◎男と女の距離と作品と作品の距離、そして観察者
高木龍尋(大阪芸術大学大学院助手)
France_panの公演は観ようと思っていた。というのも、前回公演「前向きな死に方」(2007年3月、精華小劇場)が私にとって衝撃的な作品だったからである。関西、というよりも大阪の小劇場には珍しく、何もしない、作品だった。何もしない、というのは勿論、芝居をしない、ということではない。舞台の上から観客の反応、つまりはウケを無闇に狙わないということだ。ひとりのダメ男が自殺するまでを淡々と舞台の上に載せてゆき、後方に張られた男の生命線となっている赤い糸を自ら切る瞬間へと集中してゆく作品には、観客に媚びたような箇所は全くなかった。ただ、作品の中の時間を進めてゆく…… それがダメ男の感覚の虚無と異常を客席にまでしのばせてきていた。
讃岐うどんと団扇で知られる香川県の丸亀で芝居を観た。盛夏の数日を旅に出たいと思っていた矢先、四国で再演される舞台があるという話を耳にした。2005年2月に紀伊国屋サザンシアターで初演された劇団文化座の「二人の老女の伝説」で、私は観そびれていた。タイトルロールの二人の老女を佐々木愛と新井純が演じると聞き、ぜひ観てみたいと思った。そこで旅は四国と定め、この芝居の観劇を旅程に加えた。さいわい出発までに間があったので、つてを頼って上演台本を送ってもらった。台本の表紙には<コーラスと音楽を伴うドラマ:二人の老女の伝説:ヴェルマ・ウォーリス『ふたりの老女』、星野道夫『森と氷河と鯨』他による。脚本・詞・演出=福田善之>とたくさん文字が並んでいる。これは大変。そこで今度は図書館へ走り、ウォーリスと星野道夫の本を借りてきて読んだ。両方ともこの夏の猛暑を忘れるほどの面白さだったが、芝居に対する興味と同時にまた疑問も膨らんで来た。
ひたすらに隠し続けていた秘密が明かされた瞬間。劇場中に響きわたったのは、真っ白な肌を持つ、女の慟哭だった。やり直しがきかない現実は存在する。泣きわめきながら、周囲の人々の足元にすがりつく女の姿は、その事実を嫌というほど観客に知らしめていた。許しはどこにもない。味方は誰もいない。果てしなく広がる絶望。そんな孤独の中で生きる地獄よりも死を選んだ女は、むしろしあわせだったのではないかと思えた。光なき世界をまえに、愛する男の手によって息絶えることが、女にとっては最大の救いだったのかもしれない。脳裏に焼きついた作品の内容を思い浮かべながら、ぼんやりとそんなことを考えた。
広々と何もない舞台奥の暗闇から現れる行列。まるで地平線のかなたから歩み出たかのようだ。照明で作られた大きな円に沿って、輿に乗った怪物のような巨体の祖母(瑳川哲朗)に、極端に長い柄のこうもり傘をさしかけた貧弱な徒歩のエレンディラ(美波)、そして使用人たちが家財道具を運んでいく。作品の舞台となる南米コロンビアの広大な砂漠のイメージだろう。登場人物たちが現れ、消える地平線の遠さが実感できるスケールの大きさだ。舞台の両サイドには物語の語り手たちを配置させる。縦横に広がる舞台空間を堪能するには舞台正面、そしてむしろ後方の座席のほうがよい。
今回四度目の来日となるイヨネスコ劇場は、ルーマニアの東側に位置する旧ソ連邦の国、モルドヴァの劇団である。モルドヴァ語での上演だったが、この言語は隣国の公用語であるルーマニア語と実質的にほぼ同一の言語だということだ。