あうるすぽっとプロデュース「おもいのまま」

◎舞台のエネルギーと身体感覚
 志賀信夫

「おもいのまま」公演チラシ
「おもいのまま」公演チラシ

飴屋の復活

 飴屋法水は80年代、東京グランギニョルによって一世を風靡した。これは怪優といわれた嶋田久作も所属していた劇団で、パフォーマンス性の強い舞台を展開した。さらに三上晴子らとM.M.Mを結成し、「スキン」シリーズで新しい前衛と認識された。また自ら血液を抜き、他人の血液を注入するなど、身体性の強い表現行為を行っている。そんな飴屋はヴェネチア・ビエンナーレに精液の作品を出した1995年以降、アート活動としては沈黙を守っていた。

 しかし、2005年、『バ  ング  ント』展(バニシングポイントに空白)によって活動を再開した。それは、箱の中に24日間、1人で入り続けるというある意味で古典的なパフォーマンスであった。なぜなのか。その問いがきちんと発せられることはなかったように思うが、それはアートの前衛のカリスマ的存在になっていたからだったろう。

 以降、飴屋は徐々に活動を再開し、2007年、静岡県舞台芸術センター(SPAC)の平田オリザ作『転向生』で一般の高校生を演出、そして優れたアーティストとのコラボレーションも行ってきた。例えばコンテンポラリーダンスの黒田育世とのデュオ『ソコバケツノソコ』は、演出を飴屋が行った。2010年1月、三軒茶屋のシアタートラムでの公演は、いくつかの展開はあったが、全体としては、散乱する衣装やモノたちの中で黒田がいつものエネルギーで踊るという印象だった。

 その意味でも近年の飴屋の活動として特筆すべきは、そのちょっと前、2009年11月にフェスティバル/トーキョーで行った舞台『4.48サイコシス』だった。今回と同じあうるすぽっとで行われたこの公演は、英国の早世した「狂気」の劇作家サラ・ケインの作品。飴屋は舞台と観客席を逆転させ、山川冬樹を宙吊りにし、さらに舞台全面に真っ赤な「血の池」を配して、そこに電話ボックスや山川が沈んでいくという演出で、鮮烈な舞台を作り上げた。

 そんな飴屋の印象だけに、今回の『おもいのまま』を見て、意外だった。舞台装置は建てかけのような骨組みの残る別荘で、通路や上手奥の搬出口も使ったが、全体として極めてまっとうな「演劇的」演出だったからだ。音楽や音響、役者の語りのアクセント、メリハリなどにも個性は見えるが、前衛の旗手、飴屋という見る側のイメージと異なった。しかしそんな先入観を打ち破りながら、舞台は強く迫ってきた。

「おもいのまま」制作発表会
【写真は、制作発表会で。左から山中崇、佐野史郎、飴屋法水、石田えり、音尾琢真。2011年4月7日、
池袋・あうるすぽっと 禁無断転載】

不条理のリアリティ

 舞台は別荘の居間のような中で、40代とおぼしき実業家佐野史郎と30代後半のその妻、石田えりとの会話で始まる。豊かで優雅な生活の雰囲気の中にドアチャイム。2人の男が闖入してくる。男たちはテレビに出ているレポーター。強引に入り込んだ2人は、夫婦の一人息子の話を始める。「子どもはいま不在」と言い張る夫婦に対して、先日見つかった死体のことを語り、そして「夫が息子に保険金をかけて殺したのではないか」と追究する。2人は夫婦を縛り上げ、夫の骨を折り、真実を語らせようとする。そして、しぶしぶ認めた夫と妻に対して、2人を殺そうとする。2人はそうやって、これまでも強引な取材の挙げ句、相手を何人も殺して闇に葬ってきたのだという。そんな2人を仲間割れさせて夫婦は助かろうとするが、結局、殺されてしまう。その最後で、妻は「もしあのとき、もう一度やり直せたら、いま私は何をしているのだろう」とつぶやく。

 ここまでの舞台展開に観客は見事に引き込まれた。特に夫婦を演じる佐野史郎と石田えりの演技は秀逸だ。夫の佐野は、富裕な実業家だが実は事業に失敗して借金を抱えている。そして隠していたSMビデオなどが見つかり、いたぶられ、挙げ句は殺される。その役柄の情けなさを演じて、実に巧みである。佐野史郎といえば、かつてドラマ『ずっとあなたが好きだった』(1992年、君塚良一脚本)でマザコン男「冬彦さん」を演じてブレイクした。こういう情けない部分は本当に旨い。さらに映画『夢見るように眠りたい』(1986年、林海象監督)以降、ドラマや映画、舞台で俳優として活躍している。のみならず怪奇・幻想関係の趣味でもマスコミに登場しているが、元々唐十郎、状況劇場の役者であった。そして飴屋もかつて十代の頃、状況劇場に所属していた。音響などが担当で、それが後のビジュアルアートやパフォーマンスにつながったともいえるが、その2人と石田えりが作った舞台ということは興味深い。

