チェーホフ記念モスクワ芸術座 『リア王』(演出:鈴木忠志)

 1984年、「利賀山房」における劇団SCOTの初演以来、世界中で絶賛されてきた鈴木忠志の代表作『リア王』を、ロシアリアリズム演劇の総本山であるモスクワ芸術座が上演する。今10月末のモスクワ芸術座公演に先駆けての静岡初演 … “チェーホフ記念モスクワ芸術座 『リア王』(演出:鈴木忠志)” の続きを読む

 1984年、「利賀山房」における劇団SCOTの初演以来、世界中で絶賛されてきた鈴木忠志の代表作『リア王』を、ロシアリアリズム演劇の総本山であるモスクワ芸術座が上演する。今10月末のモスクワ芸術座公演に先駆けての静岡初演である。鈴木忠志と芸術座は水と油ではないか、などと素人考えに杞憂してしまったが、起用された劇団の若手俳優たちは馴染みのない演技と身体表現の要求にもかかわらず、流石の力量を見せつけた。日本語字幕はあるものの、ロシア語で語られる台詞に言葉自体の意味伝達性は弱かったけれど、そこは台詞回しで聴かせ、また物語を十分に届け得る身体演技の美しさは刮目に価する。

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松平健 錦秋公演

※以下の文章は、公演内容にすごく言及しています。  新鮮な気持ちで公演をご覧になりたい方、これから劇場に行かれる方はご注意くださいますよう、お願い申し上げます。河内山より  新宿コマ劇場にはやはり、顔の大きな座長がふさわ … “松平健 錦秋公演” の続きを読む

※以下の文章は、公演内容にすごく言及しています。
 新鮮な気持ちで公演をご覧になりたい方、これから劇場に行かれる方はご注意くださいますよう、お願い申し上げます。河内山より

 新宿コマ劇場にはやはり、顔の大きな座長がふさわしい。
 三重の回り盆を従え丸く張り出したコマの舞台にあうのは、幅の広い顔だ。特に舞台前方で正面を向いて立った時、ワイドTV的(横に引き伸ばしたよう)に広がる舞台空間に負けない顔幅は、座長を座長たらしめる重要なファクターだといえよう。
 逆に顔が小さいと、コマ興行である必然性が希薄になってくる。そのことを確信したのが、昨年の氷川きよし座長公演であった。何かしっくりこないと思っていたら、顔が小さいのだ。もっとも客席へ視線を送る時、高齢の観客を確実に捉えゆっくりと微笑みを与える氷川の正確なアクト、また司会者を置き、氷川への賛辞とMCの段取りは任せる演出など、観るべきものはたくさんあった。

 さてブームになって久しい「マツケン」。梅田コマ劇場と博多座に続く今回の新宿コマ興行は、一部を芝居、二部を歌謡ショウに分けた近年の彼のスタイルは取られず、『暴れん坊将軍スペシャル 唄って踊って八百八町~フィナーレ・マツケンサンバ』という一つの作品を上演するかたちで行われた。

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演劇集団円 『トラップ・ストリート』

 別役実は難しい。何がといって、戯曲の魅力に拮抗する舞台に出会うことが難しいのだ。職業的劇作家としての地位を確立し、多くの集団に作品を提供している別役だが、上演が戯曲を読んだときのおもしろさを超えることは滅多にない。「作 … “演劇集団円 『トラップ・ストリート』” の続きを読む

 別役実は難しい。何がといって、戯曲の魅力に拮抗する舞台に出会うことが難しいのだ。職業的劇作家としての地位を確立し、多くの集団に作品を提供している別役だが、上演が戯曲を読んだときのおもしろさを超えることは滅多にない。「作:別役実」という文字をチラシの上に見つけたわたしたちは、そっとほくそ笑みながら、誰にも気づかれぬように肩をすくめざるを得ない。ひとつの理由として、俳優の不在がある。別役文法は俳優を選ぶ。それも技術などではなく彼(彼女)の生理をだ。「その人である」ことが、必要絶対条件であるにもかかわらず、「その人」は決して多くないという悲しさ。

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新国立劇場 THE LOFT Ⅰ 『胎内』(演出:栗山民也)

