イキウメ「太陽」

◎「象徴など、何もつかってはいない。」
 阪根正行

「太陽」公演チラシ 何かが違っていた。イキウメの新作公演『太陽』を観劇したのは日曜日だった。この週の月曜から土曜まで工場での夜勤生活を送っていた。朝日が眩しいなか帰宅し、カーテンを閉めて床に就く。日がすっかり沈んだ午後6時頃目覚め、また工場へと向かう。そんな毎日を過ごし、昼夜がひっくり返った状態のまま劇場へ向かった。確かに私自身がいつもと違っていた。しかし、違っていたのはそれだけではなかった。

● イキウメらしい!?

 今回の『太陽』もイキウメらしい「明晰」な作品であった。1つ1つの言葉のやりとりを大切にし、1つ1つのシーンをきっちりと演じ、そうやって丁寧に積み重ねてゆくことで、誰も見たことのない世界へと観客を導いてゆく。

 『太陽』というタイトルから読み取れるように、「光と影」、「陰と陽」、「昼と夜」を対比させながら、人間らしさ、あるいは人間らしくなさをうまく描いていた。このような対比によって今ここで起こっている問題を分かりやすく提示しつつ、様々な対比を織り交ぜることで複雑な様相を描くというのは、戯曲を担当する前川知大氏の十八番であり、またその対比を克明に示しつつ、複雑な世界を再現するのは浜田信也氏、盛隆二氏らを始めとする俳優陣の腕の見せどころ。『太陽』もこれまでのイキウメ作品に負けず劣らず、両者ががっぷり四つに組みあった完成度の高い作品であった。しかし、それでも何かが今までとは違っていた。

● 『太陽』のストーリーライン

 四十年程前、世界的なバイオテロにより拡散したウイルスで人口は激減し、政治経済は混乱、社会基盤が破壊された。

 数年後、感染者の中で奇跡的に回復した人々が注目される。彼らは人間をはるかに上回る身体に変異していた。頭脳明晰で、若く健康な肉体を長く維持できる反面、紫外線に弱く太陽光の下では活動できない欠点があったが、変異は進化の過渡期であると主張し自らを「ノクス」(ホモ・ノクセンシス = 夜に生きる人)と名乗るようになる。

 ノクスになる方法も解明され、徐々に数を増やす彼らは弾圧されるが、変異の適性は三十歳前後で失われる為、若者の夜への移行は歯止めが効かなくなった。次第に政治経済の中心はノクスに移り、遂には人口も逆転してしまう。ノクスの登場から四十年、普通の人間は三割程になり、ノクス社会に依存しながら共存している。

 かつて日本と呼ばれた列島には、ノクス自治区が点在し、緩やかな連合体を築いていた。都市に住むノクスに対し、人間は四国を割り当てられ多くが移住していたが、未だ故郷を離れず小さな集落で生活するものもいた(※1)。

 『太陽』は、前川氏が得意とする近未来を舞台としたSF劇である。冒頭のシーン、いきなり緊張がみなぎる。誰かが死んだ、誰かが誰かを殺したのだと分かる。殺したのは人間で、殺されたのは対立するノクスだと分かる。ノクスが支配的になった世界において、人間にとってこの事件は致命的だ。殺した人間は逃走し、残された人間たちはノクスから経済封鎖に遭うなど、存続の危機に立たされる。

「太陽」公演写真
【写真は「太陽」公演の舞台 左から大窪人衛、浜田信也。 撮影=田中亜紀 提供=イキウメ 禁無断転載】

 生きることに疲れていく人間たち。特に大人は日に日にその色を濃くしていく。端的に言って、彼らに希望はない。他方、子供たちのなかにはノクスに対して、また未知なる世界に対して強い興味を示す者もいれば、人間であることを受け入れてそのままでありたいと願う者もいる。
 大人たちは、まだノクスになれる可能性のある子供たちがノクスになることを望んでいる。しかしノクスになり延命することが果たして希望と言えるのか? 子供たちに希望がないとは言えないが、突き詰めれば何が希望なのかは大人か子供かを問わず、誰にも理解できない。

