世田谷パブリックシアターの舞台批評講座の受講生3名で結成された「劇評の会」。今年で7年目を迎え、毎月「世田谷劇報」という会報も発行しています。そのメンバーである藤倉秀彦さんの五反田団「びんぼう君」評を、了解を得て会報の2012年 2月13日号(通巻121号)から転載します(編集部)。
◎昇る月、伸びる爪―
藤倉秀彦
“「びんぼう君」は五反田団の代表作です。どれを代表作と呼ぶかは、その日の気分でかわりますが。”
五反田団主宰・前田司郎はこの一月にアトリエヘリコプターで演じられた『びんぼう君』のチラシにそう書いている。代表作はその日の気分で変わるという発言は、作品の良し悪しは作った本人にもわからないという意味なのか、はたまた、劇団の代表作が何であるかは世間的な思い込みで恣意的に決められることだから、あまりこだわっても仕方がない、という意味なのか。いずれにせよ、いかにも前田司郎的な感じはする。ただ、この作品が五反田団でもっとも上演回数の多いもののひとつであることはたぶん間違いないだろう。というわけで、五反田団の『びんぼう君』(作・演出/前田司郎)について書く。
この芝居は04年4月にパルテノン多摩で一度眼にしているので、まずはそのときに書いたメモを引用しよう。ちなみに、パル多摩公演の際のタイトルは『びんぼう君~21世紀版~』。
“家があまりにも貧乏なせいで「びんぼう」という仇名で呼ばれている小学生(奥田洋平)、生活力ゼロで妻に逃げられた父(前田司郎)、びんぼう君とは逆に家があまりにも金持ちであるせいで孤立している同級生カワモリさん(端田新菜)の三人が繰り広げる悲しくて可笑しい室内劇。
びんぼう君は誕生日なのでクラスメイトを家に呼びたかったが、「誕生日だから来てほしい」と言っても誰も来てくれそうにない。そこで学校の宿題である「月の観察」にかこつけて何人かを自宅に招くことにする。誕生日にクラスメイトが家に来てくれれば、そこで行なわれるのが誕生パーティーじゃなくて「月の観察」であっても、その日が誕生日であることに誰も気づかなくとも別に構わない、と妙に達観しているびんぼう君だが、お父さんにしてみればあまりにも息子が不憫。
今日が息子の誕生日であることを何とか「さりげなく」同級生たちに伝える方法はないかと策を練るお父さんだったが、そこにカワモリさん一人だけが姿を現わす。ほかの生徒たちは別の家で観察を行なうことになり、彼女だけが「びんぼうの家に行け」と追い払われたと言うのだ……。
ストーリーらしいストーリーのない芝居だが、前田司郎の精緻な演出が全篇で冴えわたり、爆笑また爆笑。役者も三人とも面白い。帰宅したびんぼう君が開口一番、「父ちゃん、『サザエさん』って何?」と質問するオープニングが、この芝居のブチ壊れぶりを暗示する。家にテレビがないため、びんぼう君も父親も『サザエさん』を知らないのだ! そんな馬鹿な(笑)。極端に貧困なびんぼう君父子と極端に裕福なカワモリさんだけが、平準化された日本社会の象徴とも言うべき『サザエさん』を知らないという設定が痛烈。さらに言うと、「想像で」描いたサザエさんやアナゴさんの見当外れもはなはだしい絵をびんぼう君が披露する場面や、三人が『サザエさん』のデタラメきわまりないストーリーを捏造する後半のクライマックス(?)は、被抑圧者の破天荒な逆襲がさりげなく暗示され、腹を抱えて笑いながらも背すじが少し寒くなる。”
―と、いうふうに約八年前のわたしは書いている。
八年前に比べると、今回の公演は台本が一部変わっており、演出のテイストも微妙に異なる。三人の役者に関しては、端田新菜(青年団/ままごと)はそのままだが、今回は父親役が黒田大輔(THE SHAMPOO HAT)に、びんぼう君が大山雄史に変わっている。
まずは台本の異同について。
