子供鉅人「バーニングスキン」

◎道化の魔法がひらく 祈りのような情景
 鈴木励滋

「バーニングスキン」公演チラシ
「バーニングスキン」公演チラシ

 行進を促すようなリズムをドラムが刻む冒頭、タンスの上によじ登り仁王立ちする女。セピア色に見える景色の中で、女は「ふざけんじゃねぇ、くだらねぇ」と呪詛のような言葉を怒鳴りちらしているのだが、はたして彼女の怒りはどこへ向かっているのだろうか。

 この印象的な場面は、589nmの波長以外の色を見えなくしてしまうナトリウムランプの効果だ。東野祥子を始めとして多くのダンサーとも組んできた照明の筆谷亮也の鮮やかな仕事で、次のシーンで明かされる女の肌の秘密を際立たせることに成功した。意表をつきつつも単に奇抜さにとどまらない誠に巧みなオープニングだった。
“子供鉅人「バーニングスキン」” の続きを読む

忘れられない1冊、伝えたい1冊 第7回

◎「氷点」(三浦綾子著、角川文庫 上下)
 サリngROCK
「氷点」表紙

 大学生になるまで、私は「当たり前」について悩んでいた。「死は怖い」「敵は悪い」「悪口は悪い」「悪いことはしてはいけない」「良いことをしなければいけない」そういう、「当たり前」なことを「当たり前のように」思わないといけないという強迫観念に囚われていた。
 だけど一方で、「ほんまに!?」とも思っていた。いや「ほんま」かもしれないけどでも「なんで!?」と思っていた。悪いと言われることをしてはいけない理由って何なの、良いと言われることをしなければいけない理由って何なの、と思っていた。例えば、「悪口は悪い」という「当たり前」があったとして、その理由は「言われた人が傷つくから」かもしれないけれど、では、絶対に本人の耳には入らない状況だったら、悪口は悪いんだろうか……などと悩んでいた。
“忘れられない1冊、伝えたい1冊 第7回” の続きを読む

ロンドン・ヤングヴィック劇場「カフカの猿」

◎猿と人間の狭間からの出口
 關智子

「カフカの猿」公演チラシ
「カフカの猿」公演チラシ

 開演時刻が近くなり、劇場内の「禁煙」と書かれたランプが消灯された。しかし、舞台上の非常口のランプは消えない。妙だと思った。客席上の照明が落とされても、まだ消えない。しばらくしてその非常口から、燕尾服を着て大きな鞄とステッキを持った、小柄な人物が現れた。彼は舞台上のスクリーンに映された猿の写真を見て戸惑ったように肩をすくめ、それから学術的な口調で語り出した、自分がいかにして猿から人間になったかを…。
“ロンドン・ヤングヴィック劇場「カフカの猿」” の続きを読む

中野成樹+フランケンズ「ゆめみたい(2LP)」

◎それでも「そっと前進」する
 關智子

「ゆめみたい(2LP)」公演チラシ
「ゆめみたい(2LP)」公演チラシ
 「これはある男の話である。彼は決断力を欠いていた」
 (‘This is a tragedy of a man, who could not make up his mind.’)

 ローレンス・オリヴィエが監督・主演を務めた映画『ハムレット』はこの言葉から始まる。叔父クローディアスに殺された父王の仇をとろうとしながら、主人公ハムレットはその決定的証拠がないためになかなか目的を果たせずにいる。ハムレットを決断できない男として見る見方は現在では広く受け入れられており、あらゆる上演でこの解釈が取り入れられている。中野成樹+フランケンズ(以下「ナカフラ」)『ゆめみたい(2LP)』も部分的にはその流れを汲んでいると言えるだろう。決断できない男ハムレットを描いた他の上演作品やオリヴィエの『ハムレット』とこの作品が異なっている点は、前者は作品を提示するにあたってなんらかの解釈を採択すると「決断」しているのに対し、後者は作品の提示の仕方そのものも全面的には「決断」しない。
“中野成樹+フランケンズ「ゆめみたい(2LP)」” の続きを読む

Produce lab 89 presents 「官能教育 藤田貴大×中勘助」

◎受苦と繋がれるわたしたちの回路
 鈴木励滋

 藤田貴大は間違いなくこの国において現在最も演劇に愛されている青年のひとりであろう。彼が主宰する「マームとジプシー」は昨年、ほぼふた月に1本という何かに憑かれたかのようなペースで作品を世に送り出した。どれもが多くの人たちから高く評価をされ、演劇評論家の扇田昭彦は『塩ふる世界。』を朝日新聞の年末恒例「私の3点」に選出したほどであった。(註1)

 今年もますます演劇界においてもて囃され、彼もまた期待に十二分に応えていくのであろう。この点において疑義を呈する気は毛頭ないのであるけれども、だがしかし、どうもその辺りにわたしはあまり興味がない。それは、わたしが彼の行為を演劇という枠に納まらないものなのではないかと考えていることとも関係している。とはいえ、ここではダンスや映像という別ジャンルの表現への越境という話ではなくて、思想とか生きざまといった方への広がりのことを思い浮かべている。そして、そういう物言いをする際に、わたしの中で劇評家というよりも日々地域作業所で障害がある人たちとの活動という“実践”をする者としての自分を意識せざるをえない。
“Produce lab 89 presents 「官能教育 藤田貴大×中勘助」” の続きを読む