 新国立劇場〈演劇〉芸術監督である栗山民也からの「THE LOFT」という提案は、小劇場「THE PIT」をさらに縮小し、客席に挟まれる形で劇場中央に設置された小空間の創造。三好十郎『胎内』を皮切りに、『ヒトノカケラ』『 … “新国立劇場 THE LOFT Ⅰ 『胎内』(演出:栗山民也)” の続きを読む

 新国立劇場〈演劇〉芸術監督である栗山民也からの「THE LOFT」という提案は、小劇場「THE PIT」をさらに縮小し、客席に挟まれる形で劇場中央に設置された小空間の創造。三好十郎『胎内』を皮切りに、『ヒトノカケラ』『二人の女兵士の物語』と、このところの栗山の仕事の根幹ともいえる「時代と記憶」という鍵言葉に沿った作品が上演される。御上のお膝元で行政と個人の演劇的欲求を統括してみせる、意欲的な活動の一環でもある。

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THE DEAF WEST THEATRE PRODUCTION OF『BIG RIVER THE ADVENTURES OF Huckleberry Finn』

 ◎ミュージカル『ビッグ・リバー』 アメリカの劇団、デフ・ウエスト・シアターに見た「違い」の意識   観に行こうと決めた最大の理由は、健常者と聾唖者が一緒に演じるこのミュージカルについて、手話が「いわばダンスの振付になっ … “THE DEAF WEST THEATRE PRODUCTION OF『BIG RIVER THE ADVENTURES OF Huckleberry Finn』” の続きを読む

 ◎ミュージカル『ビッグ・リバー』 アメリカの劇団、デフ・ウエスト・シアターに見た「違い」の意識 

 観に行こうと決めた最大の理由は、健常者と聾唖者が一緒に演じるこのミュージカルについて、手話が「いわばダンスの振付になっている」と紹介している文を読んだことだ。この文だけでなく、新聞のインタビューでも似た記事があったのを覚えている。手元に原文がないので記憶で書くと、「手話をダンスにしたのですか?」という趣旨の質問をされた公演のスタッフが、そんなつもりはないのだがと困惑していた。感動!!絶賛!!の声に包まれながら主催者が微妙に困っている様子を想像すると、それ自体演劇みたいだ。

 たしかに「手話がダンスの振付になっている」は、舞台をイメージしやすそうな例えなのだが、手話とダンスどちらから考えても、その言い方は雑ではないかと思う。まずアメリカ式手話(=American sign language)は、れっきとした言語(=language)の一つだ。「手をこういうかたちにしてこう動かしたら、こんな意味になる」というように、身体の動きは最初から具体的な、決まった意味を持っているはずである。さらにそのかたちは機械的につくられ組み立てられるのではなく、感情が伴う。
 一方、ダンスは基本的に「言語を使わないという制約」(DANCE CUBE)がある。踊る身体の動きはsignとは異なり、決まった意味を必ずしも持たない。それにダンスはとても幅が広いので、現代の観客は「ダンスだけを抽出し、感情を分離させた振付」(前出リンク先より)を観て、それぞれの感受性で自由に作品を理解するという体験もできる。例外といえそうなのは、バレエで用いられるマイムだ。自分の意志や状況を説明するマイムと、手話のかたちが似る場合はあるかもしれない。が、バレエはマイムのみでは成り立たないし、いわゆる「物語バレエ」と呼ばれる作品の中にも、物語の説明に従事することから身体が解き放たれる瞬間はたくさんある。
 このようにダンスは、言語で表現できない・言語から解放された領域に深く関わる。しかし手話は言語だ。ダンスと手話には根本的な違いがある。それを無視できてしまえるのは、もしかしていっしょくたに「どちらも身体の動き」と捉えているからではないだろうか。紹介文の説明に疑問を呈するだけでは仕方がないので、道徳教育的な狙いが強い公演だろうかと若干かまえるところもあったが、とにかく観に行った。

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BATIK『SHOKU-full version』

 8月最終週の週末は、We Love Dance Festival(1)、芸術見本市とダンス関連の催しが都内各所で同時に行われた。イベントは互いにリンクしていたらしい。「TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD … “BATIK『SHOKU-full version』” の続きを読む