最大の違いは、芝居の後半で演じられるお人形遊びとおままごと。『21世紀版』でも今回の公演でも、びんぼう君と父親が数体の小さな人形を使って通俗大活劇みたいな物語を展開させる、というところまでは基本的に同じ。今回の公演では、カワモリさんは父と子が演じるあまりに暑苦しいストーリーについて行けず、お人形遊びを放棄して「おままごと」をはじめる(ただ、カワモリさんは「おままごと」という概念を完全に誤解しており、彼女が演じるのは昼メロ風一人芝居である)。いっぽう『21世紀版』では、びんぼう君父子が人形を駆使して大活劇を演じたあと、カワモリさんは同じ人形たちを動かしてまったく別の物語を作りあげる―この物語が、引用したメモにもあるとおり、不正確で断片的な情報にもとづいた、あり得ざる異形の『サザエさん』。ヒロインであるワカメが、カツオ、サザエ(『21世紀版』でも今回の公演でも男だと誤解されている)とドロドロの三角関係に陥り、愛欲の世界に堕ちていく(笑)という話。
【写真は、「びんぼう君」公演から。 提供=五反田団 禁無断転載】
メモではびんぼう君父子とカワモリさんの周縁性、そして彼ら「被抑圧者の破天荒な逆襲」―『21世紀版』におけるお人形遊びは、『サザエさん』という国民的物語の徹底的な蹂躙にも見える―について云々されているが、今回の舞台からは、そういった印象はあまり感じられない。これは『21世紀版』が被抑圧者の逆襲として解釈し得る舞台だったということなのか、それとも当時のわたしの過剰な深読みのなせる業だったのかは、いまとなってはよくわからない。
あと、びんぼう君とその父親が『サザエさん』を知らないという設定は、八年前の時点では破天荒なギャグ以外の何ものでもなかったのだが、今回は微妙にリアリティが感じられたりする。『びんぼう君』という作品の本質とはあまり関わりのないことではあるが、時代の変化というものを否応なく感じさせられた。
演出の違いについては、終演後のトークで前田司郎がみずから詳しく語ってくれた。その内容を大まかに要約すると以下のようになる(ただし、記憶を頼りに書いたので、不正確な部分もあるかもしれない)―
“一般に演技は強弱、緩急、明暗などのコントラストを強くすればするほどインパクトが増し、わかりやすくなるが、その分表現としては浅くなる。逆にコントラストを落とせば、表現としての深みは出るものの、曖昧で理解されにくくなる。五反田団は当初はコントラストの強い演技を志向していたが、経験を重ねるにつれ、コントラストの低い芝居に傾斜するようになった。
しかし、『びんぼう君』に関しては、コントラストの強い演技のほうが有効であると判断し、稽古の際にはあえてそのような演出を心掛けた。父親役の黒田大輔も、『びんぼう君』の再演(時期不明)を観客として観ており、これがコントラストの強さを必要とする芝居であり、そこに面白味があることを理解していた。しかし、それでも黒田にとって、コントラストの強い演技をもとめられるのは、納得しがたいものがあったらしい。
このような場合、コントラストを強くするか、弱くするかのいずれかを選択するべきであり、折衷案的に中央値で折り合うのがいちばんまずい方法である、と思っていたのだが、今日の舞台を袖から観ていると、この折衷案にも大きな可能性があるように思えてきた。”
―以上が演出の差異に関する前田司郎の発言。前田の演出と黒田大輔の演技のスタイルをめぐる葛藤の話は、非常に興味深いのだが、あまりにも現場的すぎるため、実感としてはもうひとつよくわからない。ただ、ひとつ言い添えておくと、わたしが観たのは初日から三日目のことで、演出家も役者もまだ模索を続けていた時期だったのかもしれない。
あくまで個人的な印象を言わせてもらうと、今回より『21世紀版』のほうが楽しめた。後半部分の弾けっぷりは双方とも面白いのだが、前半―カワモリさんが登場するあたりまでは、『21世紀版』のほうが、くだらなさ、馬鹿馬鹿しさ(いい意味での)がより鮮烈なのだ。これは前田司郎の言う、コントラストの問題が関わっているのかもしれない。
終演後のトークの前田司郎の発言でもうひとつ面白かったのが、この芝居における各登場人物の立ち位置の可変性について。
