新国立劇場〈演劇〉芸術監督である栗山民也からの「THE LOFT」という提案は、小劇場「THE PIT」をさらに縮小し、客席に挟まれる形で劇場中央に設置された小空間の創造。三好十郎『胎内』を皮切りに、『ヒトノカケラ』『二人の女兵士の物語』と、このところの栗山の仕事の根幹ともいえる「時代と記憶」という鍵言葉に沿った作品が上演される。御上のお膝元で行政と個人の演劇的欲求を統括してみせる、意欲的な活動の一環でもある。
『胎内』の舞台となる、戦中に本土決戦に備え大地に無計画に掘られた洞窟は戦争そのものでもあった。そこに迷い込み、徐々に虚飾をはがれ生一本の精神と肉体をさらけ出していく三人の姿は、戦後責任への問いかけにもつながろう。自分たちのしたことに戻る、それが意図的であってもなくても、闇雲に駆け抜けた過去に立ち帰り、己のものとして見つめることから、「人間」としての再生がはじまる。極限の果てに死を示唆される幕切れ。母胎に帰ることで日本人―人間がもう一度生れなおす物語なのだった。
上演に際し、栗山から『胎内』という作品に込められた願いがある。「THE LOFT」そのものを「胎内」に見立て、空間と演劇の関係性を再構築する。身体と言語の交流など殊更強調するまでもない常套句だけれど、作品の主題を覆う、題名にも示されるように霊的な防空壕を磁場にした原初的な人間存在と、言葉による濃密な舞台の追求を念頭においていた。
にもかかわらず、舞台との間に感じた距離には劇場に仕組まれたはずの「胎内」感覚の欠如を思わずにいられない。「胎内」の言葉から単純に連想する内包感、肉感性は稀薄で、それは舞台演出にさえもやや洗練されすぎていた。各台詞は緊密に処理されるけれど、息づかいや肉感までも肌で見聞きするまでには至らない。そこでは「胎内」に観客が入ることは歓迎されず、傍観者としての立場を余儀なくされる。共犯者としてその場に居ることができない。ときに露骨な性的描写を気恥かしくも感じてしまったのは、筆者の小心だけが原因ではないだろう。粘着質の暴力性が目を惹く千葉哲也、おきゃんと艶の同居が魅力的な秋山菜津子、淡々としかし誠実な演技を見せた壇臣幸ら俳優陣は、肉体と精神の飢餓が牽引する狂気を熱演したが、その体温が客席にまで届かない。どこか冷静を保つ劇場は未完成の感も拭えず、観客と舞台が一体化することないまま幕は下りた。母胎の外側に置き去りにされたわたしたちは、登場人物の狂気と正気がせめぎ合う様をすら、ただ茫と眺めているほかに術がないのである。また三好十郎の硬質な言葉と生と死をめぐる重厚な観念―人生哲学に重きが置かれたためか、或いは空間上の問題もあってか、戯曲に見えるような、空気にすっと刃をひけばぬらっと血の滲みそうな頽廃的な生々しさが感じられなかったのが残念だ。(後藤隆基/2004.10.13)