 対して夜に生きるノクス。太陽の光に接していないからか、人間に比べて生きている様子が不自然である。血が通っている感じがしない。ノクスの中には大人しく気前の良い者もいるが、やはり人間に対して軽蔑の眼差しを向ける者もいる。舞台となっている人間の集落出身でノクスに変異した者は、集落に留まり人間でありつづける同郷の者に対し、優越感たっぷりに驕り高ぶる。彼らには人間が惨めにみえて仕方がない。なぜそこまで苦しい思いをして生きようとするのか? 理解できないとばかりに冷ややかな態度で突き放す。

 人間とノクスの対比、対立の関係は明白であり、ノクスが優位であること、またノクスが支配し、人間が支配を被るという関係も明らかである。そういったなかで、お互いに拒絶し、憎しみあう者もいれば、お互いを受け入れ、友好的に接しようとする者もいるというように、両者の関係はなかなか複雑ではあるが、『太陽』という作品は、その様相が「明晰」に描かれている。

● 『太陽』は対立劇なのか?

 『太陽』という作品は完成度が高いので評価できるが、この手の対立を描いた作品は過去に無数に存在する。小説であったり、漫画(アニメ)であったり、映画であったり、演劇であったりと表現の手法は様々ではあるが、このような対立劇を我々は何度も何度も体験している。

・『モモ』(人間/灰色の男たち)
・『猿の惑星』(人間/猿)
・『銀河鉄道999』(人間/機械化人)
・『風の谷のナウシカ』(人間/自然)
・『アバター』(人間/宇宙の原住民),etc.

 このような対立劇は紋切型と言い捨ててもいいようなものだが、何度も体験しているにもかかわらず消化できていないというのも事実である。例えば、『モモ』は何十年も前に書かれた作品であり、書かれている内容もさほど難しくない。にもかかわらず、リーマンショックなどが平気で起こってしまう昨今の経済事情を思えば、頭を抱えてしまう。それは『太陽』を観ても同様である。絶望的な気分にもなるし、終始気持ちが穏やかではなく、単なるフィクションとして突き放すことができない。

 ただ『太陽』にはこのような対立劇としての一面もあるが、それ以上に重要な点がある。戯曲を書いた前川氏自身も言うように(※2)、『太陽』はリチャード・マシスンのSF小説『アイ・アム・レジェンド』からインスピレーションを受け、書かれている。この作品について私は原作は読んでいないが映画は観たことがある。

 ガンの撲滅を目的として開発されたワクチンが、副作用を起こして人間を凶暴なゾンビへと変質させる。そのゾンビは夜しか活動できないがその凶暴さ故、人類を滅亡の危機に陥らせる。それに抗って、主人公である人物が彼らを絶滅させる方法を考えだし、最後に自らの命を犠牲にしてゾンビを死滅させることによって、人類を救う。

 あくまでも映画版の話だが、『アイ・アム・レジェンド』が説いている問題は、結末の1点に集約されていると言っても過言ではない。つまり9.11の自爆テロに震撼させられたアメリカが、その恐怖に打ち克つために、自らの秘めたる力を、自らの命を断ってでも人類を救おうとするこの主人公に投影し、顕示しようとした。この作品にはそういったアメリカの事情が色濃く映し出されている。

 対して『太陽』はどうか? 『アイ・アム・レジェンド』と設定は非常によく似ているが、結末が決定的に違う。『太陽』の場合は最後に、人間を支配していたノクスが、実は出生率が一向に上がらないこと、生命体としては不完全であることが告白される。

 前川氏は『アイ・アム・レジェンド』を読んで、正義が反転してしまうのが衝撃的だったと語っている(※2)。つまりガン細胞を撲滅させるという絶対的に正しい行為が人類を滅亡させることになるという反転。
 『太陽』で言えば、絶対的な強さを誇ると思われたノクスが実はすでに滅亡の一途をたどっていたという反転。前川氏は、この逆転現象を物語のネタとしてではなく、世の中の真理であるという確信があったからこそ、『アイ・アム・レジェンド』と瓜二つと言われようとも『太陽』という新たな作品を書き上げ、発表するに至ったのであろう。