三人の登場人物の立場や関係性は、状況に応じて変わっていく、と前田は言う。たとえば、大人である父が息子に甘えることもあれば、幼い息子が冷静に父を諭すこともある。また、父と息子のあいだに挟まれた少女が、あるときは局外者として冷淡に振る舞い、あるときは女として父と息子を翻弄し、またあるときは母親のように二人を見守ったりする、と。
この話を聞いて思い出したのが、前田がアル☆カンパニーのために台本を書き、演出をした『家の内臓』。これは社員旅行で温泉旅館の同じ部屋に泊まることになった中年男、その別れた妻、彼らの娘、そして社員二名の合計五人によって演じられる、いかにも前田司郎的な脱力室内劇。離婚によって夫と妻と娘という家族はいったん解体されているのだが、この三人は同じ職場で働いている。しかも旅館の同じ部屋には、家族でも元家族でもない社員二人が寝転がっていたりする。社員旅行という非日常的な時空のただなかで、彼ら五人の関係性は曖昧化され、それぞれの立ち位置も何だかよくわからなくなっていく。
もしかすると、前田は「自己」というものを、他者との関係性のなかで他律的に生成されるもの、として捉えているのかもしれない。だから父親がコドモになったり、少年がオトナとして冷静に振る舞ったり、家族が家族じゃなくなって同僚が家族みたいになったりするのかもしれない。リアリズムをどこか見切ったような五反田団の舞台に不思議なリアルが横溢するのは、こうした日本的な自我の可変性が巧妙に織り込まれているからではないのか。そして、前田の台本や演出にもとづいた外部公演が、五反田団の公演に比べるとどこか見劣りがするのは、所謂「リアリズム」や「近代的自我」を基盤とする演技では、こうしたふわふわした他律的な人間像を把握しきれないからではないか、などと思ったりもする。
最後に月と爪について。
びんぼう君とカワモリさんが、月を観察し、その絵を描く場面が劇中で何度かある。情けない、くだらない、意味不明な会話や騒ぎが途絶え、不意に静謐が垂れ込めるこうした場面には、いわく言いがたい魅力が漂う。そしてこの月の存在が、空間の広がりを暗示する。父と息子(とカワモリさん)しかいない二畳の部屋から、世界が爆発的に広がっていくのだ。
月はまた、時間性の象徴でもあるだろう。当初はライオンズ・マンションに遮られながらも、やがて夜空にくっきりとその姿を現わす月は、過ぎゆく時間をさりげなく、しかし強烈に指し示す。びんぼう君と父の濃密な二畳間は、一見すると愉快な日々が永遠に続く無時間の世界のように見えるが、実のところそうではない。ここでも時間は容赦なく刻々と流れていく―びんぼう君は誕生日を迎え、爪は日々伸びる(切った爪と弦月がイメージ的に呼応している、というのはうがちすぎか)。
「爪に火をともす」という慣用句の意味を脱臼させる、悲しくて滑稽でシュールなラストシーンは、どこか不思議な余韻を残す。かつて自分の身体の一部であった爪を燃やし、その炎の色を楽しむ、という奇妙な発想は、自己と非自己の関係性、存在と非在の境界が攪乱される後年の前田の存在論的演劇と間接的につながっているのだろうか?
(初出:世田谷劇報 2012年 2月13日号、通巻121号)
【筆者略歴】
藤倉秀彦(ふじくら・ひでひこ)
1962年生まれ。翻訳家。訳書にゴードン・スティーヴンズ『カーラのゲーム』、エリック・アンブラー『グリーン・サークル事件』、インガー・アッシュ・ウルフ『死を騙る男』ウルフ(以上、東京創元社)など。
【上演記録】
五反田団第37回公演『びんぼう君』
東京公演2012年1月17日-29日、名古屋公演2月1日-2日、静岡公演2月4日-5日、京都公演2月8日-12日
作・演出:前田司郎
出演:
大山雄史、黒田大輔(THE SHAMPOO HAT)、端田新菜(青年団/ままごと)
スタッフ:
照明:山口久隆(S-B-S)
宣伝美術:木村敦子
WEBデザイン:石井雅美
舞台監督:榎戸源胤
制作:清水建志・門田美和
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