北九州芸術劇場プロデュース 「テトラポット」

◎再生と歴史、縮尺のマジック
 落雅季子

「テトラポット」公演チラシ
「テトラポット」公演チラシ

 柴幸男の作品はいつも、距離が縮尺によって変化するということを教えてくれる。人の生死、家族の暮らし、物質世界の理を等価に並べながら時間軸と空間を瞬間的に伸縮させ、時に圧倒的な情感を構築する彼の世界は、1センチの至近距離が地図の上では1万キロメートルにもなり得るダイナミズムを孕んでいる。

 そんな彼にとって二年ぶりの新作『テトラポット』は、北九州芸術劇場プロデュースの、あうるすぽっとタイアップ公演シリーズで、現地で活動する俳優らと共に二か月かけて作りあげた作品となる。柴が北九州で創作を行うのは初めてではなく、2010年11月、同劇場のドラマリーディングの企画にて自身の『わが星』を上演しており、そのときから続投している俳優も多く見られた。ここ数年、舞台作品におけるアーティスト・イン・レジデンスは関東以外の地方にも着実に根付き、大きなうねりを形成している。中でも北九州芸術劇場は独自のシリーズ企画を複数持ち、実力、話題性ともに十分な劇作家を選んで共に作品づくりに努める、志の高い公共劇場である。

 開演前の客席は薄暗い青の照明で照らされ、波の音が響いていたので、海がモチーフの作品なのだとすぐわかった。微かなバックミュージックに耳を澄ますとそれはラヴェルのボレロだった。16小節の主題を169回繰り返し、長大なクレッシェンドとともに楽器が次々加わることで音色が増幅されてゆくその構造と、波の音との共鳴に妙な高揚感を煽られる。クライマックス付近の大音量を経て明転すると、砂が敷かれて流木のようなものが配置された教室のような舞台で、物語が始まった。

 序盤は、暗転や独白、群唱の切替えを多用しながらシーンをつなぐ手法で進む。ままごとの大石将弘が演じる海坂三太は、海辺の町に暮らす四人兄弟の三番目。長兄の一郎太は妻と別居状態にあり、次兄の圭二郎も既に離婚して妻子と離ればなれ、末っ子の高校生四郎には同級生の恋人がいる。

 しかし俳優の一人が不意に「2時46分」という台詞を口にした瞬間、舞台上のフィクションが現実と衝突するのを感じてぎくりとした。まさか、そう来たか。8月6日8時15分、1月17日5時46分といった時刻と同様に、3月11日2時46分として刻まれることになった私たちの記憶がじわじわと呼び起こされる。“3.11(サンテンイチイチ)”などと誰もが滑らかな口ぶりで発音する今、私たちはその言葉が一般化された記号となり、当事者としての想像力を奪う危険性に思いを馳せなければならない。しかし、起きた事象を示さずに時刻だけを切り出すことで観客自身に問題の焦点を絞り込ませるやり方は、記号化の思考停止から人々を揺り起こし、想像力の中空へと放り出す作用を持つ。かくて舞台上の情景は、とある日の“2時46分”よりも以前の出来事を、細切れに再生しながら遡ってゆく。人々は歪んだ時間軸の上を往来し、“2時46分”以降にこの町を大きな波が襲ったこと、登場人物のうち助かったのは東京に働きに出ていた三太だけだったことという状況が、徐々に明らかになる。

 ある日三太は、いるかと名乗る少女と教室で出会う。彼女は海の底に沈んだという人たちの存在を匂わせながら、オルガンでボレロを奏でる。その旋律は、行っては戻る波の時間のようだ。いるかは、自分はどこにも行けないのだと語りながらオルガンを弾き続ける。季節を螺旋状に送り出す容れ物としての機能を持つ学校。その中で、同じ教室に留まる少女は本質的に不自然な存在として違和感を醸す。そして三太以外の人間は海の底で暮らす存在となっており、三太は陸に還るべきであるということが、彼女の口から告げられる。