 しかし、この点に留まってはならない。もう一歩踏み込んで考えてみよう。前回公演『散歩する侵略者』の上演台本に収録されている前川氏と映画監督の黒沢清氏との対談において、ふたりは幽霊についてこのように語りあっている。

前川:単純に「幽霊がでるから怖い、だから殺せない」ではなくて、もし人を殺してしまって、そのことで見ている世界がこんなふうに変わってしまうとしたら、なんて恐ろしいんだろうと。罪の意識が変えていくものの大きさと言ったらいいんでしょうか。モンスターと違う怖さって、そこなんでしょうね。

黒沢:だと思うんですよね。モンスター的なものは襲いかかってくるのが怖いんですけど、戦えるじゃないですか。負けるかもしれないけど、立ち向かうことができる。でも幽霊的な存在は絶対的なんですよ。自分たちがやってしまったことは認めるしかない、戦えないんですね(※3)。

 さて、『太陽』の結末を今一度考えてみよう。その結末は、ノクスが生命体として不完全であることが暴露されるとともに、ノクスになりたいと強く願っていた人間の少年が人間であることに希望を見出すというものである。この結末によって観客は、「ノクスはやっぱりダメなんだ、人間で良かった」と思う。あるいは、「この少年が人間を救ってくれるに違いない」という気持ちになる。そして劇中で味わった苦しみから開放され、希望に満ちて家路につく。

 しかし事態はそう単純ではなく、もう少し複雑である。人間とノクスの力関係を考慮すれば、人間が簡単に復権することはないだろう。またノクスの不完全性を暴露し、自らの死を選ぼうとした医師のようにノクスみんなが潔いとも思えない。一番考えられるのは、ノクスがノクスの存続のためだけに人間を培養することである。また問題なのが、若く健康な肉体を長く維持できるとされるノクスの数的均衡がどのように図られるのかである。
 そこにはノクスがノクスを虐殺する必然性が伺われ、ノクスが人間を巻き込みながら滅亡してゆくことが予想される。『太陽』という作品が投げ掛けるのは「敵と戦えない」、つまり「勝者がいない」という気持ちの悪さ、恐怖である。

「太陽」公演の舞台写真
【写真は「太陽」公演から 左から安井順平、伊勢佳世、盛隆二。撮影=田中亜紀 
提供=イキウメ 禁無断転載】

● 混沌(外からの抑圧)

 完全な生命体と思われたノクスに、実は決定的な欠陥があることを告白された時、私の頭によぎったのは2011年3月11日以後のこと、端的に言って、原子力発電所のことだった。原発の安全神話がいとも簡単に崩れ去ってゆく。放射能という目に見えない敵。大丈夫なのか?否か? 事態が判明したときにはもう手遅れ。私以外の人のなかには『太陽』を観て、TPPを想起した人もいる。欧州危機を想起した人もいる。この世は一体全体どうなっているのか? 『太陽』において描かれた世界と同様、我々自身が住んでいるこの世界に、勝者はいない。

 何かが違う、そう思わせたのは『太陽』という作品に終始つき纏うこの気持ちの悪さ、言うなれば「混沌」である。それにしても2011年は腑に落ちない事態が続けて起こった。某新聞の文学を総括する記事でも「混沌」という言葉で締められていた(※4)。2011年という時代自体があまりにも「混沌」に過ぎた。

 またイキウメにとっては劇団員の窪田道聡氏が偽装結婚の容疑で逮捕された件が重くのしかかる。本人に罪の意識があったのか否かは定かでないにしろ、起こしてしまったことは取り返せない。演劇を通じて、フィクションを通じて世の中に対する危機感を打ち出すことを団是(※5)としていた彼ら自身が事件を起こすことによって自家撞着を起こしてしまった。フィクションをフィクションとしては受けとめてもらえない。ここに彼らの、そして『太陽』という作品の苦悩がある。