 石田えりは映画『遠雷』(1980年、根岸吉太郎監督)のビニールハウスで永島敏行とのセックスシーンが鮮烈。また、ヘルムート・ニュートンが撮影したSM的な写真集も話題になり、映画・ドラマ・舞台で活動を続けている。独特の女っぽさにはっきりとした意志を感じさせる「いい女」の女優という評価を得ており、舞台でも活躍している実力派である。最近では緒形拳の遺作となった倉本聰のドラマ「風のカーテン」(2008年)が印象的だった。また、2009年に劇団1980・新宿梁山泊『宇田川心中』(小林恭二脚本)の打ち上げに来ていた石田と少し話をしたところ、その舞台にかける意識の高さは並々ならぬものとうかがわれた。

 この舞台でも、佐野史郎が裕福な企業経営者から、暴力によって縛られ情けなくなっていくのに対し、助かろうという意志を示して行う犯人との駆け引きなどに、石田の自由かつ主張のあるキャラクターが生きていた。若手の犯人役2人、音尾琢真と山中崇も力演ではあるが、この佐野史郎、石田えり夫婦2人の存在感には勝てない。

 この物語は、何の変哲もない優雅な暮らしをする夫婦の秘密を暴き出し、そして、会社が傾いているゆえに保険金のために自分の子どもを殺したという犯罪が暴かれていく。ただネタとしては「子殺し」はいいのだが、「殺し」のプロセスなど丁寧さに欠けるため、その部分のリアリティはない。そのリアリティが強まると「犯罪」がもっと浮かび上がるように思う。もちろん筆者が描こうとしているのはその犯罪そのものでなく、2人の闖入者によって、一見平和な家庭が壊され、黒い部分が浮かび上がる点であるし、さらに「子殺し」は妄想ともなる設定なのだ。だが、だからこそ、その子殺しにリアリティが高まったほうが全体に重みが出たとも思う。

違う道

 物語は闖入者によって夫婦が殺され、いったん終わる。1時間余りが経過しているので、せっかちな観客は終わったかと思うかもしれない。そのくらいにはっきりと物語は一度完結する。だが「休憩に入ります」のアナウンス。そして2幕が始まる。

 この場合、実は「その後」が描かれるか、「子殺し」という過去が描かれるか、「繰り返される」かという予想が成り立つのだが、舞台は繰り返される。くつろぐ夫婦に2人の闖入者。しかし、冒頭の断り方から少しずれてくる。そのちょっとしたずれが、物語を変える。同様に2人は縛られるが、夫は子どもを殺してないという結果になる。観客としては、そこでは、「子どもは妻が殺した」という展開も考えられるのだが、そうはならず、殺人はなかったことになる。そして、結果として2人は放免される。

 芝居の中で何度か語られる、「もしも違う道を選んでいたら」という、些細な要素で運命が覆されるということが、物語の明確な一つのモチーフでもある。実は2つの物語の冒頭で、妻が古いアルバムを見ながら語ることがある。「子どもの頃、ピアノなどお稽古事をいくつもやったけど、どれも身につかなかった。人生にはいくつかの選択をする場面があり、それによって変わってくる」と。その瞬間は、ちょっとした一言だったり、大事な選択だったり、あるいはロールプレイングゲームの構造だったりするのだが、それによって物語は、いくつも派生する可能性を持つ。

 この芝居の中では二つの結末が選択されて、さらにまだ続くことが暗示されるのだが、2つ目は、ハッピーエンドではないほうがいい。それが「希望」につながるという描き方で結果として「安心」に落ちつくのは、震災後という状況にはふさわしいかもしれないが、そこに安定して収まってしまうことには、僕個人には少々不満が残る。また、2幕で2人組の片割れがいう「殺してない人を殺せない」という理由は、少々真っ当すぎるし、リアリティがない。殺してないのに殺されてしまうほうが、物語として不条理感と厚みを増すのではないだろうか。

 また、選択肢としては、妻の秘密が暴かれる、妻が子どもを殺した、子どもは元々いなかった、妻が夫を殺す、夫婦が2人を殺してしまう、2人が夫婦を殺した後に別の闖入者があり立場が逆転する、闖入者がどんどん増えて混沌を極めるなど、色々考えられる。こう考えると、いくつかのヴァリエーションを作ってもいい。

舞台という生もの

 舞台を見終わってふと見ると、飴屋がミキサーのコンソールに張りついていた。音楽のみならず音響も担当しているのだ。そういえば黒田育世とのデュオのときも同様に、ミキサーに向かってライブで音を流していた。通常、演出家は舞台が始まってしまえば、ある意味では役者任せで、舞台に出ていって指示するわけにはいかない。しかし、音響や照明の担当者は舞台自体に直接参加している。「なるほど」と思った。飴屋はあくまで舞台に生で参加したいのだ。所属していた状況劇場、唐十郎の舞台はいまでも役者が受付、照明や音響を兼ね、それぞれがまるごと舞台に参加する。また唐十郎自身、脚本を書き演出をし、役者として演じる。1960年代後半から50年近くそれを続けている。年に2回舞台をつくり、1回は必ず新作。いまも水槽に入って登場したり、泥の中を這いずったりする。こんな演劇人はおそらく世界にいない。それはさておき、飴屋が十代で5年間、唐の状況劇場にいたことと、現在のこういった生のライブで舞台に参加しつつ舞台をつくるということは、無縁ではない。