「テトラポット」公演の舞台写真1「テトラポット」公演の舞台写真2
【写真は、「テトラポット」公演から。撮影:梅本昌由裕 提供:北九州芸術劇場 禁無断転載】

 モチーフの重奏で厚みを増してゆく手法は、柴作品で多用される構造のひとつだ。四郎が恋人を妊娠させてしまったことがわかり戸惑う場面において、恋人である少女は、自分の胎内で命が生まれ、生命の進化を早回ししながら人間に育ってゆく神秘を恍惚として語る。片や教室から出られず、いつまでも卒業しないいるかにとって学校は海底の比喩であり、彼女が陸に上がって進化することはない。大小様々な事柄を多重的に焼き付けて一体化した世界観は、柴のシステマティックな美意識の目指すところと言える。

 演劇作品においてあるシーンが“反復”されることは、観客に様々な意味と情感をもたらす。異なる角度から何度も眺めながら少しずつ情景を明らかにしてゆくという点で、兄弟四人が海へ死んだ母の散骨に行くシーンは印象深い。砂浜はなく、テトラポットが累々と重なる(おそらく北九州の)海に骨を撒く兄弟たちの図。このシーンは終盤にもう一度展開されるのだが、その場面では三太のみが、他の兄弟三人と離れて舞台前方に立つ。同じ台詞を同じ抑揚で辿りながらも、彼岸と此岸を隔てる大きな流れを体現してみせるようであった。

 また、繰り返しのたびに生じる“ずれ”にも左右されない本質を発見することも、反復の重要な効果だろう。何度も語られる三太の周囲の出来事のうち、残された側である三太の悲しみに物語は全く踏み込んでいかない。彼は周りに誰もいないことに戸惑い、叫ぶが、自分ひとりが残されてしまった葛藤や恨みを吐露することはない。他の登場人物に比べて、彼のパーソナルなエピソードが挿入されることもないが、それは彼が、いなくなってしまった登場人物たちが語る過去に対置される、これからの世界を示す存在だからである。恐らく三太は、生きることと死ぬことの感傷に陥るのを意識的に避けて書かれたのだろう。この点は『わが星』で身体性の拡張として音楽を用い、両者の融合に大成功して以来、密かに柴が留意している点ではないかと思っている。ドラマティックなカタルシスで登場人物の感傷を処理しないために、三太は極力、ニュートラルな立ち位置を保つことを求められていたように思う。そんな三太が唯一主体的に組み込まれていたのが、彼が東京に向かう朝の情景だった。四兄弟と母親が揃って写真を撮る。それだけの短いシーンはそれきり繰り返されることはなく、全体の構成の中でも不思議な余韻を残したが、三太のこれからを支える大切な記憶のようにも思え、清々しさを感じさせるものだった。

 終盤、いるかの待つ教室に、ピアニカ、アルトリコーダー、フルート、木琴、ギター、スネアドラムなどの楽器を手にした登場人物たちが集まってくる。もうひとりぼっちではないと言って喜んでボレロを演奏し始めるいるかに促され、三太はまごつきながら指揮を執り始める。自分がここにいないのか、みんながここにいないのかはわからないけれど、楽器の弾けない自分はみんなと一緒にいられないことは、わかる。増幅してゆくボレロの響きの中、いるかは三太に、海の上に還らなければならないことをもう一度告げる。そしてラスト、破裂寸前まで膨張した旋律は人間の体積を形作り、浮上させる推進力となってゆく。個人の再生を地球46億年の歴史に重ね合わせた縮尺のマジックを音楽と共に見せながら、ボレロの終演と同時に世界は暗転した。

「テトラポット」公演の舞台写真3「テトラポット」公演の舞台写真4
【写真は、「テトラポット」公演から。撮影:梅本昌由裕 提供:北九州芸術劇場 禁無断転載】

 唐突であり、同時に見事でもある幕切れは、観客を巻き込んで三太を海の底から脱出させることには成功した。しかし俳優の身体と存在が、あのボレロの祭儀性の構造に勝っていたかは正直疑問が残るところではある。フォルティッシモへ上り詰め、それまでの16小節ごとの繰り返しから、最後の転調で均衡が崩れた瞬間、舞台上の時間はラストのグリッサンドで収束するほかなくなった。それを見極め、素直に従うことで制御したという点では、演出家と楽曲との戦いは引き分けに持ち込まれたと言えなくもないが、やはりボレロという相手は偉大だったのかもしれない。