 これらを考慮すれば、『太陽』は「混沌」とならざるを得なかったのだ。その際、「混沌」をいかに回避するかの手腕が問われたと考えることもできるが、この状況下ではイキウメが『太陽』において試みたように、「混沌」のさなかにそのまま突っ込んでいってよかったのではないか。そして、そこで何が現れるかが問われ、現れたのが『太陽』という作品であったのだ。

● 混沌(内からの衝動)

 『太陽』という作品は「混沌」に支配されている。しかし、これはイキウメの敗北を意味するのだろうか?  私が別の視点で注目したのはストーリーではなく、舞台を目で観て受けた『太陽』の印象である。
 ストーリーにおいて太陽は重要なモチーフになっている。これは舞台においても同様である。私が期待したのは、東京公演が青山円形劇場での上演ということで、円形の舞台を太陽のイメージに重ね合わせることで、太陽をより一層際立たせることであった。しかし期待に反して、その使い方は実に凡庸であった。おそらく太陽をイメージしたであろうペインティングが円形の舞台になされてはいたが、何が描かれているのか、抽象的でよく分からなかった。また舞台の使い方も円形の特徴がさほど活かされてはいなかった。これまでのイキウメ作品において、例えば『関数ドミノ』にせよ『プランクトンの踊り場』にせよ、舞台が抽象的と言えばその通りである。しかし空間の繋がりであったり、分節をうまく使い、また机や椅子などの小物を効果的に使い、less is more(より少ないことは、より豊かである)を実現していた。もちろん円形の場合、今まで通りにはいかないが、太陽の持つ、象徴性や完全性が円形の舞台によって強調されると思いきや、そうではなかった。
 今までとは違い、なんとも中途半端というか、実に「混沌」としていた。

 ただ、ここに疑問が浮上する。「ストーリーから感じられる混沌」と、「舞台を観て感じられる混沌」とは果たして同じであろうか? ストーリーにおいてはイキウメの、前川氏の方法が徹底されていた。にもかかわらず、混沌とした空気が終始取り巻いていた。おそらく、この「混沌」は外からの抑圧によるものであろう。

 対して、舞台を観て感じられる混沌はどうか。イキウメらしさがなく、シークエンスに乏しく、舞台の使い方に工夫がない。だから混沌としているのだと言えばそれまでだ。だがしかし、ここには前川氏の判断が働いていると考えられないか。この方法が前川氏の意識か、あるいは無意識かは分からないが、この「混沌」は前川氏の内からの衝動と考えられないだろうか。前川氏は、円の完全性、象徴性を際立たせるのではなく、逆に「ごた混ぜ」にしたのではないか。

● 「太陽」と「邪魔された影」

 『太陽』の舞台に描かれていた絵、そしてこのごたまぜ感の強い舞台の使い方。これは抽象的でかつ分かりづらかった。ここから私が想起したのは、映画監督の羽仁進氏が語っていたナバホ・インディアンの少年が撮影した「邪魔された影」という映画である。

 森だけ、森のなかの木々がおたがいに、写しあう影だけである。それなのに、見ていると、胸が苦しくなってくる。感動で、胸がいっぱいになるのだ。
(羽仁進・「邪魔された影」という短い映画について※6)

 羽仁氏がこの映画作品を評価したのはどういうことだろうか? 少し長くなるが重要なので氏の著作からそのまま引用する。

 僕は、数年前、「邪魔された影」という短い映画を見た日のことを、いまもはっきりとおぼえている。この映画は、三十分たらずのものだが、全篇の映像のほとんどが、森のなかの影ばかりを写している。あとはわずかなものしか出てこない。いちど、コロコロと、テニスボールのようなものがころがってくる。それから、しゃれた運動靴をはいた足が、いちどだけ、森のなかに入ってきたところが写る。また、これもいちどだけ、アメリカ・インディアンのお面がうつる。あとは、森だけ、森のなかの木々がおたがいに、写しあう影だけである。それなのに、見ていると、胸が苦しくなってくる。感動で、胸がいっぱいになるのだ。宇宙のなかでの、人間の再発見。しいて言葉にすれば、そうとしかいえない。生きること、それ以上に死ぬことが、一瞬のうちに、見る者の心のなかで、変って見えてくる。そんな、深い力が、このまったく静かなフィルムにはあった。