 8月最終週の週末は、We Love Dance Festival(1)、芸術見本市とダンス関連の催しが都内各所で同時に行われた。イベントは互いにリンクしていたらしい。「TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD 2003 受賞者公演」と銘打たれていたBATIK『SHOKU』も、芸術見本市との提携公演である。会場のトラムは大入りで、公演に寄せられた関心の高さがうかがわれた。  

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世田谷パブリックシアター『リア王の悲劇』

 シェイクスピアには「普遍性」があるのだという。すぐれた古典作品が漏れず有するものだという。時代によらず常に「いま」を生きる人びとの共感できる心情があって、多く人が「本質」と呼ぶのがそれだろうか。シェイクスピアは世界でお … “世田谷パブリックシアター『リア王の悲劇』” の続きを読む

 シェイクスピアには「普遍性」があるのだという。すぐれた古典作品が漏れず有するものだという。時代によらず常に「いま」を生きる人びとの共感できる心情があって、多く人が「本質」と呼ぶのがそれだろうか。シェイクスピアは世界でおそらく最も名の知られた劇作家。古今東西の劇場で、書斎で、学校で、「シェイクスピア」の読解が昼夜行われている。日本とて例外ではなく、上演、翻訳、研究は止まることを知らない。新解釈、新訳が次々と産み落とされ、また今日も「新しい」シェイクスピアが世田谷パブリックシアターに産声を上げた。母たるは四大悲劇の一『リア王』。彼女を孕ませた父親はこれも名高き佐藤信である。

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青年劇場 『夜の笑い』

「再演」の意味を問う  青年劇場創立40周年と飯沢匡没後10周年を記念して、紀伊國屋サザンシアターで『夜の笑い』が上演された。前世紀の忠義や「御国のため」という絶対的な標語の下に否定される命の価値を批判的に再現してみせた … “青年劇場 『夜の笑い』” の続きを読む

「再演」の意味を問う

 青年劇場創立40周年と飯沢匡没後10周年を記念して、紀伊國屋サザンシアターで『夜の笑い』が上演された。前世紀の忠義や「御国のため」という絶対的な標語の下に否定される命の価値を批判的に再現してみせたものの、結局のところ、戯曲の力に大いに助けられた公演だった。

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reset-N 『reset-Nの火星年代記』

 横浜STスポットの主催する「劇場武装都市宣言 スパーキング21 vol.15」特別企画公演の先頭を切ったreset-Nによる『reset-Nの火星年代記』は、レイ・ブラッドベリの『火星年代記』(小笠原豊樹訳)の「戯曲化 … “reset-N 『reset-Nの火星年代記』” の続きを読む

 横浜STスポットの主催する「劇場武装都市宣言 スパーキング21 vol.15」特別企画公演の先頭を切ったreset-Nによる『reset-Nの火星年代記』は、レイ・ブラッドベリの『火星年代記』(小笠原豊樹訳)の「戯曲化」をめざした作品である。外題に「reset-Nの」と表記される以上は「原作」への戦術が期待されたが、小説自身の強い問題意識と豊かな詩情に比べて、新たな発見なり批評なりが付加されることなく、些か低調な印象が残る仕上がりだった。とはいえ、私たちが生きる世界での「時間」とは何かという問題に対する、ひとつの見解を示していたように思われる。 

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三条会『班女 卒塔婆小町』

◎タブーにつきあわない三条会    男優は皆スキンヘッドである。かぶると道端の石のように周りから気にされなくなるというドラえもんの道具「石ころぼうし」(てんとう虫コミックス4巻)を着用した絵にそっくりだ。三条会の『班女  … “三条会『班女 卒塔婆小町』” の続きを読む

◎タブーにつきあわない三条会  

 男優は皆スキンヘッドである。かぶると道端の石のように周りから気にされなくなるというドラえもんの道具「石ころぼうし」(てんとう虫コミックス4巻)を着用した絵にそっくりだ。三条会の『班女 卒塔婆小町』は、俳優という出たがりの人間が舞台にいて、三島由紀夫の長台詞を喋っているのに彼らの存在を消そうとするという、石ころぼうしを地で行く公演だった。

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