1984年、「利賀山房」における劇団SCOTの初演以来、世界中で絶賛されてきた鈴木忠志の代表作『リア王』を、ロシアリアリズム演劇の総本山であるモスクワ芸術座が上演する。今10月末のモスクワ芸術座公演に先駆けての静岡初演である。鈴木忠志と芸術座は水と油ではないか、などと素人考えに杞憂してしまったが、起用された劇団の若手俳優たちは馴染みのない演技と身体表現の要求にもかかわらず、流石の力量を見せつけた。日本語字幕はあるものの、ロシア語で語られる台詞に言葉自体の意味伝達性は弱かったけれど、そこは台詞回しで聴かせ、また物語を十分に届け得る身体演技の美しさは刮目に価する。
親子の生き方の違いが悲劇を呼び、その信頼と愛情が問題化される中にリアの精神錯乱が狂乱にまで高まる『リア王』。鈴木版では病院を舞台に、家族の崩壊によって精神を冒された車椅子の病人(狂人)が主人公となる。男の過去の記憶が『リア王』の物語と重なる。自身がリア王となり、幻想世界の住人として物語を語れば、病院という「現実」と男の住まう「幻想」という二層の劇構造により、そこで演じられる『リア王』は劇中劇として機能する。男の意識がつくりあげた登場人物と実際の病院の医師や看護婦は舞台に同居しながら、互いに気づくことはない。男を媒介にして二つの世界が奇妙な符合を見せ、混沌とした人間の意識を観客に示していた。外界の刺激が内部に与える影響が視覚化されて舞台に立ち現れる。リア王のような孤独と狂気は、誰もの横に寄り添うているのである。明確な意図と徹底した演出のため、尊厳は保たれ、決して浅くならない。そうした二重構造は悲劇的な緊張感に滑稽味と不吉さを与えていた。最終場でヘンデルの「ラールゴ」が音量を上げながら、男の死体を傍に『リア王』を読みつづける看護婦の哄笑響く幕切れの美しさには胸が震える。
劇全体を通して抑制された表情や動作は、たとえば今なお記憶に新しいシンクロナイズドスイミングのロシア勢に見える豊かな感情表現とは正反対である。表情は殆ど一定に保たれ、足袋を履き、普段の生活ではあり得ない制約を受けながらの演技を要請されている。しかし、たとえば車椅子での脚の動きや、人形の如く直立しながら上半身をつかった振付などに顕著な恵まれた肢体が描く大きな軌跡は、日本人俳優では届かない身体美にも到達していた。細かな所作などにやや未完成はあるにせよ、十分な教育を受けた俳優の力には圧倒される。また、様式美が時に過剰な印象もあったが、稽古により解決される範囲内の問題であろう。リアリズムが写実ではなく「真実」主義であるならば、鈴木忠志の方法論が厳しい規範に基づく特殊な様式であっても、モスクワ芸術座の現代俳優に無理なく浸透するはずなのだ。
ロシア人俳優の肉体と鈴木忠志の幸福な出会いは、奥床しさと荘厳なスケール漂う舞台を生んだ。白鳥が空を舞うことはないが、大地に根ざした力強く美しい能とバレエの融合とでも云えばいいか、そんな幽玄と華麗の混在する新しい『リア王』の姿がある。鈴木忠志が演出する、物語を貫く悲哀と静かな滑稽はどうやらロシアの民族性とよく似合う。堂々たる「芸術」という呼称を以て何ら遜色のない演劇的舞台の萌芽を見た。今後さらに訓練を積み、俳優たちがスズキ・メソッドを獲得していくとしたら、「スズキ・バレエ」とでも云うべき『リア王』が確立するかも知れない。という考えは少しばかり突飛だろうか。(後藤隆基/2004.10.17)