古のアテナイの地に戦争の雨が降る。どうにも止まぬに業を煮やした女たちが緊急に会議を開く。リーダーたるリュシストラテは各地から同志を招集、議題は「如何に戦争をやめさせるか」。アリストパネスの『女の平和』とは、男たちのつづける戦争に女たちが性のストライキによって終止符を打たんとするギリシア喜劇である。戯曲、演出、俳優という三条の光柱が舞台に会す。演劇にとって当り前と云えば当り前の、しかしその圧倒的な力強さと魅力で他の追随を許さない三条会が挑んだ最古典劇は、関美能留の演出が炸裂し、本当に「演劇を観た」という手応えを実感できる刺激的な一夜だった。
もう時代遅れなのだろうか、いわゆる9.11からイラク戦争の頃、世の中を反戦運動が席巻したが、ほとんど裾野にとってデモはパレード、反戦歌は流行歌、言葉は虚ろに懸命な叫びも響けど余韻は残らなかった。古典に対する態度も同様のことが云える。特にギリシア劇などは概念と様式ばかりが先行して取り扱われ、「古典」という名のもと無条件に礼讃されることがままある。海の向こうからの時差を無理に我が身に抱き寄せたところでポーズにとどまり、さりとて今の生活感覚に沿って等身大に縮小すれば事実や物語を歪曲するだけなのである。これは一種の反戦劇でもある作品だけれど、関版『女の平和』は二十一世紀の日本に生きるわたしたちが声を大にして戦争反対を唱える胡散臭さを絶妙に回避し、本質を見事に抽出した上で現代に引きつけられている。しかも、ただわかりやすいだけではない、本当の意味での古典作品を現代に上演する試みが証明されている。
「目眩く」という言葉がよく似合う舞台には一見、アリストパネスの影も形も消えてしまっているかのようだ。しかしよくよく観ていれば、たしかにアリストパネスの鋭い批判意識と猥雑さが心のあらゆる岸辺に押し寄せてくる。ギリシア、アテナイ、反戦、平和、オリンピック。恐ろしく単純な連想ゲームになってしまったけれど、遊び心沸き立つ祭典に宝石箱のような趣向が凝らされ、大上段に構えることのない反戦劇に仕上げられていた。そこで起こるすべて事は至極シンプル且つ親切なのだった。
性愛は生活の必要である。男女変わらぬ生命の根幹である。従って我慢にも限界がある。いい加減に困り果ててしまうのだ。しかし、一方的ではない。互いに強いた忍耐の攻防の末、比較的あっさりと男が折れた。結局のところ戦争とは男同士のとったとらない、欲しい嫌だという喧嘩なのであって、単純化すれば殴り合いや「ぐさ」「いて」と刺しつ刺されつする一事に他ならない。男と女の風景も、男の強がりと情けなさに集約される。今日の性意識とのズレを、コミカルな男女模様と性描写によって、心情の上で大いに共感できる、しかし戯曲の風味は損なわない寓話として映しだした。降り止まぬ雨はイメージの連鎖を経て、やがて平和的な解決に向っていく。ピンカートンの帰りを信じて待つ蝶々夫人が歌う、プッチーニは『蝶々夫人』〈ある晴れた日に〉の美しさとともに、立崎真紀子から榊原毅へと移行したリュシストラテの宣言を受けて朝陽の注ぐなか、別れし男女は再びひとつに戻る。それまでの猥雑は静まり、神聖な光に満ちた大団円のフィナーレである。
三条会は思想とか哲学とか呼ばれるものを、叩いて千切って丸めて捏ねて、しかし決して放り投げない。否、遙か遠くへ投げ飛ばす、ように見せる。行方を追うも視線の先には太陽が輝くばかり、ふと振返れば彼の手に花一輪、姿を変えてそこに在る。浅はかな予測などはまるで信じられぬ角度から裏切られる魔術的演出。BankART1929馬車道ホールの上下、左右、縦横、遠近とあらゆる位相に俳優が配され、すべての場所で同時多発的にそれぞれ登場人物の心情が交差する立体的空間。各場で温度と速度の抑揚が波のように襲いかかり、展開につれ楽しさに拍車がかかる、健康的な衝撃の連続。胸躍り、しみじみとし、笑いが溢れる。知性に富んだ比較の矛先を探せないユーモア感覚。荒唐無稽な哄笑とも昨今流行のナンセンスとも違う上質の喜劇がそこにはあった。もはや単なる古典劇の翻案ではない、紛うことなき現代演劇としての三条会的喜劇である。俳優の汗と唾、肉体の脈動。鍛えあげられた声の交響楽。次々と空間が塗り替えられていく、オリンピック競技300種目を束ねたような躍動を繰り返しながら50分をただならぬ昂奮のうちに駆け抜けた爽快感に、思わず我を忘れてしまった。肩こらず楽しめ、奥深い人生を考えさせてくれる。こうした魅力溢れる演劇を、身体中の全細胞が希求している。(後藤隆基/2004.10.15)
「女の平和」 by 三条会(見逃した…)
ク・ナウカ 「アンティゴネ」の記事を探していたときに、Wonderland という劇評サイトを見つけました。
で、このページの中で、どうやら先週末三条会という劇団による「女の平和」が上演されていたら……