 近年、アートマネジメントが流行り、美術のキュレーションや舞台の制作などを志す女性が増えている。しかし実際は小劇団の制作はお金にならない。大学などで講座もあるが、講師も元々予算のある公共劇場やメセナの人などで、果たして実践的といえるのか、個人的に疑問を抱いている。輸入された「マネジメント」や助成金の取り方を学ぶよりも、まずは、自分の力で生の舞台に魅力を感じ、関わり、作り続けるといったエネルギーこそ重要ではないか。飴屋の舞台への関わり方には、そんな生の舞台、ライブ感覚を強く感じるのだ。それはまた一方で、身体性にも関わってくる。飴屋は自分の血液を抜き、他人の血液を体内に入れ、精液、「スキン」など、常に身体にこだわってきた。24日間箱に閉じこもるなど、自分の身体をもって実践してきた。その身体感覚こそ、いまの舞台や舞台関係者に少々欠けているもののように思う。

 今回の舞台の音にも身体感覚を感じる部分があったが、それをもっと拡張してはどうだろう。山川冬樹のような身体の発する音のみで、舞台の音を構成するなどの試みは、ある種のリアリティを獲得するのではないだろうか。飴屋はそういう意図のことをこれまでも行っていた。だが、今回のようなオーソドクスな脚本の舞台にそれをぶつけると、もっと異なる効果が生まれるのではないか。今回は脚本の物語性に依っている部分が大きいが、できればもっともっと飴屋の個性を強く出してほしいという気持ちがある。ともあれ、今後も活動に目が離せないアーティストであり、美術、舞台、コラボレーションなど、何が出てくるか楽しみである。

【略歴】
 志賀信夫(しが・のぶお)
 1955年12月東京都杉並区生まれ。埼玉大学大学院修士課程修了。関東学院大学社会人講座講師。批評家。舞踊学会、舞踊批評家協会所属。身体表現批評誌『Corpus』編集代表。JTAN(Japan Theatre Arts Network)代表。編著『凛として、花として、舞踊の前衛、邦千谷の世界』。主宰サイト「舞踏批評―Critique de Butoh」。

【上演記録、リンク】
あうるすぽっとプロデュース「おもいのまま

演出・美術・音楽デザイン:飴屋 法水
脚本:中島 新
出演:石田 えり、佐野 史郎、音尾 琢真(TEAM NACS)、山中 崇

照明:黒尾芳昭
音響:zAk
舞台監督:寅川英司+鴉屋、鈴木康郎
美術コーディネート:大津英輔+鴉屋
演出部:佐藤恵、坂本千代
小道具:栗山佳代子
演出助手:安ハンセム
衣裳:杉本誠子
ヘアメイクデザイン:勇見勝彦
写真:須田壱
宣伝デザイン:福田泰彦
宣伝グラフィック:吉井純、高橋義太郎
Web担当:中村剛、原茂雄
協力:アァ ベェ ベェ、アミューズ、クリエイティブオフィスキュー、ザズウ、ファインベリー、アザー、FAKE、THYMON Inc.、スタジオゼット、フロッグアイjp、トップシーン、オフィス・REN、コロスケ
広報:小沼知子、票券:荘司雅子
制作:藤野和美、迫田予理子、笠井秀敏
プロデューサー:佐藤智広
企画・製作:トライアングル C プロジェクト

【公演日程】
▽東京・東池袋
あうるすぽっと(2011年6月30日-7月13日)

▽愛知・長久手町
長久手町文化の家(7月15日)
▽愛知・豊川市
豊川市ハートフルホール(7月16日)
▽大阪
岸和田市立浪切ホール 大ホール(7月17日)
▽熊本
崇城大学市民ホール(熊本市民会館) 大ホール(7月20日)
▽兵庫
兵庫県立芸術文化センター 阪急中ホール(7月22日)
▽山口
山口情報芸術センタースタジオA(7月23日-24日)
▽佐賀
佐賀市文化会館中ホール(7月26日)
▽長崎
長崎市チトセピアホール(7月28日)

▽東京・葛飾
かめありリリオホール(7月30日-31日)

▽茨城
つくばカピオホール(8月4日)
▽北海道・室蘭
室蘭市文化センター 大ホール(8月7日)
▽北海道・札幌
札幌市民ホール(8月8日)
▽岩手
北上市文化交流センター さくらホール 中ホール(8月10日)

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