好意を持った。(一方で、当時はそうしたことを物足りなさと受け取ってレビューに書いてしまった面もあって、今回のような事件があると不明を恥じるしかない。私もまた、「過激さ」をあおった観客の一人だったのかもしれない)

 ダンサーの黒田育世がバナナ学園に寄せた文章が当日パンフレットに掲載されていたが、それはまさに、パフォーマーと観客の間に成立するコミュニケーションについて書いたものだった。

 バナナ学園はあなたの手を握りたがっている。でもそう簡単に初めて会うあなたの手を握ることは出来ない。だから集まってトレーニングする。
トレーニングする。トレーニングする。トレーニングする。トレーニングする。もっと。
うしろめたくみだらになる。集団で陶酔する。全部の体が悦に入る。あなたの手を握ることが出来る気がする。
舞台上で暴れていた集団の中の一つの体が、息切れしながら客席に侵入してきました。私の手を握りしめて「ありがとうございます」ととても慎ましく私に伝えてくれました。
バナナ学園は集まった。その集団を閉ざさないように、みだらでも開こうとしている。陶酔しながら開こうとしている。悦に入って開こうとしている。叶わないかもしれない。それでも慎ましくあなたの手を握ろうとしている。
「ありがとうございます」が素晴らしい「はじめまして」でした。本当に心よりありがとうございます。         BATIK主宰 振付家 ダンサー 黒田育世

 今回の公演の様子がどうだったのかは知る由もない。だが、黒田が書いたような慎ましいコミュニケーションが個々の観客とパフォーマーの間に貫徹されていれば、今回のような事件になったはずがない。多くのパフォーマーはそれでも、観客と丁寧にコミュニケーションを取り続けていたのだろうが、過激化するパフォーマンスの中で、それが見失われる瞬間があったのではないか。そうした気の緩みの中から、あの、観客の人格を否定する行為が出たのではないか。

 コミュニケーションへの恐れと、だからこそ、いっそう、コミュニケーションを求める、燃えるような気持ち。乱暴狼藉と裏腹な、慎ましいパフォーマーたちの素顔。黒田が見事にとらえたそんなバナナ学園の「初心」が、今回の事件には全く感じられない。それが何よりも残念に思えてならない。

 今回の事件では、パフォーマーが男性で被害者が女性であったことも決定的に大きかった。どこまでが劇団側の演出ないし指示によるもので、またどこからがパフォーマー個人の判断ないし不心得によるものなのか。個人のパフォーマンスをより過激な方向に誘導するような空気はあったのか。こうしたことも、何らかのタイミングで明らかにされるべきだと思う。

 バナナ学園のサイトは現在、被害者の記憶を呼び起こしてしまうのを避けるためとして、事件の詳細を説明していない。その理由は理解できるが、事件そのものの描写をしなくても、責任の所在を明らかにすることはできるはずである。被害者への配慮を口実に責任を不明確にし続けるのなら、失われた信頼を取り戻すことはできないだろう。「ずるい大人」になったバナナ学園など、誰が見たがるだろうか。

今後のバナナ学園の課題

 今回の事件を受けて、一直線の過激化路線は見直さざるを得なくなっただろう。もちろん「同意書」を取るなどして限られた観客の了解の上で一層過激化するということも可能なのだが、刺激を強めることには際限がなく、結局は袋小路の道にならざるを得ない。それに、バナナ学園のような劇団にとって、客層を狭めることは命取りだ。黒田が書いているように「開こうとしている」ことが決定的に重要だからだ。

 舞台と客席の境界をとっぱらうことを目指すバナナ学園のこれまでの試みには大きな意味があった。バナナ学園では今回の事件を受けて、「創作における意識改善」を行うとしている。「多様な価値観が混在する観客の方々が劇場空間に足を運んだ際に起こりうる可能性に対して今後一層の注意および想像力を持って製作」するという。よいことだ。今回の事件の真剣な反省の上に立って、いかに開き続けるか、いかに「多様な価値観」と戯れるか、その方法をじっくりと模索してもらいたい。心より願っている。

【筆者略歴】
水牛健太郎(みずうし・けんたろう)
ワンダーランド編集長。1967年12月静岡県清水市(現静岡市)生まれ。高校卒業まで福井県で育つ。東京大学法学部卒業後、新聞社勤務、米国留学(経済学修士号取得)を経て、2005 年、村上春樹論が第48回群像新人文学賞評論部門優秀作となり、文芸評論家としてデビュー。演劇評論は2007年から。2011年4月より京都在住。元演劇ユニットG.com文芸部員。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/category/ma/mizuushi-kentaro/

【参考】
・「上演中におけるご不快な想いをさせてしまったお客様への対応について(6/2)」(バナナ学園純情乙女組公式Web)
・「バナナ学園純情乙女組公演に関して」(王子小劇場ブログ 5月28日)
松澤くれはtwitter(5月28日から)
・【ネットで騒動に】バナナ学園純情乙女組が、過激“客いじり”パフォーマンスを謝罪(「News-Headline」 2012年6月4日)


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