 先述の”2時46分”という言葉からもわかるとおり、今作は非常にセンシティヴなテーマを、直接的に扱ったものであった。東日本大震災から一年しか経っていない今、舞台上の物語の一部に回収されてしまうことそのものに傷つく人もいるだろう。巨大津波で多くの人が海に沈んだという描写だけで、私たちの記憶をかき乱すには十分すぎる。だがその一方で、登場人物たちが、全編にわたり北九州の方言で話していたことを忘れてはならない。東京に暮らす私にとって、かつて阪神・淡路大震災が遠いものであったように、北九州の俳優・観客にとって東日本大震災は(程度の差はあれ)実生活を脅かすほどのものではなかったのではないか。実感や共感が物理的な遠さによって阻まれることは珍しくない。そのリアリティの距離を埋めるため、人々はきっと無意識にでも「これが自分の町に起きた出来事だったらどうだろうか」と想像したはずなのだ。そのことを踏まえると、俳優たちの身体に根ざした言葉、すなわち東北から遠く離れた北九州の方言が、物語上の異化効果および同化効果として等しく機能することがわかってくる。

 震災直後の時期、多くの作家が未曾有の大災害を前に、創作活動の意義を見失っていた。それは観客だった私も同じで、作劇上、深刻とされる設定や状況に感情移入することが難しくなった時期があった。演劇は無力で、悲しみを癒す即効性も存在意義もないのではないか。あの日以来、多くの作家が内側に抱えることになった問いである。

 しかし演劇は無力か? 本当に、無力なのか? 今作で「海から陸に上がり、進化する命」という比喩を力強く提示した柴幸男は、そう問いかけながら、時代と人々の変化を超えてなお響く、強度を持つ作品を作ろうとしているように見える。それは、未だ現実と芸術の狭間で傷ついている多くの観客たちにとって、確かな希望に思えるのだ。

【筆者略歴】
落雅季子(おち・まきこ)
 1983年福島生まれ東京育ち。システムエンジニアとして働くかたわら、演劇・ダンス評を書く。2010年の土佐有明ライティングワークショップ受講により本格的に劇評を始める。ワークショップメンバーとの共著に、レビュー誌『SHINPEN vol.1』がある。

【上演記録】
北九州芸術劇場プロデュース『テトラポット』(あうるすぽっとタイアップ公演)
北九州公演:2012年2月20日(月)-2月26日(日) 北九州芸術劇場
東京公演:2012年3月2日(金)-3月4日(日)あうるすぽっと(豊島区舞台芸術交流センター)

作・演出:柴幸男(ままごと)
出演:荒巻百合、折元沙亜耶、古賀菜々絵、高野由紀子(演劇関係いすと校舎)、多田香織(万能グローブ ガラパゴスダイナモス)、谷村純一、原岡梨絵子(劇団ショーマンシップ)、ヒガシユキコ、藤井俊輔(劇団ルアーノデルモーズ)、米津知実(劇団コギト)、大石将弘(ままごと)、寺田剛史(飛ぶ劇場)

スタッフ:
美術 青木拓也
照明 岩田守
音響 塚本浩平
衣装 真行ひとみ(black2id)
演出助手 守田慎之介(演劇関係いすと校舎)
テクニカルマネージャー 樋田浩昭
舞台監督 森田正憲(F.G.S.)
宣伝美術 トミタユキコ(ecADHOC)
宣伝写真 木寺一路(Fu.)
宣伝ヘアメイク 橋本理沙(万能グローブ ガラパゴスダイナモス)
営業 後藤勉
広報 岩本史緒、一田真澄
票券 江本千奈美
制作 黒崎あかね、吉浦宏美、野林紗恵、音部美月
プロデューサー 能祖將夫

料金(全席指定):
北九州公演・東京公演共通 一般3,000円、学生2,500円、北九州プレビュー公演 一般2,000円、学生1,500円
※当日各500円増

主催/(財)北九州市芸術文化振興財団
共催/北九州市、あうるすぽっと(公益財団法人としま未来文化財団)≪東京公演≫
助成/平成23年度 文化庁優れた劇場・音楽堂からの創造発信事業
企画・製作/北九州芸術劇場


「北九州芸術劇場プロデュース 「テトラポット」」への7件のフィードバック

  1. ピンバック: 薙野信喜
  2. ピンバック: 田中克美
  3. ピンバック: chaghatai
  4. ピンバック: hideaki sasaki
  5. ピンバック: 土佐有明
  6. ピンバック: ayumumumu
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