 静かというのは、その内容だけのことではない。この映画には、音はなにもついていない。サイレントである。そもそもこの作品は映画というほどのものとしても、扱われなかった。だいたい、作者が、ひとりの少年、それもナバホ・インディアンの少年なのである。少年は、もちろん、はじめてカメラを手にしたわけだ。はじめて撮ったフィルムである。少年は以前にも、映画を見たことはなかった。彼はナバホ族の居留地に住んでいたのである。そこに、フィラデルフィア大学の人類学者がやってきて、何本かの映画を見せ、映画に興味をもった数人のインディアンにカメラを貸して、自分の作りたい映画を作らせた。ただ、それだけである。

 この映画は、僕が主賓として招かれた、フラハティ国際セミナーで映写された。主賓である人間が激賞したので、議論の対象にはなったが、多くのアメリカの映画作家には、この作品はひどく難解らしかった。この映画にあらわれてくる象徴は、あまりに特殊で、さっぱりわからない、と彼らはコボした。しかし、そういう見方が、すでに、この映画を、勝手に難解にしているのである。自分の部族のお面をのぞけば、少年は自分の属している集団の約束による象徴など、何もつかってはいない。そのお面も、じつにユーモラスな子どもらしいあつかいで、少年そのひとが、森のなかから、闖入してきた白人(運動靴)を、みているナイーブな表現である。

 少年は、自分の感じたままを、カメラをとおして見いだし、フィルムにそれが刻みつけられてしまっただけだ。人類学者に聞いてみると、少年は、学者のみせた映画のどれにもそれほどの興味は示さなかった、ただ、カメラをもって歩いているうちに興奮してきたのだ、という話だった。いままで、木だけの、しかも木の影だけの映画など、なかった、というようなことは、まったく知らないのである。自分の感じたもの、自分の生きている感覚そのものが、フィルムになっていたのだ。大きな自然のなかで、その一部として生きている感覚、森のなかでおこりうるあらゆるドラマは、彼にとっては、ドラマでもなんでもないのだろう。死さえも、自然の一部なのだ。かえって、森の外の人間、自然を支配しようとする人間の存在だけが、異常なおどろきとして、記録されている(※7)。

● 前川知大と羽仁進

 このような一見何か分からないような映像に興味を示す羽仁氏ではあるが、氏の手掛ける作品は非常に「明晰」である。『法隆寺』『志賀直哉』など何本かを私も実際に見たことがあるが非常に分かりやすい。それぞれのカットをきっちりと撮り、丁寧に繋げていく。これは前川氏の演劇に取り組むスタンスに通じている。羽仁氏は記録映画を探究する延長上にリアルを捉えているのに対して、前川氏はフィクションを突き詰めたその先にリアルを捉えている。両者の創作における取っ掛かりは異なるが、創る作品が「明晰」であるという点で繋がっている。

 そんな羽仁氏が「邪魔された影」という映画を評価するのは何故か。何か分からないものには2種類ある。まったくデタラメなものか、あるいはちゃんとリアルを捉えているものか。そして後者と羽仁氏が手掛ける「明晰」な作品は同じく「リアル」であり、繋がっている。両者は同じ問題意識の上にあり、決して矛盾してはいない。

 前川氏の場合も、『太陽』から感じられる「混沌」が、イキウメの完全な敗北を意味するのではない。たとえ完璧ではなくとも、この作品はちゃんとリアルを捉えているのであり、これまでイキウメがやってきたこと、前川氏が手掛けてきた「明晰さ」と繋がっている。

