「再演」の意味を問う
青年劇場創立40周年と飯沢匡没後10周年を記念して、紀伊國屋サザンシアターで『夜の笑い』が上演された。前世紀の忠義や「御国のため」という絶対的な標語の下に否定される命の価値を批判的に再現してみせたものの、結局のところ、戯曲の力に大いに助けられた公演だった。
「授業中に餡パンくったら死刑!?」という惹句に内容はほぼ集約されるだろう。島尾敏雄の小説『接触』を原作に飯沢匡が筆を振った快作で、かつてあった一時代の現実を不条理劇に見立て、変わらぬ国の論理の危うさに言及する。『夜の笑い』は「ブラック・ユーモア」に通ずる。そうして描かれた歪んだ世界のおもしろさに対し、要所要所で演出の不徹底が目についた。
たとえば「死」を前にした子供らの明るさ。校則を破ったのだから、士族の名に恥じぬよう自決を潔しとする志。しかし彼らは「死」が一体どういうものかを理解しておらず、単純な名誉と忠義心によって支えられている。明け方、一番鶏とともに死が眼前に迫る。生徒はその恐ろしさを知る。単に天晴れ軍人の型を演じせしめなかったところに飯沢の望みがある。そこに「御国のため」という物語を背負って死すら厭わなかった若き特攻の「侍」たちの姿を連想し、また若者の純心を利用せし学徒出陣の罪を問うことは容易いけれど、根底を流れるのは「笑いは武器になる」という精神である。終始無邪気に教師と相対し、自決までの時間を子供らしく演じなければならない。それがあって、いよいよとなった際の「おら急に死ぬっとん恐ろしゅうなってきたばい」が生きるのだ。にもかかわらず、五人いる生徒の人物造詣が真面目一辺倒で画一的だったためか、少年の心境の変化が舞台に立ち現れなかった。また、死を命じられた生徒の一人、細川の嫁、いよが夫を助けるべく学校に乗り込んでくるわけだけれど、その無学な娘が学校制度の曖昧な論理を、極めて「論理的」に看破していく様の滑稽味が物足りない。全体に芝居がかった台詞回しと声の強さで押しきった印象は拭えないし、リアリズムを貫いた生真面目さが、肝心の「笑い」を抑える皮肉に陥ってしまった。
紀伊國屋演劇賞をはじめ多くの賞を浚った初演は1978年、四半世紀前である。1987年の再演を経、今回再再演となる。初演、再演ともに指揮棒を執った飯沢匡はすでになく、劇団の古株、松波喬介がコンダクターとなった。劇団の代表作とも云える作品だけれど、今回は単に記念碑的上演でしかなかった。戯曲は秀作、しかし舞台は戯曲紹介の場ではないし、追悼の気持と追従とはまるで違う。過去の好評と戯曲の出来にのみ寄りかかった「再演」は、決して新しい舞台の魅力を伝えはしない。再演に足る作品を持つことは劇団にとって本当に心強かろう。けれども、二度三度と上演しつづけるならばそのときどきの工夫があってしかるべき。もしも今回の「正攻法」だけがそうだというならば、あまりに単純すぎる。どんなにすばらしい戯曲でも却ってその面白みを損なってしまうのでは悲しすぎる。出来のいい戯曲を使い回すのが再演ではないという、周知ではあれどこの一事にもう一度思いをめぐらしてもよいのではと思うのだ。(後藤隆基/2004.9.28)