パパ・タラフマラ ファイナルフェスティバル

◎舞台は続く
 志賀信夫

ファイナルフェスティバル公演チラシ
ファイナルフェスティバル公演チラシ

 第三世代
 この1月、第三舞台が解散した。活動休止(封印と称す)していたが、10年ぶりに最終公演『深呼吸する惑星』を行って、遂に解散に至った。そして今回、パパ・タラフマラが解散するという。
 唐十郎、寺山修司、佐藤信、鈴木忠志、瓜生良介(発見の会)などのアングラ(前衛)第一世代、つかこうへい、太田省吾など団塊の第二世代に続き、「第三世代」といわれ、小劇場の旗手ともてはやされたのが、野田秀樹の夢の遊眠社、川村毅の第三エロチカ、鴻上尚史の第三舞台だった。筆者と同じ昭和30年代始めに生まれ、当時「遅れてきた世代」、「三無世代」ともいわれたのは、70年代安保、新左翼闘争にのめり込んだ団塊の次の世代だからだ。
“パパ・タラフマラ ファイナルフェスティバル” の続きを読む

鴎座クレンズドプロジェクト02「浄化。」

◎「浄化。」されるわたし
關智子

「浄化。」公演チラシ

 「わたしは強烈な力であの人の中に投影されており、ひとたびあの人を欠くとなると、再び自分を捉えることも、とり戻すこともできなくなる。わたしは永遠に失われてしまうのだ。」

 この言葉はロラン・バルト(Roland Barthes)が『恋愛のディスクール・断章』(Fragments D’un Discours Amoureux, 1977. 三好郁朗訳、みすず書房、1980年)における「破局」の項で述べたものである。この本は、『浄化。』の戯曲である『洗い清められ』(Cleansed, 1998. 近藤弘幸翻訳。以下敬称略)を書いた際に作者のケイン(Sarah Kane)自身が影響を受けたと述べており、作品の主題である精神的限界状態としての愛を表象するために参照していたとされる。この『浄化。』では、このバルトの言葉にあるような状態が上演の中で描かれると同時に、それは作中の登場人物だけではなく観客までも巻き込もうとする力強い、挑発的な試みが見られた。
“鴎座クレンズドプロジェクト02「浄化。」” の続きを読む

イキウメ「太陽」

◎「象徴など、何もつかってはいない。」
 阪根正行

「太陽」公演チラシ 何かが違っていた。イキウメの新作公演『太陽』を観劇したのは日曜日だった。この週の月曜から土曜まで工場での夜勤生活を送っていた。朝日が眩しいなか帰宅し、カーテンを閉めて床に就く。日がすっかり沈んだ午後6時頃目覚め、また工場へと向かう。そんな毎日を過ごし、昼夜がひっくり返った状態のまま劇場へ向かった。確かに私自身がいつもと違っていた。しかし、違っていたのはそれだけではなかった。
“イキウメ「太陽」” の続きを読む

バナナ学園純情乙女組「バナ学バトル★☆熱血スポ魂秋の大運動会!!!!!」

◎Jを継ぐもの
 坂本秀夫

「バナ学バトル★☆熱血スポ魂秋の大運動会!!!!!」公演チラシ
公演チラシ

 そもそもヲタ芸※1 とは、アイドルライブにおけるファンの声援や手拍子が発展・多様化・様式化し、応援形態が踊り・パフォーマンスのようになったものである。アイドルライブで複数のファンたちが声・動きを合わせるという行為自体は70、80年代からあったらしいが、「L・O・V・E・○○(アイドルの名前等)」などのように現在のヲタ芸と比してシンプルなものであり、ヲタ芸としての現在の形態になったのは、アイドル冬の時代を経過した後の、00年代初頭から中頃―モーニング娘。中期頃―からだ。これは代表的(歴史的)なヲタ芸の多くが、この時期のハロー!プロジェクトの楽曲に合わせるものやそこから発展したものであることからも裏付けられる。つまりヲタ芸は、その発生・発展においてモーニング娘。(97年~)の隆盛と切り離せない文化といえる※2。
 「バナナ学園純情乙女組」がその文脈に乗っている(乗ろうとしている)ことは明白だ。
“バナナ学園純情乙女組「バナ学バトル★☆熱血スポ魂秋の大運動会!!!!!」” の続きを読む

あうるすぽっとプロデュース「おもいのまま」

◎舞台のエネルギーと身体感覚
 志賀信夫

「おもいのまま」公演チラシ
「おもいのまま」公演チラシ

飴屋の復活

 飴屋法水は80年代、東京グランギニョルによって一世を風靡した。これは怪優といわれた嶋田久作も所属していた劇団で、パフォーマンス性の強い舞台を展開した。さらに三上晴子らとM.M.Mを結成し、「スキン」シリーズで新しい前衛と認識された。また自ら血液を抜き、他人の血液を注入するなど、身体性の強い表現行為を行っている。そんな飴屋はヴェネチア・ビエンナーレに精液の作品を出した1995年以降、アート活動としては沈黙を守っていた。
“あうるすぽっとプロデュース「おもいのまま」” の続きを読む