● 結び

 かつて私は『表と裏と、その向こうに』の劇評において、テストとして採点すれば満点である。しかし、作品としては何かが欠けているという評価を下したことがある(※8)。その観点からすれば、『太陽』はテストとして採点した場合、特に舞台の使い方において、もう少し工夫できたのではないかということで、満点はとれないかもしれない。しかし「混沌」、何かよくわからないがリアルと言える何ものかを捉えたことで、作品自体としての評価は、『太陽』の方が『表と裏と、その向こうに』よりも優れていると言えるかもしれない。作品自体としての魅力、その徴候が出てきたのが『太陽』なのである。やはり今までとは違っていたのだ。

 今後のアプローチとして、今までの方法論を投げ捨てて「混沌」のさなかに自らを放り投げることも一案ではあるが、私としては今までのイキウメの方法論をさらに突き詰めることで、「混沌」を突き抜けてほしい。その際に、羽仁進氏の創作がヒントになる。特に羽仁氏の類稀な観察力は、イキウメに、そして前川氏に大きな刺激を与えることであろう。

[追記]
★羽仁氏には『彼女と彼』という傑作がある。1963年の日本における新興団地と場所を追われるバタヤ集落という異なるコミュニティの様相が実にリアルに作品化されている。ここでは詳しく述べないが、イキウメの『太陽』と繋がっている。機会があれば鑑賞することをお勧めする。

★本劇評では俳優陣について触れることができなかったが、『太陽』 ではイキウメ俳優部のなかでも舞台経験がまだ少ない大窪人衛氏と加茂杏子氏の熱演が光った。作品は、ふたりが演じた少年少女の心理の変化を軸に展開していく。感情のアップダウンが激しい難役をふたりは見事に務めた。『太陽』はイキウメの新たなるスター候補の登場を実感した舞台でもあった。ふたりの、そしてイキウメ俳優部の今後の躍進が楽しみでならない。

[註]
※本論執筆にあたり、『六号通り診療所所長のブログ』の11月20日に掲載されたイキウメ『太陽』の感想を参照した。(http://rokushin.blog.so-net.ne.jp/2011-11-20)
※1 『太陽』公演用パンフレットから引用。ただし改行に関しては変更した。(http://www.ikiume.jp/koremade_13.html)
※2 朝日新聞インタビュー2011年11月10日夕刊掲載・前川知大氏へのインタビューを参照した。(http://www.asahi.com/showbiz/stage/theater/TKY201111100281.html)
※3 『散歩する侵略者』上演台本所収 p.62.
※4 日経新聞2011年12月8日朝刊掲載・「回顧2011 文学」参照のこと。
※5 『散歩する侵略者』上演台本所収 p.59.を参照した。
※6 羽仁進『人間的映像論』(中央公論社)1972年 p.181.
※7 同上 pp.180-182.
※8 拙ブログ(阪根Jr.タイガース2008年7月2日)参照のこと。

【筆者略歴】
阪根正行(さかね・まさゆき)
 学生時代、建築を学ぶ。設計事務所、書店勤務を経て、現在、工場勤務。
個人ブログ(阪根Jr.タイガース:http://d.hatena.ne.jp/masayukisakane/)等で劇評を発表。ツイッターで「書店員→工場員日記」を連載中!

【上演記録】
イキウメ『太陽
東京公演: 2011年11月10日- 11月27日青山円形劇場
大阪公演: 2011年12月2日 – 4日ABC ホール
作・演出:前川知大
出演:浜田信也、盛 隆二、岩本幸子、伊勢佳世、森下創、大窪人衛、加茂杏子、安井順平、有川マコト
舞台監督:谷澤拓巳
美術:土岐研一
照明:松本大介
音楽:かみむら周平
音響:青木タクヘイ
衣装:今村あずさ
ヘアメイク:西川直子
演出助手:大堀光威、福本朝子
制作:中島隆裕 吉田直美
主催:イキウメ/エッチビイ

「イキウメ「太陽」」への5件のフィードバック

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